壱
壱-1
問ふぞ悲しき
夜の
門の両脇に植えられた
「帰ってきたぞ!」
大人たちが歓声を上げ、それぞれ身内を見つけて駆け寄っていく。
「兄上!」
ぬかるんだ土に足を取られながら、楓真も笑顔を咲かせて走る。
見つけるのは簡単だった。大人たちの群れの中で、ただ一人、子どもだったから。そして何より、一際、目を引く、美しい銀の髪と金の瞳をしているから。
「楓真」
駆け寄る楓真に気づいて、兄は微笑んだ。けれど、その体に飛びつかせてはくれなかった。
「私の体に触れてはだめだ、楓真。まだ、
流れるような所作で、兄は楓真から距離を取る。分かってはいても、楓真の胸の奥で、膨らんでいた明るい気持ちが
「……はい。兄上」
しゅんと
「迎えに来てくれて、ありがとう。先に
+
宮の大路を、楓真は
坎宮に、老人と呼べる年齢の者は、一人もいない。
生まれてから一度も坎宮から出たことのない楓真には、知る
「……そうですか。あれが、無事に戻ったのですね……その力を、振るったのですね……」
庭園を望む広い板敷の部屋。楓真の母が、寝台の上で、体を起こす。去年の晩夏から、母は体調が優れず、
楓真は、少しでも母を元気づけようと、一層、弾んだ声で、報告を続けた。
「はい。無傷で帰還されました。さすが兄上です。
「なりません」
静かに楓真の報告を聞いていた母が、突然、強い口調で遮った。
「この部屋に近づかないよう、言っておきなさい。
視線を落とし、母は
「……ですが……母上……」
楓真の瞳が、
「兄上は、きちんと
「あれの
母は、なおも、首を横に振った。
「楓真、貴方がこの先、霊力を開花し、任地に
しかし、あれは、違います。
「あれは、忌まわしいものです……穢らわしいものです……顔を見たくもない……」
母は両手で顔を覆った。楓真には分からない。どういうことかと尋ねても、母は無言で首を横に振るばかりだった。楓真は
「……
その
「……兄上に、なんて言おう……」
思えば、楓真が物心ついたときから、母が兄を遠ざける場面を度々目にしている。母は兄のことが嫌いなのだろうか。でも、どうして? 楓真には分からない。
「……兄上……と、父上……?」
「申し訳ありません、柊哉様。せっかくの初陣が、急な援軍となってしまい……」
「私が行くと言ったのだ。役に立てて、嬉しかったぞ」
恐縮する大人と、
楓真と兄は、異父兄弟。楓真の父と兄に、血の繋がりはない。もっとも、一族として、遠い親戚には当たるだろうけれど。
兄の父親は、楓真が生まれたときには既に
「せめて、今晩は、
「いらないよ、宴なんて……と言っても、それでは体裁が悪いのだろうね」
「……大人の事情を
「私のほうこそ、いつも任せて、すまない……身近な大人は、貴方しかいないものだから」
兄が苦笑して、退出の挨拶をする。続いて
楓真がいることに、兄は気づいていたのだろう。驚くことなく楓真を見下ろし、小首を傾けて微笑んだ。真直ぐな銀の髪が、さらりと揺れる。
「母上は、変わりなかったか?」
兄の問いに、楓真は
「お変わりないなら良い。私の無事を伝えてくれて、ありがとう、楓真」
緩やかに
「兄上」
背中を追いかけ、兄を見上げる。
「明日、私に剣術の稽古をつけてほしいです。星天術はまだ使えないけど、剣術の修練なら、今の私でも、できるから……」
衣の袖口を、ぎゅっと握って、楓真が言う。振り返った兄は、少し困ったように笑った。
「私は良いが……母上が、お許しにならないんじゃないか?」
「えっ……と……母上には……内緒で……」
楓真は
ぽん、と、さっきと同じ温もりが、頭を撫でる。
「分かった。明日……
「っ、はい!」
ぱっと顔を上げ、楓真が笑顔を咲かせる。そんな楓真を見て、兄も笑った。影のない、
何かが割れる音が響いたのは、そのときだった。兄の部屋からだった。見ると、花を
「申し訳ありません……!」
兄に気づいた使用人の
阿枇の手は血の気を失くし、小さく震えている。そんな阿枇に目を落とし、兄は静かに言った。
「
兄の言葉に、阿枇は一瞬、
「なら、良い。今なら、私と弟以外、誰も見ていない。今のうちに、片づけてくれ」
「えっ……?」
瞠目し、阿枇が思わず顔を上げる。そして、はっと気づくと、再び顔を伏せた。
「そんなわけには、まいりません……
「この部屋の
「できません。なにとぞ、罰を、お与えください……そうでなければ、私は
阿枇は
「では……仕方ない」
ふわりと、柔らかに微笑んで、
「私ひとりで片づけるとしよう」
そう言って、すっと膝を折った。一片の
「これなら私も
弟には口止めが必要だがな、と楓真を振り返り、悪戯っぽく笑って。
「そんな……柊哉様……使用人の前に、膝を折るなんて……」
阿枇が一層、大きく目を見開いて、兄を見つめる。驚愕、尊敬、畏怖……様々な感情が混じり合い、信じられないものを見るように、瞳が揺れる。
その瞳を受けとめて、兄は言った。
「
「……は……はい……っ、はい! ……必ず……!」
阿枇の声が震えた。けれど、その震えは、恐れによるものでは、もうなかった。
背を丸め、阿枇は、何度も兄に礼を言った。
「そういうわけだから、このことは誰にも言わないでくれ、楓真」
内緒だぞ、と兄は微笑んだ。楓真は、ぼうっと兄を見つめ、そして、こくん、と
母が何と言おうと、楓真にとって、兄は、どこまでも優しい兄だった。
大好きな、唯一無二の兄だった。
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