参
参-1
我が君の 去りし瀬に咲く
雨に
風のない雨の夜更け。家の戸を小さく叩く音に、蓮太は目を開けた。
「柊哉……?」
ずぶ濡れの柊哉が立っていた。顔に
「……こんな夜更けに、すまない……」
声を
再会を喜べるような雰囲気ではなかった。
「どうしたんだ……?」
とにかく雨に打たれたままなのは良くない。熱い茶を用意するから家に上がってくれと蓮太が言うと、柊哉は首を横に振った。
「すまない。時間がないんだ……私につけられた監視の目を
柊哉の手が、袖の陰で固く握りしめられていることに、蓮太は気がついた。
「……俺に、何か頼み事があって、来たんだな」
蓮太が
「すまない……本当に、すまない……お前しか頼める者がいないんだ……どうか、何も問わず、誰にも言わず、私の頼みを聞いてほしい……」
柊哉の肩は震えていた。何か、蓮太の知らない、
「分かった。何も問わないから、言ってくれ。俺は、お前のために、何ができる?」
蓮太の言葉に、柊哉は顔を伏せた。ぐっと息を詰める気配がして、柊哉は、意を決したように、口を開いた。
「……七夕の前夜、亥の刻……
頼む……と、ぎゅっと目を閉じ、柊哉は頭を下げた。蓮太のまなざしが、ふっと緩む。
「頭を上げてくれ。親友の頼みなんだから、当然だ。安心して任せてくれ」
俺を頼ってくれて、嬉しいよ。そう、蓮太が言うと、柊哉は顔を片手で覆った。
「……ありがとう……蓮太……」
それから柊哉は何度も蓮太に礼を言い、夜闇の中へと戻っていった。
彼の白い背中を見送りながら、蓮太は思う。
自分を、親友として頼ってくれたことは、嬉しい。それは本心だ。でも……。
彼の周りで、何が起きているのだろう。
天蓬に……同じ一族の中に、彼が頼れる人間は、一人もいなかったのか。
泣きつくことができる大人は、いなかったのか。
あんなに思い詰めた様子で、他の一族の子どもを頼らなければならないほど。
彼は、一体、独りで、何をしようとしているのか。
+
梅雨が終わりに近づき、晴れ間が
宮の通りには、
「兄上」
菓子を買いに行った帰り、大通りを歩きながら、楓真が兄の
「今年は皆、何か他のことで忙しいのですか?」
「……どうして、そう思う?」
兄の
「今年の笹飾りは、去年までのような豪華さがないし……皆、なんだか形だけ準備しているみたいな……そんな気がして……」
「……そうか」
兄は小さく笑い、ふっと雰囲気を和らげた。努めてそうしたようにも感じた。
「よく見ているな、楓真は……。でも、お前は何も心配いらない。……それより、私に見せたいものというのは、どこだ?」
ぽん、と楓真の頭を撫で、兄は話題を変えた。楓真は少し胸に引っかかりを覚えながらも、小走りに兄の手を引く。
「これです」
楓真が兄を連れてきたのは、
「この笹に、私の作った笹飾りも、付けていただいたのです」
楓真は、どきどきと兄を見上げた。兄は、くすりと笑って、笹の一角を指差す。
「あそこにある薄紅色の貝と萌黄色の提灯……それから、浅葱色の網と吹き流しが、楓真のだろう?」
笹には、他にも折り紙で作られた沢山の飾りがあった。けれど兄は、その中から楓真の作ったものが、一目で分かったようだった。
楓真は胸に花の咲くような心地で、ぱっと顔を
「どうして分かったのですか?」
「分かるよ。楓真は……私の弟だから」
そう言って、兄は再び、楓真の頭を、ぽんと撫でた。
「兄上は、短冊に、どんな願い事を書くのですか?」
楓真は
「……私の願い事……」
兄の瞳が、ふっと揺れる。
「……お前が、
兄の言葉に、楓真は、きょとんと瞬きをして、それから、ぎゅっと眉根を寄せた。
「兄上の願い事なのに、どうして兄上じゃなく、私なのですか……?」
「どうしても何も……それが私の願いだから……」
「……
「楓真……?」
兄が瞬きをする。楓真は口をへの字に引き結び、ぷくっと頬を膨らませた。
「幸せになるために願い事をするのに、その幸せに兄上がいないのは厭です」
「兄上の願いが叶ったとき、そこに兄上がいないのは、厭です」
楓真は、ぎゅっと両手を握り込んだ。そして、ぐっと顔を上げ、兄を見つめる。
「決めました。ならば私は、兄上が
黒い瞳が兄を見つめる。まだ力の開花していない、夜の色の瞳。けれど、それは
両目いっぱいに兄を映し、楓真は願う。
「だから、兄上……」
「生きるから、生きてください、兄上」
楓真の言葉に、兄は何も返さなかった。ただ微笑み、静かに楓真の頭を撫でた。
砕けた硝子の破片が、光に濡れて輝くような、美しくも切ない微笑だった。
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