弐-6

 邸に着いたのは、翌朝、日が高くなってからだった。禍津日まがつひみそぎを終えるなり、柊哉が向かうよう告げられたのは、桐吾の部屋ではなく、母の部屋だった。見張りが付いたのは渡殿わたどのまでで、そこから先の廊下は、柊哉ひとりで歩いていった。柊哉以外は近づかないよう、人払いをされたらしい。

 母の部屋の前に立つ。小さく息を吸って、吐く。障子に手を伸ばし、入室の断りを入れようとしたところで、柊哉は、漏れ聞こえた話し声に、その手を止めた。

「何故、暗殺など、企てになったのです……? 先代が我らに託された最高傑作を、貴女様自身が、使う前に葬らんとするなんて……」

「……貴方には、分からないでしょう……貴方にとって、あれは、ただの道具……つるぎや矢と同じ、少しばかり強い武器に過ぎないでしょうから……けれど、私にとっては、あの男との間にできた子……目的のための道具だと、容易たやすく割り切れるものではないのです……貴方のように、あれを、物のように思えたら、どんなに良かったか……」

 桐吾と母の声だった。柊哉の心臓が、どくんと跳ねる。

 声は続いた。

「……あれを、物だと思えたら……私は苦しむこともなかったでしょう……しかし、あれは、子です……私の子なのです……子を愛せぬ苦しみが、貴方に分かりますか。私とて、あれを……あの子を、愛せるものなら愛したかった。何度も愛そうとして、この腕に抱こうとして……その度に、さいなまれているのです。あの子の顔を見ると、よみがえるのです。あの男への憎しみが……恨みが、私の心をむしばむのです……あの子がおぞましくて、たまらなくなるのです……」

「……それならば、なおのこと……」

「いいえ。貴方は、あれの力を、見縊みくびっている……あれの力は、貴方が思っているより、遥かに強大で、凶悪です。振るわれるより前に葬るべき、破滅の力なのです……あの子は、生まれてくるべきではなかった」

 最後の言葉に、柊哉の中で、何かが千切れた。ほつれながらも残っていた、一縷いちるの望み。心のどこかですがり、諦めずにいたものが、失われた瞬間だった。

 障子を開ける。彼らの瞳が、一斉に、柊哉に向けられる。

 彼らを静かに見つめ返して、柊哉は言った。

「では、私は、何のために、生まれてきたのですか」

 何のために、産み落とされたのですか。

「……柊哉様……」

 柊哉のまとう雰囲気に気圧され、桐吾がたじろぐ。

「答えろ、桐吾。お前は私を、一族の最高傑作だと言った。先代から託されたものだと……ならば、そこには明確な目的があったはず。私という存在を作ったのは、何のためだ? お前は、私の力を、何に使おうとしている?」

 桐吾を見下ろし、柊哉は一歩、桐吾に、距離を詰める。

 唇を苦々しくゆがめ、桐吾は答えた。

「……天蓬の、未来のためです」

「未来?」

 柊哉は眉根を寄せる。

 桐吾は続けた。

「柊哉様も、いつかおっしゃったでしょう……今からでも血を和す道を、と……そして私は、それは高貴な地位を持つ天禽だからこそ取れた道だと、返しました……全く同じことを、先代も考えておられたのです。なかなか子が生まれず、寿命も二十五を超えない、このままでは、天蓬は滅ぶと」

 大蛇おろちの呪いに、ついえてしまうと。

「だから、考えたのです。高貴な地位を持つ天禽だからこそ取れた道ならば、我々が天禽に成り代われば良い、と」

「っ、それは……」

 その言葉の意味することを察し、柊哉の喉が、僅かに震えた。

 桐吾はうなずく。

「ええ。謀反です。確実に天禽を倒すため、そして、それにより蜂起するだろう、他の一族を抑えるため、そのための武器として、圧倒的な力が必要だった。だから、作ることにしたのです。直毘なおびの血が濃いほど強い力を持つ、そのことわりを利用して」

 柊哉が考えないようにしていた可能性、覆い隠していた蓋を、桐吾はあばいていく。

「……では、私の父親は……」

 理由があったのだ。自分が、一族の最高傑作だと言われるのも。実際に、この身に宿る力が、一族の誰より強いのも。

「……先代は、私の伯父ではなく、父……」

 自分の父親は、二歳の時に死んだと聞かされていた、顔も憶えていない男ではなかった。

 先代は、二十三で死んだ。柊哉が四つのときだった。

「この力を、禍津日まがつひはらうためでなく、同じ九星の同胞たちを殺すために使えと?」

「そうです」

自惚うぬぼれが過ぎるだろう。運良く天禽を倒し、成り代わることができたとしても、その先にあるのは、均衡と統制を失った混沌……天蓬に、未来があるとは思えない」

「それでも、今、為さなければ、機会は二度と得られなくなります。本家の直系が貴方様と楓真のみとなった今、貴方様のような存在を、我ら一族は、もうひとつとして作ることはできないのですから」

 袖の陰で、柊哉はこぶしを握った。

「……私が、それをこばんだら?」

「私が、其方そなたの代わりを務めることになりましょう」

 今まで黙っていた母が、静かに言った。柊哉とは目を合わさずに。

「……母上が……?」

「ええ。其方の次に、この天蓬で直毘なおびの血が濃いのは、私と楓真です。楓真はまだ力を開花させていませんから、私が担います。私の命は残り少ないですが、天禽の首を取ることなら、今の私でもできましょう」

「……分かりました」

 柊哉は顔を伏せた。何を、どうしても、滅びの運命さだめにはあらがえないのだ。

 ならば……。

「私は、私の意志で、私の力を使います。母上を矢面やおもてに立たせることはしません」

「っ、それでは……」

 桐吾が柊哉を見つめる。そのまなざしを受けとめて、柊哉は言った。

「早速、行動に移そう。……決行は、七夕の前夜が良い。一族が一所ひとところに集まっても、七夕の準備だと偽装できるし、七夕の前夜は、翌日の宴に備えて、最も警備が薄くなる」

 さらさらと、滑り落ちるように言葉は出た。声は体の内側で、ぽっかりとあいたがらんどうに響いていくようだった。



 渡殿わたどのへ戻ると、廊下の先で、きょろきょろと辺りを見回す楓真を見つけた。

「楓真」

 声を掛けると、楓真は、ぱっと顔を輝かせ、ぱたぱたと駆け寄ってくる。自分を探していたらしい。

 楓真の手には、庭から手折ってきたのだろう、白い紫陽花あじさいが握られていた。

「……兄上に帯同された方が、殉職されたと、聞いたので……」

 兄上と一緒に、手向けにうかがおうと……。

「……兄上?」

 身をかがめ、柊哉は楓真を抱きしめた。楓真は僅かに途惑とまどい、吐息を揺らして胸の音を速めたものの、拒んで身をよじることはなかった。

「……楓真……」

 切られたばかりの紫陽花の、青い匂いが鼻をかすめる。

「お前は私の、弟でいてくれ」

 私を、お前の兄で、いさせてくれ。

 お前の兄であるということが、私に残った、最後の絆だから。

 生きるということを、唯一、繋ぎとめていられるものだから。

「お前だけは、守るから」

 お前の未来を、私が必ず、守ってみせるから。

「……兄上……」

 楓真は手を伸ばし、柊哉の背中を抱えようとした。けれど、幼い腕では、届かなかった。手の先で、紫陽花の花が揺れる。

「私は、兄上の弟です。今までも、これからも、ずっと、ずっと、弟です。そして、兄上も、私の兄上です。未来でも、それは変わりません」

 それに……と楓真は続ける。

「私も、兄上を御守りしたいです。早く力を開花させて、修練して、兄上の傍で、兄上を御守りできるようになりたいです」

 楓真の言葉の終わりは、雨の音に重なった。

 砕け落ちた心の破片を、底から流し去っていくような、大粒の冷たい雨だった。

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