肆-4

 晴れ渡る春の朝。うららかな陽気に草木は萌え、穏やかに吹き抜ける風にささやくように揺れていく。

 満開の桜が、つつみに咲きそろっている。里に近ければ、花見客で賑わっていただろう。しかし、里は遠く、いずれの村からも離れた場所のため、わざわざ花見にここまで足を運ぶ者はいなかった。

 淡雪のように舞い落ちる桜の花弁の中を、老女が一人、歩いていた。桜を愛でる余裕など欠片もない、苦痛と焦燥の面持ちをしている。老女は杖をつき、背を丸め、足を引きずっていた。隣の村まで行かなければならない用事があり、朝早くに出発したものの、足も腰も悪くしている老女には、過酷な道のりだった。いよいよ足が動かなくなった老女が、一際ひときわ大きく古い桜の根もとに腰を下ろし、ひたいに浮かぶ汗をぬぐっていると、さらり、と目の端を白い影がぎった。老女が向かっていた先から歩いてきた者がいた。この堤を通る者は珍しい。旅人だろうかと、老女の視線が、無意識に、その白い影を追う。紺瑠璃こんるりはかま白藍しらあいの上衣。垂衣たれぎぬのついた傘を被っているので顔は見えないが、すらりとした体躯から、青年であることが分かる。

 青年は、そのまま老女の前を行き過ぎるかに見えたが、ふと足を止め、その高い背をかがめて、老女の前に膝を折った。

「どうされました?」

 凛と響く、深く澄んだ声だった。老女は思わず、目を見開いて青年を見つめた。こんな所で、行きずりの優しさに恵まれるとは思わなかった。

「……この先の村まで行く途中だったのだけれど……足が動かなくなってしまって……でも、大丈夫だからね……少し休めば、また歩けるもの……」

 老女は頬を赤く染めた。青年のたたずまいは、村の若者たちとは全く違っていた。身にまとう衣は簡素なのに、姿勢や仕草の一つ一つが、至極、洗練され、内側から整えられている。都人みやこびとだろうかと、老女は思った。かなり高貴な家の子息ではないか、と。しかし、それを迂闊うかつに口に出すほど、老女は思慮を欠いてはいなかった。もし、それが本当なら、従者も連れずに歩いているわけがないし、それでもこんな場所を独りで歩いているのなら、相当の事情があるはずだ。いずれにしても自分のような貧しい老いぼれに関わるべきではない。老女が、そう思ったとき、

「よろしければ、私が、お連れしましょう」

 青年は老女に、背に乗るよう促した。老女は驚いて、狼狽うろたえる。

「あんたが行こうとしていたのは、逆方向じゃないか……! 申し訳ないよ!」

「構いません。この先の村でしたら、私の足なら半刻もかかりませんし……」

 それに……と青年が、垂衣たれぎぬの向こうで、ふわりと微笑む気配がした。

「貴女を助けずに行き過ぎることのほうが、私にはこくです」

 降り注ぐ春の陽射しよりも温かな厚意を差し伸べられて、どうして断ることができようか。老女は手を合わせて恐縮しながら、青年の背に乗った。美しく組まれた骨に支えられた、均整の取れた体躯。たくましさよりも、しなやかさを感じる、華奢な背中だった。

 村の入り口で、青年は、そっと老女を降ろした。老女は、何度も頭を下げ、礼を言った。不意に強い風が吹き抜けて、青年の被った傘の垂衣たれぎぬ刹那せつな、はためかせた。青年のおもてが、垣間見える。老女は目をみはった。青年の瞳は、どこまでも透き通った金色。そして、色の白い額にさらさらとかかる前髪は、影の下でも輝く銀色だった。

 あんぐりと口を開けたまま青年を見上げた老女に、青年は淡く微笑んで、静かに一礼すると、きびすを返した。

「っ……ちょっと、あんた……!」

 老女が慌てて言葉を掛ける。

「あんた、死相が出ているよ! この先の……私の村の裏山に、由緒あるほこらがあるから、お参りしてくると良いよ!」

 老女の声に、青年は振り向いた。

「ええ。ちょうど今から、そちらへ向かうつもりです」

 垂衣たれぎぬを軽く上げ、青年は微笑を老女に宛てた。どこまでも澄みきった、魚も棲めない清流のような微笑だった。

 再び風が吹き抜け、桜が舞う。

 青年の白い後ろ姿は、舞い散る桜の花弁の向こうに、まぼろしのように消えていった。





 桜の開花を追いかけるように、楓真と蓮太は次のほこら――景門けいもんを目指し、北の地を進んでいた。都の桜は、今頃はもう、とうに散り、そろそろ初夏のよそおいだろうが、北の地では、まだ、春の盛りだ。

 しばらくは春らしい陽気が続いていたが、目的地が近づくにつれ、雲行きは怪しくなり、祠のある山のふもとに着いたときには、空は一様に灰色の雲に覆われ、陽の光は寒々と遮られていた。

 山の麓には村があり、村人たちが朝の畑仕事に精を出していた。たがやされたばかりの畑の黒と、一面の蓮華れんげに覆われた田の薄紅、その縁を飾るなずなの白が、寄せ布細工のように、いろどりを広げている。村の向こう、遠く朝靄あさもやかすんで、桜の堤が見えた。楓真の後ろに続いて馬を引きながら、長閑のどかで平和な風景を眺め、蓮太が刹那せつな、遠い都に思いをせかけたとき、蓮太の背中に、声が掛かった。

「あんたたち、まほろばの人だね。山のほこらに、お参りに行くつもりかい?」

 振り向くと、村人らしい、老女が一人、野菜の入ったかごを手に、蓮太を呼び止めていた。まほろばの人、というのは、いつの頃からか、市井しせいの人々が九星の氏族に対してつけた呼び名だ。都から派遣され、この国の要所に駐屯し、禍津日まがつひはらう任に就いている九星の氏族は、その特異な容姿や術を使うことから、市井の人々から遠巻きに畏敬のまなざしを向けられている。

「悪いことは言わないから、しばらくはしておいたほうが良いよ」

「えっ……どうして……ですか?」

 蓮太が尋ねると、老女は声をひそめて、ささやくように言った。

「昨日、この山は、酷く荒ぶっておられてね……昼過ぎから急に空が暗くなって、空が割れるような春雷の嵐だったよ……私は偶々たまたま、その時間、隣の村にいたのだけれども……それでも、雷の音に耳が破れるかと思ったくらいだ。恐ろしいことといったらなかったよ。今もまだ、この通り、空は晴れちゃいない。せめて、空が晴れて、山が鎮まってから、お参りすることだね」

「……春雷……かみなりの嵐……」

 蓮太の後ろで、楓真が眉をひそめて呟く。老女が、ふと楓真に視線をった。その目が、大きく見開かれる。

「あっ、あんた……!」

 腕に抱えたかごを取り落とす勢いで、老女は楓真に駆け寄る。

「昨日は、ありがとうねぇ! 背負ってくれて、本当に助かったよ……!」

 目尻のしわを、目一杯、深めて、老女は楓真に感謝の笑顔を向ける。

「このとしまで生きていて、まほろばの人に会ったのは、昨日が初めてだったけど、あんたみたいに親切で、優しい人もいるのだねぇ……都からつかわされている、摩訶まか不思議な術を使う一族と聞いていたから、もっと、偉そうで、おっかない連中だと思っていたよ……いやぁ、まこと、近くで見ると、本当に、金銀細工みたいな姿だねぇ……」

 籠を抱えていなければ手を合わせて拝んでいたかもしれない。老女は、うっとりと見惚れるように楓真を見上げ、そして安心したように、ほう、と溜息をついた。

「あぁ、良かった……山が荒ぶる前に、お参りができたようだね。あんまり死相が濃いものだから、心配していたんだよ。でも、もう大丈夫そうだね。顔色も良い。どうだい、御利益があっただろう。この山のほこらは、小さいけれど由緒はあるんだ」

 他でもない九星の祖先によって建てられた祠であるが、その歴史は、長い年月の中で村の伝承から消え、今は本来の由緒とは違った形で信仰されているらしい。

 しかし、老女の言葉で引っかかるのは、そこではない。

 喜びのあまり早口で息をつく暇もなく話す老女に、楓真は途惑とまどい、瞳を揺らした。覚えがないのだから、当然だ。老女は楓真を、誰かと間違えているらしい。

 誰と……?

 楓真の瞳の奥に、ひとつの可能性が光をひらめかすのと、老女が人違いに気付くのは同時だった。

「おや! すまないね……よく見たら、別の人だったよ……あんまり似ていたものだから……」

「……どんな人でしたか」

 楓真が尋ねる。努めて、声を抑えて。

 しかし、楓真の瞳は鋭さを隠しきれず、老女は、びくりと肩を縮めた。

「……あんたより……としは上だったかね……背も高かったよ……でも、髪も目も、あんたと同じ、綺麗な銀と金だった……垂衣たれぎぬのついた傘を被って……白藍しらあいの衣をまとっていたよ……」

「その人は、どちらへ行きましたか」

 一歩、楓真は老女に距離を詰める。その気迫に、老女は思わず後退あとずさった。蓮太が見かねてあいだに入り、楓真をなだめようとしたとき、老女が、震える手で、村の向こうにかすつつみを指差した。

「どっちへ行ったかは分からないけれども……歩いてきたのは、桜堤を、あっちのほうから――」

 そこまで聞いたところで、楓真は身をひるがえし、馬に飛び乗っていた。堤へと駆けていく。目を白黒させている老女に、すみませんと断りを入れ、蓮太も慌てて楓真を追いかけた。

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