弐-4

 数日後。昼餉ひるげを終えて書物庫へ向かおうとした柊哉は、玄関の手前で楓真に呼び止められた。

「兄上。最近、どちらに行かれているのですか? 修練場を探しても、お姿が見えないし……私、また兄上と、剣の稽古がしたいです」

「……剣の稽古なら、私ではなく、お前の父上とするように言われただろう」

 くつを履きながら柊哉が言うと、楓真は、ぎゅっと両手を握り込んだ。

「私は、兄上が良いです」

「楓真……」

「兄上が良いです」

 真直ぐに柊哉を見つめ、楓真は言った。自身の望みを、楓真は、はっきりと言えるのだ。躊躇ためらいなく、子どもらしく。

 柊哉は眩しそうに目を細め、頬に微かな笑みを浮かべる。

 そっと手を伸ばし、楓真の頭を撫でて、

「すまない、楓真。また今度な」

 玄関を出る。庭の紫陽花あじさいが満開を迎えていた。空は雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな気配だった。

 蓮太との待ち合わせの時間に遅れないよう速めた柊哉の足は、しかしやしきの門の前で止まった。桐吾が立っていた。

「最近、頻繁に書物庫へ行かれているようですね。聞くところによれば、次期当主の権限で、一族以外の者を独断で中に入れておられるとか」

 柊哉は胸中で嘆息する。いずれ監視が付き見咎められるだろうとは予想していたが、こんなに早いとは思わなかった。

「ご自分の立場を、お忘れなきよう」

「……分かっている」

「本当に?」

 桐吾が、一歩、距離を詰めた。軽く屈み、柊哉の耳もとでささやく。

「いつまでも、私が貴方にかしずくと、お思いか? いずれ貴方は用済みになる。今はその時でないから、生かしているだけのこと。いくら力に秀でていようと、所詮しょせん、貴方は当主の寵愛も得られなかった独りの子ども。くびり殺すのは容易たやすい……ならば精々、従順に努め、一日でも長く命を稼ぐことを考えなさいませ……貴方は我らが天蓬の当主にはならない。させない。当主になるのは、我が息子、楓真です」

 ご自分の立場を、お忘れなきよう。

「……それも、分かっている」

 顔を伏せ、柊哉は桐吾の脇を擦り抜け、門を出た。

 書物庫へと、駆けていく。



「……そうか。ごめんな、俺のせいで……お前の立場を悪くしちまったよな」

「いや、そんなのは良い。私のほうこそ、すまない……」

 書物庫の前で、蓮太と別れの挨拶をする。坎宮かんきゅうで会うことは、もうできない。

「紙に書いて見つかったら、厄介だから……」

 そう言って、蓮太は最後に、地面に乾宮けんきゅうの地図を描いた。

「俺の家は、ここだ。何か困ったことがあったら頼ってくれ。俺にできることなら、何でもするから。もちろん、困ったことがなくても、いつでも遊びに来てほしい。……難しいかもしれないけど、いつか」

 肩をすくめて、蓮太は笑う。隣の宮なのに、柊哉にとって、それは、あまりに遠く、高い塀の向こうにある場所だった。

 去っていく彼の背中を見送る。彼の姿が、通りの向こうに消える。

 やがて、雨が降り始めた。大粒の、冷たい雨だった。

 濡れそぼちながら、柊哉は独りうつむき、やしきへと戻っていく。

「兄上」

 ふと、呼びかける声が聞こえて、柊哉は顔を上げた。路地の先で、楓真が、傘を手に、心配そうな顔で、柊哉を見つめている。

「……楓真……」

 迎えに来てくれたのか。

「兄上……っ!」

 水溜まりを踏んで、楓真が駆け寄ってくる。ぎゅっと眉根を寄せて、泣きそうな瞳に、柊哉だけを映して。

「独りに、ならないでください」

 楓真は柊哉を見上げた。目一杯、背伸びをして、柊哉に傘を差しかけて。

「兄上が独りだと、私は悲しいです」

 黒い瞳が、光をたたえて揺れる。星の流れる夜空のように。

「独りに、しないでください」

 切なる願いを、瞬かせて。

「兄上がいないと、私は寂しいです」

 望んで。

「兄上と、一緒が良いです。私は……兄上に、私の傍にいてほしいです」

「……楓真……」

「独りにしませんから、独りにしないでほしいです」

 ふたりで、いてほしいです。

「楓真……」

 傘を握る楓真の手に、柊哉は、そっと手を伸ばした。

 濡れて冷えきった柊哉の手に、触れた楓真の手は、灯るように温かかった。

「……ありがとう……」

 傘を受け取り、柊哉は微笑んだ。雨の雫が髪を伝い、頬を流れて、落ちていく。一筋の光の軌跡を引いて。

 青と白の紫陽花が咲き添う道を、ふたり並んで歩きながら、柊哉は思った。

 母には愛されなくても、弟を愛することならできる。

 誰にも守られなくても、弟を守ることならできる。

 だから、弟を、愛し、守ろう。

 そうすれば、微笑んでいられるから。

 誰も恨むことなく、憎むことなく、優しく死んでいけるから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る