弐-2

 翌日の昼下がり。母の使用人が、茶席への招待を伝えてきた。ここしばらく立て続けに任務を受けた、その慰労だという。

 その言葉を信じられるはずもなかったが、当主である母の招待を断ることはできない。茶会ができるということは、今日、母の体調は幾分、良いのだろう。それは喜ぶべきことだ。

 しかし、どういう風の吹き回しだ。母は、自分を遠ざけたいのではなかったか。顔も見たくないほど、いとうていたのではなかったか。

 母の意図を掴めないまま、夕方、約束の時刻、柊哉は茶室の扉を開く。

 中にいたのは、母だけだった。瑠璃るり色の衣が、肌の色の白さを引き立てている。真直ぐな髪を、すっきりと結い上げ、背筋を伸ばして、涼やかに座しているさまは、いだ水辺に咲く一輪の杜若かきつばたを思わせた。

「急に呼び立てて、驚いたでしょう」

 母は静かに、柊哉を迎えた。温度のない、澄んだ声だった。笑顔こそ浮かべてはいないが、その表情にけんはない。

「いえ……ご招待いただき、光栄です」

 一礼して、柊哉は中へと進む。

 母の顔を間近で見るのは、いつ以来だろう。やつれてもなお美しく、凛としたたたずまいにかげりはない。

 久し振りに母の顔を目にして、柊哉が最初に思ったのは、やはり自分たち兄弟は、ふたりとも母の子だったのだということだった。楓真と自分はそっくりだと、よく言われる。父親は異なるから、兄弟ともに母に似たのだろうと、漠然と思っていたが、こうして見ると、なるほど、楓真には母の面影がある。

 ならば、楓真と似ていると言われる自分にも、確かに母の血が、見てそれと分かるほどに、現れているのだろう。間違いなく自分は……自分も、この母の子なのだ。

「他家の者から贈られた見舞いの品に、珍しい茶があって……とても香りが良いし、楓真も、美味しいと喜んで飲んだので、其方そなたにも、どうかと思ったのです」

「……私にも……?」

 母の言葉に、柊哉の心が、ふわりと緩む。常に固く封じている、十二歳の幼さが、ほんの僅かに、いましめを解かれたような。

「ありがとうございます……嬉しいです」

 胸の奥が、ほんのりと温かくなり、柊哉は顔をほころばせた。幼さの滲んだその笑みは、楓真と、とてもよく似ていた。

 だが、その後、母が手ずから淹れた茶を見て、柊哉は、自分の顔が、さっと青ざめるのを感じた。

 玻璃はりの茶器に浮かぶ、小さな黄色の花。湯気に乗ってただよう、独特の甘い香り。

「桂花茶という茶だそうです。都では馴染みのない花ですが、温暖な西方の地では、其処彼処そこかしこに咲いているとか……魔除けとして、生け垣にすることも多いそうですよ」

「……魔除け……」

「ええ。それで、茶にして飲めば内側から魔をはらえるとか……まがつ者に飲ませれば退治できるとか、色々ないわれがあるそうです」

 そういうことか……と、柊哉は袖の陰で、こぶしを握る。温もりかけていた胸の奥が、たちまちてついていく。

 この花に触れるのは、初めてではなかった。以前、都を訪れた行商が、室内香だと言って、この花を乾燥させたものや塩漬けにしたものを、瓶に詰めて売っていた。

 勧められて香りを試した柊哉は、途端に気分が悪くなり、その日は食事が一切、喉を通らなくなった記憶がある。

「……楓真は、これを……」

「ええ。おかわりがほしいと、強請ねだるほどでした」

「……そうですか」

 握り込んだこぶしを解き、柊哉は茶器に手を伸ばす。

「いただきます」

 目を閉じ、柊哉は、その茶をあおった。喉が痺れ、の奥から吐き気が込み上げる。ぐっとこらえ、柊哉は空になった茶器を置いた。ご馳走様でしたと、かすれた声で言うのが、やっとだった。

 そんな柊哉を、母は静かに見つめていた。表情を、いささかも変えることなく。

「……あかしを」

 しばらくの沈黙の後、ぽつり、と、母が、言葉を落とす。

「証を立てられればと、思いましたが……」

 まがつ者ではないという、あかしを。

 其方そなたという子を、愛せる望みがあるのだと。

「……私も」

 目を伏せ、柊哉も、苦しげな声で言った。

「証になればと……思いました……」

 私も、貴女の、息子であると。

 貴女という母に、愛される望みがあるのだと。

 たとえ迷信めいた、茶の一杯でも。

「……失礼します」

 席を立ち、扉に手をかける。茶室を出る刹那せつな、母が、そっと、呟くように、柊哉の背中に言った。

「……其方そなたには、父親の面影が、欠片もない……十二のとしまで育ってもなお、私にばかり似ている……もし、其方の顔に、ほんの僅かでも、あの男の影を見たならば、私は、この茶を飲ませる前に、其方を帰してしまえたのに……」



 茶室を出ると、既に宵闇が満ちていた。柊哉は、自室へと続く渡殿わたどのではなく、人気ひとけのない庭に降りた。篝火かがりびを避け、人目につかない暗がりへと、ふらつく足で向かう。やがて、池の水を排する溝を隠した茂みの陰に、柊哉は膝をついた。

「……う……ぇ……っ」

 苦しさに肩を震わせながら、柊哉は吐く。どうして、と、こぶしを握りながら。

 やはり自分は、まがつ者なのか。

 直毘なおびの霊力も、大蛇おろちの神力も、並ぶ者なく強いのは、禍つ者だからなのか。

 だが、自分は確かに、父と母の子のはずだ。

 人の子として、生まれたはずだ。

 大人たちは自分を、一族の最高傑作だという。

 ならば、自分は、望まれて生まれたはずだ。

「……何故です……母上……」

 逆らったことなんてない。我を通したことだってない。

 従い続けた。微笑み続けた。今だって……。

 彼らにとって……一族にとって、自分は、望み通りに生まれ、望み通りに生きている、望み通りの子のはずだ。

 それなのに、何故、誰も……誰にも……。


――この身を、抱きしめてもらえないのか。


「……大蛇おろちの呪い……」

 吐き尽くした喉を咳き込ませながら、柊哉は呟く。

 空には、いつしか暗雲が立ち込め、星はひとつも見えなくなっていた。

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