弐-3

 薄墨うすずみ色の梅雨空が、まだらに雲を広げている。宮の最奥、訪れる者の滅多にいない、一族の書物庫の前に、柊哉は立っていた。過去に何度も試みられたという、大蛇おろちの呪いを解く方法の数々。それが、どんなものだったのか、知りたいと思った。

 書物庫は高床式で、扉の前には、幅の広い頑丈な階段が架けられている。建物は古いが、定期的に修繕が施されているので、それほど傷んではいない。

 階段に足を掛けたところで、柊哉は、ふと、扉のかんぬきが外されていることに気がついた。

「誰か、いるのか……?」

 階段を上がり、扉越しに声を掛けてみたが、返事はない。いぶかしみながら、柊哉は、そっと、扉を開く。

 最初に見えたのは、一本だけ灯された蝋燭ろうそくの炎。続いて、扉を開けるにつれ、外の光に照らされていく、床に座った小さな背中。

「っ、わぁ!」

 光に気づいたのか、その背中が跳び上がり、こちらを振り向く。

 柊哉と同い年くらいの少年だった。柊哉の家では使用人でも着ないような、粗末な衣をまとっている。目と口をあんぐりと開け、少年は柊哉を見つめたまま固まった。

 座った姿勢のまま真上に跳んだ彼ほどではないが、柊哉も少なからず驚いていた。天蓬一族で、今、十五歳以下の子どもは、自分と楓真だけと聞かされていた。実際、これまでに柊哉は一度も、楓真以外の子どもを見たことはない。彼は天蓬の者ではないのだろうか。ならば、何故、この書物庫にいる? 中途半端に扉を開いたまま、柊哉も少年を見つめた。銀の髪と金の瞳――彼の容姿は、力が開花した九星の特徴を有しているが、髪は銀色というよりすず色に近く、瞳も金より銅に近い。天蓬では見かけない……混血を進めた氏族の者だ。柊哉の瞳に、警戒の色が浮かぶ。

「そこで、何をしている? 天蓬の者ではないだろう」

「ご……ごめん!」

 顔の前で両手を合わせ、彼は頭を下げた。

「術の勉強をしたかっただけなんだ! 勝手に入って悪かった! 許してくれ!」

 少年の必死な様子に、柊哉は警戒の弓弦ゆづるを、僅かに緩めた。

「術の勉強?」

 柊哉が尋ねると、少年はうなずいた。

「俺、先月、やっと力が開花したんだ。でも、俺の宮には、術を教えられる大人はいなくて……皆、もうほとんど力を失ってしまっているから……指南書だって、ろくに残っていないし……せめて印の結び方だけでも学べたらと思ったんだ……」

「それで、天蓬の書物庫に……」

「うん……あっ、でも、俺、天蓬と全く縁もゆかりもない人間じゃないんだぜ? 俺の血の半分は、天蓬だから。普通より遅れてでも力が開花したのも、きっと天蓬の血があったからだ」

「血の半分が、天蓬?」

 柊哉は驚いた。天蓬一族は、一族以外の者との婚姻を、固く禁じている。天蓬の血が薄まり、力が弱まるのを防ぐためだ。

「駆け落ちだよ。俺の父上が天心てんしんで、母上が天蓬。俺の両親は、恋に生きた人たちだから」

 少年は、さらりと笑った。天心一族の宮――乾宮けんきゅうは、都の北西にある。北に位置する天蓬一族の坎宮かんきゅうの、隣だ。

「俺は天心蓮太れんた。よろしくな」

 彼は気さくな笑みを開いた。

「……私は……」

 名乗ろうとして、柊哉は言いよどむ。自分が天蓬一族の本家の嫡男だと知ったら、彼はもう、こんなふうに軽やかに話してくれなくなるのではないか。

 しかし、そんな柊哉の逡巡しゅんじゅんは、すぐに払われた。

「知ってる。天蓬柊哉だろ。一目見て分かったよ。お前のうわさは、天心の宮にも届いているから」

「噂……?」

 柊哉は眉根を寄せる。いつかふすま越しに耳にした、使用人たちのささやき声を、思い出していた。

 だが、蓮太が言ったのは、全く異なることだった。

「九星の氏族の誰よりも綺麗な金の瞳と銀の髪をしているってさ。本当にうわさ通りだから驚いた。それだけはらいの力も凄いんだろうな。顔も綺麗だ。俺の母上も綺麗な人だったけど、お前は、それ以上だ。天蓬一族っていうのは、美男美女の一族なんだなぁ」

 息もつかずに話されて、柊哉は途惑とまどう。彼は、今まで出会ったことのない種類の人間だった。けれど、悪い気はしなかった。むしろ、心地良く、好ましく感じる。

「……書物庫だけど」

 柊哉は、小さく笑みを浮かべて、言った。

「勝手に鍵をじ開けて入るのは、やっぱり、良くないと思う」

「……だよなぁ」

 蓮太は、しょんぼりとこうべれた。

「でも……」

 柊哉は、そっと、言葉を続ける。

「今から私も、ここで調べものをするつもりだった」

「っ! それって……!」

 蓮太が、ぱっと顔を上げる。柊哉はうなずいた。

「私がいれば、無断侵入にはならない」

 それから……と、柊哉は少し頬を赤くして、提案する。

「……印の結び方を知りたいと言っていたけど、それなら、書物を読むより、実際に見たほうが早いし、分かりやすい。良かったら、私が教えようか? 調べものの後にはなるけど」

「本当に⁉ 良いのか⁉」

 蓮太が、勢い込んで、柊哉を見つめる。

「助かるよ! ありがとな! 恩に着るよ! じゃあ、印の結び方以外のことを、読ませてもらうよ。お前、良い奴だな。最高の友人だ」

「……友人……」

 馴染みのない言葉に、柊哉は目をしばたたく。蓮太は大きく頷いた。

「ああ。俺は、この恩を忘れない。親友になろう、柊哉」

 蓮太は笑った。晴れ渡る空に燦々さんさんと輝く、真夏の太陽のような笑顔だった。



 それから半月ほど、蓮太との交流は続いた。それぞれが読みたい書物を読んで、互いに持ち寄った干菓子を分け合って食べて、柊哉が蓮太に術を教えて、日が暮れてきたら、次に会う日の約束をして別れる。それは翌日のときもあれば、翌々日のときもあった。書物庫に来ない日は、彼は乾宮けんきゅうで剣の稽古を受けているらしい。

はらいの力をほとんど失くした天心だけど、皆、剣の腕を上げて、護衛や警備の仕事に就いているんだ。天心は没落したって言われるけど、ちゃんと生きているんだよ。しぶとく、長生きしてさ」

 蓮太は、そう言って、軽やかに笑い、そして、ふと遠くを見つめて、続けた。

「でもさ、それは柊哉たち天蓬や、まだ力を失っていない九星の誰かが、禍津日まがつひはらう使命を引き受けてくれているからなんだよな。だからさ、俺も、開花した力を役立てたいんだ。できる人間が、できることをする。力のある人間は、その力を、誰かを助けるために使う。そういう大人になりたいんだよ、俺」

 蓮太の笑顔を、柊哉は、とても眩しいと思った。

 どんな大人になりたいか、なんて、柊哉は考えたこともなかった。

 いつか大人になるのではなく、今、子どもでいてはいけなかった。

 望まなくなったのは、いつからだろう。

 役に立ちたいという希望が、役に立たなければという義務に変わったのは。

 義務を果たせたとき、喜びや安堵に心をほころばせるよりも、次に課せられる新たな義務を思い身構え、心を引き結ぶようになったのは。

 周りが望むから、望みは持たない。

 大人が注ぎ入れてくる望みを、自分は飲み込み、叶えていくだけ。

 どこからが大人で、どこまでが子どもなのかも、分からない。

 命じる相手が、大人から、さらに上位の誰かに、変わるだけではないか。

 従って、従って、従って。叶えて、叶えて、叶えて。何が違う?

「……大人になるという未来を、お前は信じられるんだな」

 柊哉が吐息の中に小さく言葉を落とすと、彼は聞こえなかったのか、問いかけのまなざしを向けた。柊哉は微笑み、なんでもないと、首を横に振った。

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