肆-2
長かった雪の季節が、ようやく終わりを迎え、草木の芽吹く匂いが立ち始めた頃。それでも夜になると冬の名残が色濃く、しんしんと芯から冷えていく。
白い息を吐き、楓真は
――
逃げ去ろうとしていた
巨大な
完全に
「やったか……!」
隊員たちが歓声を上げる。
「すごいな! 楓真!」
「あの素早い禍津日を、一発で仕留めるなんて、
夜の闇の中でも、蓮太の笑顔は真昼のように明るく眩しい。
裏表のない蓮太の素直な言葉に、楓真は微かに笑みを向けたものの、そっと掌に視線を落とし、表情を消す。
「……それでも、あいつの強さは、こんなものじゃなかった」
一族を滅ぼされた夜から九年。楓真は十六歳になっていた。
天蓬一族が
焼け落ちた
兄――天蓬柊哉は、行方を
「天蓬楓真殿! おられるか!」
翌朝、野営地で隊員たちと
上質な緋色の上衣。中宮からの使いだった。
「天蓬楓真は、私です」
馬から降りた男を見上げ、楓真が名乗り出ると、彼は足を
「
大王――
楓真の後ろで、隊員たちが、ざわめく。大王の御前に参上できるのは、一族の
「承知いたしました」
楓真の面持ちは落ち着いていた。静かに敬礼を返し、馬に向かう。
「楓真……」
蓮太が心配そうな瞳で楓真を見つめる。
「……きっと、あいつ絡みのことだ。九年……とうとう動き出したのかもしれない」
ぐっと手綱を握り込む楓真の瞳は、冷たい炎のようだった。鋭い光を揺らめかせながら、ぞっとするほど
青を基調としていた
使者は楓真を、御殿の裏へと案内した。高い垣が張り巡らされ、細い通路には、白い玉砂利が敷かれていた。
いくつもの角を曲がり、入り組んだ道を進んだ先、大王の密命を受けた者だけが立ち入る殿へ、楓真は通された。
「参上
鏡のように磨かれた板張りの床に、楓真は手をついて礼をした。
上座の畳の前に
御簾の向こうの影が、側近に何かを
「任地からの急な召喚、大儀であったな」
尭明の声が、静まり返った部屋に、凛と響いた。
「それにしても、
このような場で全く
「……何ものかを怖れる心は、
楓真は静かに返答する。
そうであったな、と尭明は薄い笑みに目を細めた。
「私が其方を呼んだ理由……その様子では、既に察しがついているのだろう」
「……
「いかにも」
尭明は
「西南の地で、
尭明は切り出した。古の祠とは、九星の祖先、
「古の祠を……?」
「ああ。
「そんな……では、封じられていた
最悪の状況を考えた楓真に、尭明は首を横に振った。
「いや、災害は起きていない。その禍津日は
禍津日の被害がなかったからこそ、気付くのが遅れた。
「祠に封印しなければならないほどの禍津日を、人知れず滅却し、神具の鏡を奪う……そのようなことができる術者は、今の九星で、一人しかいないだろう」
尭明の言葉に、楓真は
「……目的は……」
「定かではない。だが……封印していた禍津日を祓えば、その鏡は再び新たな力の媒体となる。使い方によっては、その身に封じられた
「大蛇の……再臨……」
「ああ。……最悪の憶測ではあるが、あの者は、この都を……国を、滅ぼすつもりなのかもしれぬ」
「……殺せ、滅ぼせと……大蛇は
床についた手に、ぐっと力を込め、楓真は奥歯を噛みしめた。
「……兄は、大蛇に心を喰われたのです。あれは、もう、人ではありません……人の姿をした
斬らなければ。
術者として、
一族として、裁かなければ。
そして何より……弟として、殺さなければ。
「あれを斬れるのは、この九星で、
たとえ、九星の他の氏族が束になっても、到底、及ばない。犠牲が増えるだけだ。
今この時代において、九星で最強の血を誇る天蓬、その最高傑作と
「私も、そのつもりです」
この手で必ず斬ると誓った。それだけを胸に、この九年を生きたのだから。
楓真の言葉に、尭明は
「
「御意」
楓真は敬礼した。立場上、表向きは命令と承諾という形だが、その実は、楓真の意志を、尭明が認めたものだった。
封印の鏡は全部で八つ。そのうち、都から西南の地にあった四つは既に奪われた。残り四つは、都から東北の地にある。祠には
「天心蓮太を帯同させよう。
尭明は言った。独りで行くつもりだった楓真の瞳が僅かに揺れたのを、尭明は、見逃さなかった。
「万が一、其方が戻らなかった場合に、報告する者が
楓真が相討ちになるかもしれないという可能性、そして、楓真がそれを覚悟していることも、尭明は見越していた。
「……
楓真が退出する
「
楓真が中宮から
蓮太は複雑な色を混ぜながらも、それでも、よろしくなと、肩を
「
旅支度をしながら、蓮太が尋ねる。
「……長生きしそうな人でしたよ」
楓真は答えた。
「自分が弱いことを、知っている人でした」
「えっ……?」
蓮太が慌てて左右を見回し、誰にも聞こえていないことを確かめる。一歩間違えれば、今の楓真の発言は、不敬罪で捕らえられてもおかしくない。
冷や汗をかいた蓮太をよそに、楓真は静かに
もし……と、楓真は思う。
だからこそ、
人心の掌握と信仰によって統治を保つのは、力による支配よりも難しいだろう。
誰にでも優しく心を掴み、誰もが認める強い力も兼ね備えていた、いつかの兄の残像が、色の抜け落ちた花に重なり、楓真は、そっと、目を
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