肆-5
薄墨色の空から、霧雨が降り始めた。舞い散る桜の花弁に混じって、楓真の頬を、細かい雫が、さらさらと
桜堤を、楓真は全速力で駆けていた。今なら、街道筋に出る前に追いつけるかもしれない。
九年だ。九年。瞳の奥に追い続けた背中に、やっと、追いつける。やっと、届く。
馬を速める。もっと速く。霧雨の
全ての音が、耳から遠のく。馬の
「……天蓬……柊哉……っ!」
馬を止める。詰めていた息を、吐く。耳に音が戻って来る。早鐘を打つ胸の音も、荒い呼吸も、風の音も、
霧雨と桜の舞う中、
陽の光に照らされずとも輝く銀の髪。傘の影の下でも
「久しいな、楓真」
深く澄んだ声が、凛と響く。さらりと流れる前髪の下で、微笑のまなざしが、ふっと
楓真の瞳の奥で、黒く塗り潰されていた
ひらりと馬から飛び降りて、楓真は、真直ぐに、兄を――柊哉を
「天蓬柊哉……お前を斬る」
楓真の瞳は静かだった。どこまでも静かに、深く、
「お前の言葉の通り……私は……」
「お前を怨み、憎み、生きて……お前を裁き、殺すために、ここにいる」
ざっと風が吹き抜ける。霧雨の中、濡れた桜の花弁が、重く、舞えずにばらばらと散り、足もとを薄紅に染めていく。
ぐっと指先に力を込め、楓真は印を結んだ。
――
瞬間、青白い光の帯が、柊哉の体に巻きついた。間髪入れずに、楓真は素早く、次の印を結ぶ。
――囲め、
二つの術を重ねてかける。白い光の
再び風が吹き、桜が散る。霧雨が、さらさらと頬を
冷たく鋭く研ぎ澄ました刃のようなまなざしで、真直ぐに柊哉を
そんな楓真を、柊哉は静かに見つめていた。表情も瞳も、
あと少しで間合いに入る。楓真が
「この程度か」
はっと気付いた楓真が飛び
砕かれた硝子の破片のように、破られた楓真の術の光が、きらきらと瞬きながら四散する。その狭間から、楓真に向かって、幾本もの白い光の矢が飛んできた。
柊哉は、印を結ぶどころか、少しも動いた気配はなかった。指先も、まなざしも、吐息すらも、揺らぐことなく、まるで凪の
「私の言葉の通り、と言ったな」
柊哉が静かに、楓真に言葉を投げかける。色も温度も感じさせない声で。
「私を怨み、憎み、生きて……それで? 私は、お前に、私に並び立つほどに力が育ったなら来いと言った。それが、これか?」
柊哉の瞳が楓真を
素早く防御の術を展開し、楓真は防ぐ。一部は
「っ……あ……」
痛みに喘ぎ、楓真は地面に膝をつく。
「
柊哉の声が降る。冷たい雨のように、楓真を打つ。
「お前の力は、その程度か? お前の怨みは、憎しみは、その程度か?」
柊哉の言葉に、楓真は歯を食い縛り、顔を上げ、柊哉を
だが――
「ひとつ、教えてやろう、楓真」
楓真の術が発動する前に、楓真の両手に、薄紫の光の触手が巻きついた。それは吸い付くように指に絡み、手首を縛り、固く締め上げていく。
印を結ばせないよう拘束するつもりかと、楓真は思った。だが、巻きつく力は、楓真の手の動きを封じてもなお、さらに強まり、止まらない。
眉ひとつ動かさずに術を続ける柊哉を見て、その意図を察した楓真が思わず呼吸を止めた瞬間――
ぱきん、と、両手の指と手首で、高い音が響いた。一拍遅れて、両腕を鋭い痛みが駆け上がる。歯を食い縛り、楓真は悲鳴を飲み込んだ。
「
冷ややかな柊哉の声が、降る。九年前の夜と、同じ色で。
楓真は激痛に呼吸もままならず、自らの血の広がる地面に倒れるしかなかった。舞い散る桜の花弁が、霧雨に濡れた土の上に、楓真の血の上に、落ち、浮かぶ。
「今は私も、お前の相手をするべき時ではない」
最後に、それだけ言葉を残し、柊哉は楓真に
傘の
白い背中が、遠ざかっていく。
あぁ、まただ。
また、届かないのか。
まだ、届かないのか。
骨を折られた指では、印を結べない。
また、あの背中を。
まだ、あの背中を。
見ることしか。
追うことしか。
自分は――
ざわり。楓真の体の奥で、何かが
「……さない……」
楓真の体の内側が熱を持つ。体を芯から
「……
楓真の目の先を横切る桜の花弁が、ぱちんと
ぱちん、ぱちん、楓真の体の周りで、薄紅の花弁が、黒い消し炭に変わっていく。
術の名前は、
体が知っていた。
血が知っていた。
求める術を、今、楓真は、放つのみだった。
――散らせ、
耳を
白い背中が、振り向く。
身を
防がずに。
防げずに。
とん、と地面に、傘が落ちた。端が黒く焦げ、縁は融けている。
銀の髪が
そのまなざしが、ふっと、揺らいだ。ほんの一瞬、見逃してしまうほどの
だが、柊哉に垣間見えた表情に、楓真が目を
「楓真!」
倒れた楓真に駆け寄り、蓮太は楓真の対峙していた先、舞い散る桜の向こうを、見る。
「……柊哉……」
蓮太の瞳が、すっと大きく見開かれ、そして、苦しげに細められた。
「どうしてだよ、柊哉……」
泣きそうな声で、蓮太は、九年振りに再会した親友に、言葉をかける。
「あの夜……お前は、俺に、弟を預けた……それは、弟を、守るためなんじゃなかったのかよ……!」
血
その瞳を静かに見つめ返して、柊哉は言った。
「守るためだよ。大事な
冷ややかに。一切の情動を感じさせない声で。
「……贄……?」
蓮太の声が、呆然と
「この身に宿る
「……弟を、贄に……?」
楓真を抱える蓮太の腕に、ぐっと力がこもる。
「信じらんねぇ……っ! お前、どうしちまったんだよ、柊哉……! そんな奴じゃなかっただろ……⁉ 兄貴だろ……⁉ なのに――」
蓮太の言葉は、そこで封じられた。小さな光の刃が、蓮太の頬を、薄く切り裂いていた。
「今ここで、お前と語る気はない」
落ちた傘を拾い、被る。柊哉の顔が、
「せっかく殺さずにおいたのに、良いのか? 急所は避けたが、早く手当てをしなければ危ういぞ。私も、大事な贄を、無駄に失うのは本意ではないからな」
背を向けながら、柊哉は言った。静かに歩き去る背中を、蓮太は引き留めることができなかった。唇を噛み、顔を伏せると、蓮太は楓真を抱き上げ、馬に乗せる。
振り返らなかった。
振り返れなかった。
「……馬鹿野郎……っ!」
近くの村に向かって馬を走らせながら、蓮太は頬を流れる血とともに、滲む涙を、手の甲で
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