弐-4
数日後。
「兄上。最近、どちらに行かれているのですか? 修練場を探しても、お姿が見えないし……私、また兄上と、剣の稽古がしたいです」
「……剣の稽古なら、私ではなく、お前の父上とするように言われただろう」
「私は、兄上が良いです」
「楓真……」
「兄上が良いです」
真直ぐに柊哉を見つめ、楓真は言った。自身の望みを、楓真は、はっきりと言えるのだ。
柊哉は眩しそうに目を細め、頬に微かな笑みを浮かべる。
そっと手を伸ばし、楓真の頭を撫でて、
「すまない、楓真。また今度な」
玄関を出る。庭の
蓮太との待ち合わせの時間に遅れないよう速めた柊哉の足は、しかし
「最近、頻繁に書物庫へ行かれているようですね。聞くところによれば、次期当主の権限で、一族以外の者を独断で中に入れておられるとか」
柊哉は胸中で嘆息する。いずれ監視が付き見咎められるだろうとは予想していたが、こんなに早いとは思わなかった。
「ご自分の立場を、お忘れなきよう」
「……分かっている」
「本当に?」
桐吾が、一歩、距離を詰めた。軽く屈み、柊哉の耳もとで
「いつまでも、私が貴方に
ご自分の立場を、お忘れなきよう。
「……それも、分かっている」
顔を伏せ、柊哉は桐吾の脇を擦り抜け、門を出た。
書物庫へと、駆けていく。
「……そうか。ごめんな、俺のせいで……お前の立場を悪くしちまったよな」
「いや、そんなのは良い。私のほうこそ、すまない……」
書物庫の前で、蓮太と別れの挨拶をする。
「紙に書いて見つかったら、厄介だから……」
そう言って、蓮太は最後に、地面に
「俺の家は、ここだ。何か困ったことがあったら頼ってくれ。俺にできることなら、何でもするから。もちろん、困ったことがなくても、いつでも遊びに来てほしい。……難しいかもしれないけど、いつか」
肩を
去っていく彼の背中を見送る。彼の姿が、通りの向こうに消える。
やがて、雨が降り始めた。大粒の、冷たい雨だった。
濡れそぼちながら、柊哉は独り
「兄上」
ふと、呼びかける声が聞こえて、柊哉は顔を上げた。路地の先で、楓真が、傘を手に、心配そうな顔で、柊哉を見つめている。
「……楓真……」
迎えに来てくれたのか。
「兄上……っ!」
水溜まりを踏んで、楓真が駆け寄ってくる。ぎゅっと眉根を寄せて、泣きそうな瞳に、柊哉だけを映して。
「独りに、ならないでください」
楓真は柊哉を見上げた。目一杯、背伸びをして、柊哉に傘を差しかけて。
「兄上が独りだと、私は悲しいです」
黒い瞳が、光を
「独りに、しないでください」
切なる願いを、瞬かせて。
「兄上がいないと、私は寂しいです」
望んで。
「兄上と、一緒が良いです。私は……兄上に、私の傍にいてほしいです」
「……楓真……」
「独りにしませんから、独りにしないでほしいです」
ふたりで、いてほしいです。
「楓真……」
傘を握る楓真の手に、柊哉は、そっと手を伸ばした。
濡れて冷えきった柊哉の手に、触れた楓真の手は、灯るように温かかった。
「……ありがとう……」
傘を受け取り、柊哉は微笑んだ。雨の雫が髪を伝い、頬を流れて、落ちていく。一筋の光の軌跡を引いて。
青と白の紫陽花が咲き添う道を、ふたり並んで歩きながら、柊哉は思った。
母には愛されなくても、弟を愛することならできる。
誰にも守られなくても、弟を守ることならできる。
だから、弟を、愛し、守ろう。
そうすれば、微笑んでいられるから。
誰も恨むことなく、憎むことなく、優しく死んでいけるから。
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