弐-1

   さやもなく 雨に打たるる つるぎ

   君が諸刃もろはに ぎしものかは




 紫陽花あじさいつぼみが、ひとつ、ふたつ、開き始めた。梅雨入り前の、最後の晴れ間の頃だった。

 禍津日まがつひはらう幾度目かの任務から戻った柊哉は、いつものように、楓真の父――桐吾とうごに報告する。

此度こたびも単身、無傷で帰還されましたか。頼もしい限りですな」

 桐吾は笑った。その笑みは晴々はればれとした明るいものだったが、その奥に、隠しきれないほの暗さが透けて見えた。言葉の端にも引っかかるものを感じたが、柊哉は気づかない振りをした。にこりと微笑み、聞き流す。しかし、桐吾は、そんな大人びた柊哉の様子に居たたまれなくなったのか、せわしなく広げた扇を振り、視線を下げた。柊哉は小さく息を吐き、苦笑まじりに、言葉をかける。

「私を単独で派遣するように命じたのは、母上なのだろう? 貴方は、当主である私の母には、逆らえないもの……仕方ないさ」

 初陣以降、通常ならば小隊で派遣される任務を、柊哉はもっぱら独りでおもむいている。

「……それは……それだけ柊哉様の御力を、信じ、認めておられるからですよ」

 桐吾はつくろうように言ったが、白々しかった。再び、にこりと笑い、柊哉は、それ以上、その話題を続ける意思がないことを、桐吾に示す。

「……柊哉様は御立派です。き御父上も、さぞ、お喜びでしょう」

 桐吾は、閉じた扇を口もとに添え、話題を変えた。

「我らの先祖が大蛇おろちを分かち、おのが身に封じて以来、我ら天蓬一族を含めて、九星の氏族は、なかなか子をせなくなりました。ほとんどが死産、かろうじて生まれても、七五三を祝う前に死んでしまいます……今、我らが天蓬一族に存命する十五歳以下の子どもは、柊哉様と、我が息子の楓真のみ……大蛇を身に取り込み、我ら九星は、その血に絶大な神力を得ましたが、同時に、激甚げきじんな呪いも受け継がれることになりました……天蓬の未来は、柊哉様と、我が息子の楓真にかかっています」

 それだけではない、と柊哉は目を伏せる。

 九星の氏族は、短命だ。特に天蓬一族は、ほぼ例外なく、よわい二十五を超えることなく寿命を迎える。十年前に身罷みまかった柊哉の父の享年は二十四。今年で二十五になる母も、去年から体調が優れなくなり、とこについている。

 だが……と、柊哉は重ねて思う。天蓬一族に生まれる子の少なさも、命の短さも、突出して、異常だ。他の一族の宮には、老人の姿も子どもの姿も、少なからずある。理由は分かっていた。柊哉も、目の前に座す、楓真の父も。

 だから柊哉は、進言する。このままでは、天蓬は滅ぶと。

「……今からでも、血を和す道を……」

「それは、我が一族には、取れぬ道です」

 桐吾は、首を横に振った。過去に何度も、大蛇おろちの呪いを解く試みはされてきた。だが、今代に至るまで、ついぞ叶うことはなかった。ならば、と考え出されたのが、九星以外の血を取り入れて混血を進め、何世代もかけて大蛇おろちの血を薄めていく方法だった。とりわけ都を統べる天禽てんきん一族は、盛んに混血を進め、血筋を広げ、今では普通の人間と変わらない寿命を手に入れることができているという。

「血を和す道は、高貴な地位を持つ天禽だからこそ取れた道。他の一族……天英てんえい天心てんしんの例を、ご存じでしょう」

 重い口調で、桐吾は言った。

 その血に継がれた大蛇おろちの呪いを薄めるため、混血を進めれば、元々備わっている直毘なおびの霊力まで弱まってしまう。一族内の婚姻でも、嫡流から離れた傍流ほど力は弱い。九星以外の血を取り入れた氏族の中には、力をほとんど失った一族もある。

「力を失くしては、禍津日まがつひを祓うことができない……務めを果たせぬ一族に褒美はなく、没落の一途を辿るのみ……我ら天蓬一族は、寿命や子孫の繁栄と引き換えに、力を維持する道を選んだのです」

 だからこそ、貴方様が天蓬一族の最高傑作とうたわれるのですよ、柊哉様。

「私も今年で二十三になります……そろそろ大蛇おろちの牙に怯えるとしになりました……本家に婿むこ入りした者として、私は、この身が呪いに蝕まれる前に、天蓬を少しでも良き未来に繋ぎたいと思っているのです」

 そう言って、桐吾は、口角を笑みの形に引き上げた。いびつな笑みだった。

「ですから……しかるべき時まで、柊哉様には必ず、生き延びていただきたいのです。……くれぐれも、御身を御無事に」

 桐吾との会話は、そこで終わった。

 廊下を歩きながら、柊哉は、ひさしの向こうの空を見上げる。暮れなずむ藍色の空に、一番星が瞬いていた。

「……然るべき時まで、か……」

 それは、楓真の力が開花する時か。

 しかし母は、今すぐにでも自分に死んでほしいらしい。禍津日まがつひが現れ、はらう命が下った際、一族の中から誰を、何人、派遣するかは、当主が決める。母が、自分を、単身で向かわせ続けるのは、あわよくば任地で命を落としてくることを望んでいるからだろう。

 そして、桐吾もまた、柊哉の生を望むのは、楓真の力が開花するまでだ。彼は、実の息子である楓真を、次の当主にえたいのだろう。だが、柊哉がいる限り、弟である楓真は、当主になれない。楓真の力が開花すれば、桐吾は一気に、柊哉に牙をくだろう。血統に支えられた地位こそあれ、柊哉の味方となり、守る大人は、今、この一族には、一人もいない。柊哉の父が生きていれば、違っただろうか。父が亡くなったとき、柊哉はまだ二歳で、父の顔すら、よく憶えていないけれど。

「……聞いたかよ、任務の話」

「ああ、また柊哉様の独擅場どくせんじょうだろう」

 ふすまの向こうで、使用人たちのささやく声が聞こえる。柊哉は思わず足を止めた。

「良いじゃないか。本家の次期当主様が直々に禍津日まがつひを祓いまくってくださるなら、俺たちは楽勝だろう」

「しかしなぁ、わざわざ危険な任務に、次期当主様を単独で向かわせるなんて……しかも、まだ十二歳だろう? 子どもじゃないか」

「ばかだねぇ、あんた、その意味を考えてごらんよ」

「意味?」

「私の口からは恐ろしくて言えないけどね。でも、柊哉様なら生き延びるだろうよ。あの方の力は途轍とてつもないもの。一族が束になってもかなわない。私には分かるんだよ。あぁ、恐ろしい……」

 柊哉は聞くのをやめた。足を速め、その場を通り過ぎる。早く、自室へ戻ろう。読みかけの書物でも開いて、意識をらそう。そう考えたとき、

「兄上!」

 不意に、廊下の先から、明るい声が響いた。楓真だった。ぱたぱたと駆け寄り、きらきらと瞳を輝かせて柊哉を見上げる。

「どうした? 楓真」

 楓真の明るい勢いにされ、柊哉は苦笑まじりに、小首をかしげる。楓真は袖の中に隠した手を後ろに回し、はにかんだ笑みを浮かべて言った。

「さっきまで、母上と一緒に、折り紙をしていたのです」

「……そうか」

 無邪気に報告する楓真に、柊哉の胸の奥が、ちりりと痛む。柊哉には、母と一緒に遊んだ記憶など、ひとつもない。

「それで……あの……」

 柊哉の胸中など知るよしもなく、楓真は頬を赤らめながら、言葉を続ける。

「上手に折れるようになったと……母上に、褒めていただいたので……」

 おずおずと、楓真は隠していた手を、柊哉に掲げる。

 その手には、小さな折り鶴が載っていた。

「母上が教えてくださいました。鶴は、とても長生きなので、長寿の御守りになると……」

「それを、私に?」

 柊哉は瞬きをする。しかし、その瞳は、すぐにかげり、まつげの下で揺れた。

「……それなら、母上に差し上げたほうが良いのではないか?」

 目を伏せた柊哉に、楓真は首を横に振った。

「母上には、その場で差し上げました。この鶴は、自分の部屋に戻ってから、兄上のために折ったものです」

「私の……?」

「はい。私は、兄上にも、長く生きてほしいので」

 楓真は笑った。ゆがみのない、真直ぐな笑みだった。何の裏もない、心からの言葉だった。柊哉を見上げる瞳は、かげにごりもなく、澄みきった光が、星のようにきらめいていた。

「……ありがとう、楓真」

 差し出された折り鶴を、そっと取る。白藍しらあい色紙いろがみで折られた鶴だった。白藍は、柊哉が好んでまとう衣の色だ。

 絶望に落ちかけていた心が、一息ひといきに引き上げられた心地がした。楓真の想いが羽となり、くらく冷たく重い一族の闇から、空へと軽やかに飛び立たせてくれるような。その先にあるのは、光だった。満天の星空。楓真は柊哉にとって、闇夜を照らす星だった。

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