肆-5

 薄墨色の空から、霧雨が降り始めた。舞い散る桜の花弁に混じって、楓真の頬を、細かい雫が、さらさらとかすめていく。

 桜堤を、楓真は全速力で駆けていた。今なら、街道筋に出る前に追いつけるかもしれない。

 九年だ。九年。瞳の奥に追い続けた背中に、やっと、追いつける。やっと、届く。

 馬を速める。もっと速く。霧雨のけむる先に、桜のかすむ先に、目をらして。

 全ての音が、耳から遠のく。馬のひづめの音も、吹き抜ける風の音も、はやる呼吸も、胸の拍も、走り抜ける景色に振り捨てて、ただ、まなざしを、心を、前へ、先へと、投げ、伸ばし続ける。その瞳が、求める背中をとらえるまで。その声が、求める影に、届くまで。

「……天蓬……柊哉……っ!」

 馬を止める。詰めていた息を、吐く。耳に音が戻って来る。早鐘を打つ胸の音も、荒い呼吸も、風の音も、つつみを流れるせせらぎの音も。

 霧雨と桜の舞う中、たたずむ影は、独りだった。薄墨の空と、薄紅の桜、霧雨の紗の下に、淡く灯るように浮かぶ、白い背中。

 白藍しらあいの衣が、ふわりと揺れる。すらりとした指先が、傘の垂衣たれぎぬを、そっと上げ、楓真を、静かに、振り返る。その面持ちが、楓真の瞳に、映り込む。

 陽の光に照らされずとも輝く銀の髪。傘の影の下でもまばゆきらめく金の瞳。優美な眉と端麗な唇。顔立ちは少年の利発さから青年の怜悧さへと羽化し、幼い頃よりも一層、透き通った美しさが際立っていた。

「久しいな、楓真」

 深く澄んだ声が、凛と響く。さらりと流れる前髪の下で、微笑のまなざしが、ふっと水面みなもを風が撫でるように、楓真をとらえる。魚も棲めない、清らかに死んだ湖水のように。僅かなゆがみも、にごりもない、完璧に整えられ、澄みきった冷笑――九年前の夜と、同じ。

 楓真の瞳の奥で、黒く塗り潰されていたよわい十二の兄の顔に、今、目の前にいる兄の顔が――齢二十一になった兄の顔が、重なる。

 ひらりと馬から飛び降りて、楓真は、真直ぐに、兄を――柊哉を見据みすえた。

「天蓬柊哉……お前を斬る」

 楓真の瞳は静かだった。どこまでも静かに、深く、くらく、とらえたもの全てをてつかせるような、冷たい炎が爛々らんらんと燃えていた。

「お前の言葉の通り……私は……」


「お前を怨み、憎み、生きて……お前を裁き、殺すために、ここにいる」


 ざっと風が吹き抜ける。霧雨の中、濡れた桜の花弁が、重く、舞えずにばらばらと散り、足もとを薄紅に染めていく。

 ぐっと指先に力を込め、楓真は印を結んだ。


――からめ、騰蛇とうだ


 瞬間、青白い光の帯が、柊哉の体に巻きついた。間髪入れずに、楓真は素早く、次の印を結ぶ。


――囲め、天牢てんろう


 二つの術を重ねてかける。白い光のおりが、帯で拘束した柊哉をさらに閉じ込めた。

 再び風が吹き、桜が散る。霧雨が、さらさらと頬をかすめた。

 つるぎつかに手を掛け、楓真は地を蹴る。柊哉の首をねるために。

 冷たく鋭く研ぎ澄ました刃のようなまなざしで、真直ぐに柊哉をにらみつけながら。

 そんな楓真を、柊哉は静かに見つめていた。表情も瞳も、いささかも揺れることなく。それは、穏やかというには冷たく、冷静というには意志を帯びない、その立ち姿は、まるで、微笑をたたえた硝子の彫刻のようだった。

 あと少しで間合いに入る。楓真がつるぎを抜こうと手に力を込めたとき、柊哉の瞳が、ふっと細まり、冷ややかな唇が、吐息とともに言葉をつむいだ。

「この程度か」

 はっと気付いた楓真が飛び退すさるのと、楓真の術が破られるのは、同時だった。

 砕かれた硝子の破片のように、破られた楓真の術の光が、きらきらと瞬きながら四散する。その狭間から、楓真に向かって、幾本もの白い光の矢が飛んできた。咄嗟とっさに防御の術ではじいたものの、全ては防げず、矢の一本が楓真の首をかすめていった。楓真の術を破ると同時に、柊哉は楓真に向かって術を放っていた。楓真の首筋が、僅かに切られ、血がえりに滲む。

 柊哉は、印を結ぶどころか、少しも動いた気配はなかった。指先も、まなざしも、吐息すらも、揺らぐことなく、まるで凪の水面みなもに浮かぶように、その場に、冷然と立ったままでいた。

「私の言葉の通り、と言ったな」

 柊哉が静かに、楓真に言葉を投げかける。色も温度も感じさせない声で。

「私を怨み、憎み、生きて……それで? 私は、お前に、私に並び立つほどに力が育ったなら来いと言った。それが、これか?」

 柊哉の瞳が楓真をとらえる。その瞳の奥に、ひらめく光が見えた瞬間、楓真に向かって、無数の赤い光の刃が飛んできた。

 素早く防御の術を展開し、楓真は防ぐ。一部ははじくことができたが、刃のほうが強力だった。防御が破られ、楓真の脇腹と肩と足に、焼けつくような痛みが走る。

「っ……あ……」

 痛みに喘ぎ、楓真は地面に膝をつく。えぐれた傷口から血があふれ、急速に衣を赤く染め上げていく。

大蛇おろちの力を目覚めさせてもいないのに、私を殺す気でいたのか?」

 柊哉の声が降る。冷たい雨のように、楓真を打つ。

「お前の力は、その程度か? お前の怨みは、憎しみは、その程度か?」

 柊哉の言葉に、楓真は歯を食い縛り、顔を上げ、柊哉をにらみつけた。血にまみれた両手で、なおも食らいつくように印を結ぶ。

 だが――

「ひとつ、教えてやろう、楓真」

 楓真の術が発動する前に、楓真の両手に、薄紫の光の触手が巻きついた。それは吸い付くように指に絡み、手首を縛り、固く締め上げていく。

 印を結ばせないよう拘束するつもりかと、楓真は思った。だが、巻きつく力は、楓真の手の動きを封じてもなお、さらに強まり、止まらない。

 眉ひとつ動かさずに術を続ける柊哉を見て、その意図を察した楓真が思わず呼吸を止めた瞬間――

 ぱきん、と、両手の指と手首で、高い音が響いた。一拍遅れて、両腕を鋭い痛みが駆け上がる。歯を食い縛り、楓真は悲鳴を飲み込んだ。

大蛇おろちの力に、印は必要ない」

 冷ややかな柊哉の声が、降る。九年前の夜と、同じ色で。

 楓真は激痛に呼吸もままならず、自らの血の広がる地面に倒れるしかなかった。舞い散る桜の花弁が、霧雨に濡れた土の上に、楓真の血の上に、落ち、浮かぶ。

「今は私も、お前の相手をするべき時ではない」

 最後に、それだけ言葉を残し、柊哉は楓真にきびすを返した。

 傘の垂衣たれぎぬを下ろし、白藍の衣をなびかせて。

 白い背中が、遠ざかっていく。

 あぁ、まただ。

 かすむ視界に、楓真は目を細める。

 また、届かないのか。

 まだ、届かないのか。

 骨を折られた指では、印を結べない。こぶしを握ることもできない。

 また、あの背中を。

 まだ、あの背中を。

 見ることしか。

 追うことしか。

 自分は――

 ざわり。楓真の体の奥で、何かがうごめくのを感じた。身じろぎ、鎌首をもたげ、閉じていたまなこを開くような。

「……さない……」

 楓真の体の内側が熱を持つ。体を芯からかし尽くすように熱く、眩しい光が、まるで破瓜はかのようにあらわき出されていくのを感じた。それは、限りなくまばゆく、それゆえにくらい光だった。強すぎる光に目が焼かれるのと同じに。

「……ゆるさない……」

 楓真の目の先を横切る桜の花弁が、ぱちんとはじけ、焦げて落ちる。

 ぱちん、ぱちん、楓真の体の周りで、薄紅の花弁が、黒い消し炭に変わっていく。

 術の名前は、おのずと浮かんだ。

 体が知っていた。

 血が知っていた。

 求める術を、今、楓真は、放つのみだった。


――散らせ、建御雷たけみかづち


 耳をつんざく雷鳴とともに、白い光の刃が、楓真のまなざしの先に――柊哉の背中に、放たれた。

 白い背中が、振り向く。

 身をひるがえし、刃をかわす。

 防がずに。

 防げずに。

 とん、と地面に、傘が落ちた。端が黒く焦げ、縁は融けている。

 銀の髪がなびく。

 あらわになったおもて

 きらめく金の瞳が、楓真を見る。

 そのまなざしが、ふっと、揺らいだ。ほんの一瞬、見逃してしまうほどの刹那せつな。冷笑ではない、ほのかに淡く灯るような、温かな微笑だった。

 だが、柊哉に垣間見えた表情に、楓真が目をめることはできなかった。楓真の体の内側に、焼けつくような痛みが走る。こらえきれずに咳き込んだ楓真の口から、鮮やかな血がこぼれた。目の前がかすむ。音が遠のく。手足の感覚がなくなっていく。

「楓真!」

 ひづめの音が聞こえたのは、そのときだった。蓮太の声が、楓真の意識を繋ぎとめる。

 倒れた楓真に駆け寄り、蓮太は楓真の対峙していた先、舞い散る桜の向こうを、見る。

「……柊哉……」

 蓮太の瞳が、すっと大きく見開かれ、そして、苦しげに細められた。

「どうしてだよ、柊哉……」

 泣きそうな声で、蓮太は、九年振りに再会した親友に、言葉をかける。

「あの夜……お前は、俺に、弟を預けた……それは、弟を、守るためなんじゃなかったのかよ……!」

 血まみれの楓真を抱き起こしながら、蓮太は柊哉を見つめる。

 その瞳を静かに見つめ返して、柊哉は言った。

「守るためだよ。大事なにえだからな」

 冷ややかに。一切の情動を感じさせない声で。

「……贄……?」

 蓮太の声が、呆然とこぼれる。柊哉はうなずいた。

「この身に宿る大蛇おろちを解放し、復活させるのに必要なのは、八門はちもんの鏡と、強い霊力を持つ贄だ。だから生かした。そんなざまでも、弟は天蓬の嫡流だからな」

「……弟を、贄に……?」

 楓真を抱える蓮太の腕に、ぐっと力がこもる。

「信じらんねぇ……っ! お前、どうしちまったんだよ、柊哉……! そんな奴じゃなかっただろ……⁉ 兄貴だろ……⁉ なのに――」

 蓮太の言葉は、そこで封じられた。小さな光の刃が、蓮太の頬を、薄く切り裂いていた。

「今ここで、お前と語る気はない」

 落ちた傘を拾い、被る。柊哉の顔が、垂衣たれぎぬに隠れ、見えなくなる。

「せっかく殺さずにおいたのに、良いのか? 急所は避けたが、早く手当てをしなければ危ういぞ。私も、大事な贄を、無駄に失うのは本意ではないからな」

 背を向けながら、柊哉は言った。静かに歩き去る背中を、蓮太は引き留めることができなかった。唇を噛み、顔を伏せると、蓮太は楓真を抱き上げ、馬に乗せる。

 振り返らなかった。

 振り返れなかった。

「……馬鹿野郎……っ!」

 近くの村に向かって馬を走らせながら、蓮太は頬を流れる血とともに、滲む涙を、手の甲でぬぐった。

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