壱-2

 翌日、昼餉ひるげの後すぐに兄と修練場に向かおうとした楓真だったが、運悪く、父に捕まってしまった。修練に行くこと自体を止められたわけではない。父に言いつけられていた学問の書を、まだ半分しか読んでいないのを知られてしまったのだ。

「修練から帰ってきたら、お前は疲れてろくに読めないまま寝てしまうだろう。先に今日の分を読んでしまいなさい」

 父の言葉は、もっともで、楓真は、ぐうの音も出なかった。兄には先に修練場に行ってもらい、後から楓真が追いかけることになった。

 大急ぎで書を読み終え、父の口頭試問も突破して、晴れて楓真が修練場に着いたときには、陽は少し傾きかけていた。しかし幸い、初夏の昼間は充分に長く、空はまだ茜が滲むことなく、青々と明るく澄んでいる。

 宮の西側に広く取られた修練場の片隅に、兄の背中を見つける。

 星天術の修練をしているのだろう。兄の周囲の空気が、ぴんと張り詰めていく。

 楓真は、木の陰から、そっと、兄を見つめた。

 兄のつるぎが、すっと空を切る。

 やいばが、ひらめく。


――焼き払え、火之加具土ひのかぐつち


 瞬間、巨大な火柱が、円を描くように、兄の周りに上がった。鮮やかな紅の業火。以前に見せてもらったことのあるてんろう華蓋かがいの術よりも、ずっと強力な術だった。

「……すごいや……兄上……」

 楓真は感嘆の息をつく。気づいた兄が振り向いた。つるぎを鞘に収めると、燃え盛る炎が、ふっと消える。

「楓真」

 兄は笑顔で楓真を迎え、用意していた木剣に持ち替えた。だが、差し出した木剣を受け取る楓真の顔に、僅かなかげりを見つけて、小首を傾ける。

「どうかしたのか? 楓真」

 兄の問いかけに、楓真は呟くように言った。

「……剣術に、意味はあるのでしょうか」

 兄の術を見て、思う。術が使えれば、それが全てではないか。剣の腕を上げても、何の意味もないのではないか。

「それは違うよ、楓真」

 兄が、穏やかに、楓真を正す。

禍津日まがつひは、様々な姿をしている。霊力を込めた剣で斬らなければならない場面も少なからずあるんだ。印を憶え、術を使いこなすのと同じくらい、剣の型を憶え、腕を上げることも必要だ。……私たちの祖、直毘なおびの氏族が、今の九家に名を変えるきっかけとなった大蛇おろちとの戦いも、そうだっただろう?」

 兄の言葉に、楓真は書で学んだ一節を思い出す。数百年の昔、巨大な禍津日まがつひが、八つの頭を持つ大蛇の姿となり、国を襲った。九つに分かれていた直毘の氏族は、大蛇と戦い、その頭を斬り落とし、八つの頭と一つの胴を、各々その身に封印した。これにより、氏族には、元々備わっていた霊力に加え、大蛇おろちの力が宿ることとなる。術も形を変え、新たに星天術と名付け、氏族の名も改め、等しく天の字を掲げた。

「それにな、楓真……」

 兄が小声で、楓真にささやく。

「さっき、お前は、私が修練していた炎の術を見ただろう。あれは、大蛇おろちの力を、つるぎに乗せて放ったものだ」

「えっ?」

 楓真は目を丸くした。対する兄は、笑みの形に目を細めて、うなずく。

「ああ。手でも扱えなくはないが、つるぎを使うほうが制御しやすい。剣も粗末にできないよ」

「そうなの……ですか……」

 楓真は、ごくりと喉を鳴らす。そして、ふと、湧いた疑問を口にした。

「霊力と、大蛇おろちの力は、使い分けられるものなのですか?」

 そもそも力が開花していない楓真には、その感覚すら分からない。

「使い分けられるよ。でも……」

 そこで兄は一度、言葉を切り、周囲に軽く視線を巡らせ、人がいないことを確かめると、一段とひそめた声で、答えた。

「今の時代で、大蛇の力を使えるのは、私だけのようだ。他の皆は、自分の使っている力の区別がついていない以前に、そもそも霊力しか使えていない。長い年月をかけて、血が和していったからだ。……大蛇の呪いは、まだ消えていないのに」

「大蛇の呪い?」

 楓真が首をかしげると、兄は苦笑して肩をすくめた。

「力が開花すれば、いやでも知ることになるよ」

 そう言って、兄は楓真を促すように、きびすを返した。剣術の稽古に適した場所へと歩いていく。その背中を、楓真は小走りに追いかけた。

 どこか遠い背中だと思った。





 茜に染まる空の下、兄に背負われ、やしきへと戻る。

「……ごめんなさい、兄上……」

「いや、謝らなければならないのは、私のほうだ」

 剣術の稽古中、張り切りすぎた楓真は、盛大に足を滑らせた。咄嗟とっさに支えようとした兄の腕は間に合わず、派手に転んだ楓真は、約束よろしく足をくじいてしまった。水で冷やした布で足首を包まれ、楓真は今、兄の背に揺られている。申し訳なくて、情けなくて、楓真は泣きそうになるのを、必死でこらえていた。

「……私の力は、ちゃんと開花するでしょうか」

 項垂うなだれた楓真が、兄の背中で呟く。

「楓真は、まだ七歳だろう。力の開花は、大体、十歳を過ぎてからだ」

「でも……兄上はよわい五つで開花したと、父上から聞きました」

「……余計なことを」

「え?」

「いや……私が少し特殊なだけだ。お前が焦ることはないよ」

 楓真を軽く背負い直し、兄は家路を急いだ。

「……もう、一緒に修練をしてはもらえなくなりますか……?」

 こんなことになって、兄に迷惑をかけてしまって。

 楓真が、消え入りそうな声で言う。

「……そんなことはないよ」

 兄が微笑む気配がした。声は穏やかだったが、その微笑の色は、背中越しで見えない。

「お前が望むなら、私はいくらでも相手をするし、お前を強くするためなら、私はいくらでも――」

 兄の言葉が、途中で切れた。やしきの前に人だかりができている。使用人たちだった。

「楓真様!」

 こちらに気づいた使用人が数名、駆け寄ってくる。兄は、そっと楓真を下ろし、彼らに預けた。

「足をくじいている。手当を」

「……はい……」

 使用人たちが、気遣わしげな視線を兄に向けながら、楓真を抱え、邸へと運んでいく。邸の門の先で、小さく身を縮めて立つ父と、その前に立つ母の姿があった。父は迂闊うかつにも口を滑らし、楓真が兄と修練場へ行ったことを、母に知られてしまったらしい。

「待ってください、母上! 兄上は悪くありません! 私が兄上に頼んで、稽古をつけていただいたのです。足を挫いたのも私の不注意です。私が勝手に転んで――」

 言い終える前に、ふすまが閉ざされた。伸ばした手の先で、母が兄の頬を打つ音が、冷たく響いた。

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