肆-2

 長かった雪の季節が、ようやく終わりを迎え、草木の芽吹く匂いが立ち始めた頃。それでも夜になると冬の名残が色濃く、しんしんと芯から冷えていく。

 白い息を吐き、楓真はかじかんだ指で、印を結ぶ。


――めろ、鈎鈐こうけん


 逃げ去ろうとしていた禍津日まがつひの背に、青い光の鈎針かぎばりが打ち込まれ、動きを止める。楓真は禍津日に追いつくと、素早くつるぎを抜き、禍津日に向かって振り下ろした。

 巨大な蜈蚣むかでのような姿をした禍津日まがつひが、首を落とされ、ざらざらと崩れるように霧散していく。

 完全にはらえたことを確認して、楓真は小さく安堵の息をついた。

「やったか……!」

 隊員たちが歓声を上げる。

「すごいな! 楓真!」

 真先まっさきに駆け寄った蓮太が、楓真の背中を叩いた。

「あの素早い禍津日を、一発で仕留めるなんて、流石さすがは天蓬の血筋だな」

 夜の闇の中でも、蓮太の笑顔は真昼のように明るく眩しい。

 裏表のない蓮太の素直な言葉に、楓真は微かに笑みを向けたものの、そっと掌に視線を落とし、表情を消す。

「……それでも、あいつの強さは、こんなものじゃなかった」

 一族を滅ぼされた夜から九年。楓真は十六歳になっていた。天任てんにんの宮――艮宮ごんきゅうに身を置きながら、昨年から任務も度々たびたびこなし、修練と実戦を重ねている。

 天蓬一族がになっていた、都とその周辺の土地の守護は、天任一族に引き継がれている。天蓬が滅んだことで、他の氏族の管轄地も再編された。

 焼け落ちた坎宮かんきゅうは閉鎖され、門には今も立ち入りを禁じる忌の札が貼られたままになっている。

 兄――天蓬柊哉は、行方をくらましたまま、見つかっていない。中宮は彼を重罪人として、各地に派遣している九星の氏族に通達を出しているが、この九年間、何の情報も得られないままだった。彼が今、何処どこにいて、何をしているのか、何ひとつ分からない。



「天蓬楓真殿! おられるか!」

 翌朝、野営地で隊員たちと朝餉あさげを囲んでいると、高らかなひづめの音と声が響いた。何事だろうと眉根を寄せながら、楓真は立ち上がり、前に出る。

 上質な緋色の上衣。中宮からの使いだった。

「天蓬楓真は、私です」

 馬から降りた男を見上げ、楓真が名乗り出ると、彼は足をそろえて素早く敬礼し、いささか緊張した面持ちで、口を開いた。

大王おおきみが御呼びです。直ちに中宮へ参上されますよう、御命令、つかまつりました」

 大王――天禽てんきん尭明ぎょうめいは、中宮の現当主。当代の九星を束ね、この国を統べる、最上位の存在だ。

 楓真の後ろで、隊員たちが、ざわめく。大王の御前に参上できるのは、一族のおさくらいのものだ。十六歳の少年が呼ばれるなど、只事ただごとではない。

「承知いたしました」

 楓真の面持ちは落ち着いていた。静かに敬礼を返し、馬に向かう。

「楓真……」

 蓮太が心配そうな瞳で楓真を見つめる。

 手綱たづなを取りながら、楓真は言った。

「……きっと、あいつ絡みのことだ。九年……とうとう動き出したのかもしれない」

 ぐっと手綱を握り込む楓真の瞳は、冷たい炎のようだった。鋭い光を揺らめかせながら、ぞっとするほどくらかった。



 青を基調としていた坎宮かんきゅうと違い、中宮は赤を基調としている。どの宮より大きく、豪壮な構えの殿とのが、広い大路に整然と並んでいる。その先にそびえる一際ひときわ大きな真紅の建物が、中宮の本殿――大王おおきみの御殿だった。

 使者は楓真を、御殿の裏へと案内した。高い垣が張り巡らされ、細い通路には、白い玉砂利が敷かれていた。人気ひとけはなく、しんと静まり返り、玉砂利を踏む音だけが響いていた。

 いくつもの角を曲がり、入り組んだ道を進んだ先、大王の密命を受けた者だけが立ち入る殿へ、楓真は通された。

「参上つかまつりました。天蓬楓真です」

 鏡のように磨かれた板張りの床に、楓真は手をついて礼をした。

 上座の畳の前に御簾みすが掛けられている。その両側に控えている側近らしい人間を除いて、この場に同席する者はいなかった。楓真を連れてきた使者も、部屋の前に下がっている。

 御簾の向こうの影が、側近に何かをささやき、一礼した側近が御簾を上げた。続いて、おもてを上げるよう声が掛かり、楓真は、手をついたまま、静かに顔を上げる。

 大王おおきみ――天禽てんきん尭明ぎょうめいの姿を見たのは、初めてだった。

 あかい炎をまとうような、豪奢な刺繍がほどこされた蘇芳すおうの衣。堂々とした体つきに、威風凛然いふうりんぜんとしたたたずまい。肌は僅かに小麦色を帯び、黒々とした髪は、きつくもとどりに結い上げられている。瞳の色は、つごもりの夜よりも深い黒。――白い肌に銀の髪と金の瞳という九星の氏族の特徴は、どこにも見当たらなかった。血を和す道を歩んだ九星の末裔の行き着く先の姿だった。顔に老いはうかがえないが、若さもまた見えない。二十五より先の体を知らない楓真には、尭明の年齢を推しはかることはできない。

「任地からの急な召喚、大儀であったな」

 尭明の声が、静まり返った部屋に、凛と響いた。

「それにしても、其方そなた……よわい十六とは思えない、きもわり具合だな」

 このような場で全く物怖ものおじしないとは、たいしたものだ。

「……何ものかを怖れる心は、よわい七つの夜に捨てましたので」

 楓真は静かに返答する。

 そうであったな、と尭明は薄い笑みに目を細めた。

「私が其方を呼んだ理由……その様子では、既に察しがついているのだろう」

「……僭越せんえつながら、愚兄のことかと」

「いかにも」

 尭明はしゃくを、すっと持ち上げた。眉間みけんに刻まれたしわが、僅かに深くなる。

「西南の地で、いにしえほこらが、次々と破られているのが分かった」

 尭明は切り出した。古の祠とは、九星の祖先、直毘なおびの氏族が、特に凶悪な禍津日まがつひを封印した祠のことだ。星天術が禍津日の滅却を第一とする今の形になる前、直毘の氏族の術は、鏡を神具として用いた封印が主流だった。

「古の祠を……?」

「ああ。御神体ごしんたいの鏡が奪われている」

「そんな……では、封じられていた禍津日まがつひが……」

 最悪の状況を考えた楓真に、尭明は首を横に振った。

「いや、災害は起きていない。その禍津日ははらわれているのだ。……その何者かは、祠を破り、封じられた禍津日を滅却した上で、鏡を奪っている」

 禍津日の被害がなかったからこそ、気付くのが遅れた。偶々たまたま、祠のひとつが式年を迎え、担当する氏族が祭祀に訪れた際に見つかり、明らかになったという。

「祠に封印しなければならないほどの禍津日を、人知れず滅却し、神具の鏡を奪う……そのようなことができる術者は、今の九星で、一人しかいないだろう」

 尭明の言葉に、楓真はうなずいた。

「……目的は……」

「定かではない。だが……封印していた禍津日を祓えば、その鏡は再び新たな力の媒体となる。使い方によっては、その身に封じられた大蛇おろちを解放することも可能だ」

「大蛇の……再臨……」

「ああ。……最悪の憶測ではあるが、あの者は、この都を……国を、滅ぼすつもりなのかもしれぬ」

 直毘なおびの氏族がその身に封じ、代々、僅かずつでも血を和し、弱めてきた呪いの力。だが、兄の力を考えれば、その身に宿る大蛇おろちが解き放たれたときの脅威は計り知れない。

「……殺せ、滅ぼせと……大蛇はささやくのだそうです」

 床についた手に、ぐっと力を込め、楓真は奥歯を噛みしめた。

「……兄は、大蛇に心を喰われたのです。あれは、もう、人ではありません……人の姿をした禍津日まがつひです」

 斬らなければ。

 術者として、はらわなければ。

 一族として、裁かなければ。

 そして何より……弟として、殺さなければ。

「あれを斬れるのは、この九星で、其方そなただけだろう」

 たとえ、九星の他の氏族が束になっても、到底、及ばない。犠牲が増えるだけだ。

 今この時代において、九星で最強の血を誇る天蓬、その最高傑作とうたわれた兄にかなう者がいるとすれば、それは、血を分けた弟だけだ。

「私も、そのつもりです」

 この手で必ず斬ると誓った。それだけを胸に、この九年を生きたのだから。

 楓真の言葉に、尭明はうなずき、おごそかに言った。

其方そなたに、あの者の討伐を命じる。大蛇おろちの復活は何としても止めなければならない」

「御意」

 楓真は敬礼した。立場上、表向きは命令と承諾という形だが、その実は、楓真の意志を、尭明が認めたものだった。

 封印の鏡は全部で八つ。そのうち、都から西南の地にあった四つは既に奪われた。残り四つは、都から東北の地にある。祠には禍津日まがつひを封じる門の名が付いていて、門の名は、すなわち鏡の名でもある。東北の地にあるのは、杜門ともん景門けいもん死門しもん生門せいもんの四つだ。

「天心蓮太を帯同させよう。其方そなたと親しいようだからな」

 尭明は言った。独りで行くつもりだった楓真の瞳が僅かに揺れたのを、尭明は、見逃さなかった。

「万が一、其方が戻らなかった場合に、報告する者がるだろう」

 楓真が相討ちになるかもしれないという可能性、そして、楓真がそれを覚悟していることも、尭明は見越していた。

「……まばゆいものだな、九星の血は」

 楓真が退出する刹那せつな、尭明は呟くように言った。

黄泉よみけがれを祓って生き、現世うつしよの穢れが染みつくとしになる前に生涯を終えるのだ……其方そなたたちは」



 楓真が中宮から艮宮ごんきゅうに戻ると、蓮太が駆け寄ってきた。楓真が到着するより先に、中宮の使いが逸早いちはやく蓮太に大王おおきみめいを伝えたらしい。

 蓮太は複雑な色を混ぜながらも、それでも、よろしくなと、肩をすくめて笑った。

大王おおきみって、どんな御方だった?」

 旅支度をしながら、蓮太が尋ねる。

「……長生きしそうな人でしたよ」

 楓真は答えた。

「自分が弱いことを、知っている人でした」

「えっ……?」

 蓮太が慌てて左右を見回し、誰にも聞こえていないことを確かめる。一歩間違えれば、今の楓真の発言は、不敬罪で捕らえられてもおかしくない。

 冷や汗をかいた蓮太をよそに、楓真は静かにくつを履いた。

 もし……と、楓真は思う。

 大蛇おろちの呪いから逃れ、寿命を手に入れることと引き換えに、天禽一族は霊力を失った。もし、九星の氏族が謀反を起こし、その霊力をもって天禽に牙をいたならば、今の天禽は、ひとたまりもないだろう。

 だからこそ、大王おおきみは、滅多に表に出てこないのだ。いたずらに権威を失墜させる芽を出さないために。

 人心の掌握と信仰によって統治を保つのは、力による支配よりも難しいだろう。

 うまやに向かって歩く楓真の視界の端に、枯れ果てた紫陽花あじさいの花がぎった。

 誰にでも優しく心を掴み、誰もが認める強い力も兼ね備えていた、いつかの兄の残像が、色の抜け落ちた花に重なり、楓真は、そっと、目をらした。

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