肆-3

 都を出て、楓真と蓮太は、まず、最も近い北の地、杜門ともんほこらに向かった。楓真の兄――天蓬柊哉が、残る四つの祠のうち、何処どこに、何時いつ、現れるのかは分からない。だが、祠を巡れば、彼に追いつく何かしらの手掛かりは得られるはずだ。

 北上していく春、雪解けを追いかけるように、二人は馬を進めた。ひたすらに前を見据え、一刻も早くとはやる楓真を、蓮太はなだめなければならなかった。

「お前がその気でも、馬を不眠不休で走らせるわけにはいかないだろう。馬に合わせると思って、お前も夜は、ちゃんと休め」

 弟が兄と相討ちになったときのための報告係――それでも蓮太は、自分が楓真に同行できて良かったと思う。楓真は、表向きは至極、冷静だった。曇りひとつなく澄んだ金の瞳は、ひびひとつなく磨かれたぎょくのようで、僅かな喜びや悲しみには些かも動かないように見えた。だからこそ、蓮太は、楓真の危うさを感じていた。楓真の心を動かすのは、兄のことだけだ。九年前の、あの夜以来、楓真が抱える感情は、兄に対する怒りと憎しみだけ。それ以外の心は全て、あの雨と泥の中に捨て去り、残されていないように思えた。蓮太が笑いかければ、それに答えて微笑むことはあっても、そこに感情はなく、心のない絡繰り人形のような作り笑顔だった。

 それではだめだ、と蓮太は思う。怒りと憎しみにしか、その瞳が輝くことのないのは……喜びにも、楽しさにも、きらめくものでなければ。

 あのとき、自分は、柊哉を止めるべきだったのだろうか……今でも蓮太は考える。九年前の、あの夜……彼を信じ、弟を預かった。彼の頼みを聞き、何も問わず、誰にも言わなかった。それが、果たして、正しかったのか。他に何か、自分にできることは、なかったのか。取るべき道は、なかったのか。答えは、今も、出ない。

「それにしても……」

 夜の森の中、釣った魚を焚火たきびの縁に差しながら、蓮太は呟いた。

「どうして、あいつは、九年経った今になって、動き出したんだろう」

 九年間、完全に消息を絶ち、影すらつかませなかったのに。

「俺たちと一緒で、どこかで修練でもしていたのかもしれないな……いにしえの祠を破って、そこに封じられていた禍津日まがつひはらうなんて、並大抵の力じゃ考えられない」

 天蓬を滅ぼしたとき、彼は十二歳だった。そこから九年、さらに修練を積んだ彼は今、どれほどの力を振るえるのだろう。

「……たとえ、あいつが、どれだけ強くなっていたとしても、私が斬ることには、変わりません……刺し違えてでも、あいつを殺します」

 揺らめく炎を見つめながら、楓真は言った。殺す、という言葉を、躊躇ためらいの欠片もなく口にする楓真に、蓮太は、背中に薄ら寒さと、胸の奥に苦い痛みを覚えた。だが、蓮太には、楓真を止める資格も、方法もない。ただ、死んでほしくはないと、蓮太は思うのだ。楓真にも、そして……柊哉にも。蓮太にとって、柊哉は今でも、親友だったから。たとえ、一族を滅ぼした重罪人でも、楓真の怒りや憎しみを知っていても、それでも、親友だと、蓮太は今でも思い続けているから。





 三日と半日、馬を走らせ、さらに半日、山の中を徒歩で進み、楓真と蓮太は、杜門ともんほこらのあった場所に着いた。そう、あったはずの、場所だ。

「……酷いな……」

 楓真の隣で、蓮太が息を呑む。

 二人の目に映ったその場所は、かつて祠があったことなど信じられないほど無惨に変わり果てていた。辺り一面、落雷にったように黒く焦げた木片が飛び散り、祠は柱一本、残っていない。焼けた土はひび割れ、周囲の木もことごとく炭と灰になり、吹き抜ける風に、ぼろぼろと崩れていく。黒々と広がる、それは、焼けただれた傷痕のような光景だった。

 楓真の瞳の中で、天蓬の宮の焼け跡と重なる。雲が切れ、明るい陽射しが注がれているのに、草の一本も、花の一輪も、そこにはない。命を根こそぎ奪われた土地。息づき染み込んでいた優しく温かな日々の記憶さえ焼き払われ、人々が顔をそむける忌むべき場所になり果てた故郷。

「……いくら禍津日まがつひと戦ったって……霊力で、ここまでできるものなのか……?」

 蓮太が呆然と呟く。楓真は首を横に振った。

「これは、直毘なおびの霊力じゃない……大蛇おろちの神力です」

 楓真は両手でこぶしを握る。てのひらに残る火傷の痕に、爪が深く食い込むほどに。

「……次のほこらへ急ぎましょう」

 きびすを返し、馬の手綱たづなを引いて歩き出す。

 やはり、兄は、禍津日まがつひになったのだ。破壊と災厄の限りを尽くす大蛇おろちに成り果てたのだ。斬らなければ。殺さなければ。一刻も早く。

 左手で手綱を引きながら、楓真は右手をつるぎに伸ばす。目を閉じれば、そこには、九年前に瞳に映った最後の光景が――降りしきる雨の向こうに遠ざかり消えていく兄の背中が、いささかも色せることなく焼きついている。兄の顔は、記憶の中で塗り潰され、背中だけしか、楓真には見えない。届かなかった背中。追いつけなかった背中。そこに、届いてみせる。追いついてみせる。この剣のつかを握り、切先きっさきが兄の胸に届くとき、楓真は、やっと、もう一度、背中ではない、兄の姿を……兄の顔を、見られるような気がした。

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