壱-1

   黒鉄くろがねは つるぎのさだめ 知るらむか

   問ふぞ悲しき いとしき白銀しろがね




 夜のとばりが上がるとともに、雨のすだれも開いていった。朝陽が光の矢を放ち、とりの声が目覚めを歌う。

 あかつきの空の下、みやの門前で、少年――天蓬てんほう楓真ふうまは、大人たちに混じって、通りの先に望む人影が現れるのを、今か今かと待っていた。色の白い体に、黒い髪と瞳。周囲の大人たちは皆、銀の髪と金の瞳をしているので、楓真は時々、自分が白鳥の群れに迷い込んだ一羽のからすになったような心地になる。まだ七歳だから仕方がない。あと三年もすれば、自分も皆と同じ、銀の髪と金の瞳になれるはずだ。一族は皆、十歳を超えた頃から霊力が開花し、髪と瞳の色を変える。力が強いほど、髪の銀はまばゆく、瞳の金は鮮やかに輝く。

 門の両脇に植えられた紫陽花あじさいつぼみが、光を弾いてきらめく。葉先で震えていた雫が、とうとう楓真の爪先つまさきに落ちたとき、通りの先に、人影の一群が見えた。疲労の色は濃いものの、彼らの顔に絶望はない。

「帰ってきたぞ!」

 大人たちが歓声を上げ、それぞれ身内を見つけて駆け寄っていく。

「兄上!」

 ぬかるんだ土に足を取られながら、楓真も笑顔を咲かせて走る。

 見つけるのは簡単だった。大人たちの群れの中で、ただ一人、子どもだったから。そして何より、一際、目を引く、美しい銀の髪と金の瞳をしているから。

「楓真」

 駆け寄る楓真に気づいて、兄は微笑んだ。けれど、その体に飛びつかせてはくれなかった。

「私の体に触れてはだめだ、楓真。まだ、みそぎをしていない。お前にけがれが移ってはいけないから」

 流れるような所作で、兄は楓真から距離を取る。分かってはいても、楓真の胸の奥で、膨らんでいた明るい気持ちがしぼんでいく。

「……はい。兄上」

 しゅんとうつむいた楓真に、兄は苦笑して言った。優しい色だった。

「迎えに来てくれて、ありがとう。先にやしきへ戻って、皆に無事を伝えてくれ」





 みやとは、このみやこにおいて、ひとつの御殿を指すものではない。九星きゅうせいと呼ばれる九つの氏族が住まう居住区を指す。一つの氏族に対し、一つの宮があり、楓真たち天蓬一族の宮は坎宮かんきゅうと呼ばれ、都の北に置かれている。宮の周囲は高い塀で囲まれ、門をくぐらなければ入ることができない。九つの宮。九つの一族。それが、この国の中枢を――守護を、担っている。都の中央、中宮ちゅうぐうにて国を統べる、天禽てんきん一族を筆頭にして。

 宮の大路を、楓真はやしきに向かって走っていく。他の宮を知る者が、坎宮を初めて訪れたなら、その異様さに気づくかもしれない。

 坎宮に、老人と呼べる年齢の者は、一人もいない。

 生まれてから一度も坎宮から出たことのない楓真には、知るよしもなかったけれど。



「……そうですか。あれが、無事に戻ったのですね……その力を、振るったのですね……」

 庭園を望む広い板敷の部屋。楓真の母が、寝台の上で、体を起こす。去年の晩夏から、母は体調が優れず、とこせることが多くなっていた。としはまだ二十五だが、その体は酷く痩せ、手首は骨が浮いている。

 楓真は、少しでも母を元気づけようと、一層、弾んだ声で、報告を続けた。

「はい。無傷で帰還されました。さすが兄上です。みそぎを終えて、もうすぐ、ここに来られると――」

「なりません」

 静かに楓真の報告を聞いていた母が、突然、強い口調で遮った。

「この部屋に近づかないよう、言っておきなさい。けがれを持ち込まないで、と」

 視線を落とし、母はふすまの上で、両手を握り込んだ。

「……ですが……母上……」

 楓真の瞳が、途惑とまどいに揺れる。

「兄上は、きちんとみそぎを――」

「あれのけがれは、禍津日まがつひの穢れではありません」

 母は、なおも、首を横に振った。

「楓真、貴方がこの先、霊力を開花し、任地におもむいて、その力を振るったとしても、私は戻った貴方を、この腕に抱くことができるでしょう」

 しかし、あれは、違います。

「あれは、忌まわしいものです……穢らわしいものです……顔を見たくもない……」

 母は両手で顔を覆った。楓真には分からない。どういうことかと尋ねても、母は無言で首を横に振るばかりだった。楓真はうつむいて、部屋を出た。

「……禍津日まがつひ……」

 渡殿わたどのから空を見上げ、楓真は、そっと呟く。その言葉の響きだけで、背が冷えるようなおぞましさを感じるのは、一族の血だろうか。

 禍津日まがつひ――それは古来より存在する、黄泉よみに封じられた怨念が漏れ出たもので、人に取りいて殺したり、たたったり、日照りや洪水など、様々な災厄をもたらす。

 その禍津日まがつひを、はらい、鎮める霊力を持って生まれたのが、直毘なおびと呼ばれた一族――楓真たちの祖先だ。直毘の氏族は、時代の流れの中で九つに分かれ、今の九家になったという。

「……兄上に、なんて言おう……」

 思えば、楓真が物心ついたときから、母が兄を遠ざける場面を度々目にしている。母は兄のことが嫌いなのだろうか。でも、どうして? 楓真には分からない。

「……兄上……と、父上……?」

 渡殿わたどのの先、ふすまの向こうから、和やかな二人の声が聞こえて、楓真は足を止めた。

「申し訳ありません、柊哉様。せっかくの初陣が、急な援軍となってしまい……」

「私が行くと言ったのだ。役に立てて、嬉しかったぞ」

 恐縮する大人と、鷹揚おうように笑う子ども。ふたりの関係を知らない者が聞けば、眉をひそめるかもしれない。しかし、楓真にとって、それは、いつもの日常だった。

 楓真と兄は、異父兄弟。楓真の父と兄に、血の繋がりはない。もっとも、一族として、遠い親戚には当たるだろうけれど。

 兄の父親は、楓真が生まれたときには既にく、どんな人なのかは知らないが、楓真の父より本家に近い人間だったらしい。つまり、血統を重んじる一族において、嫡流である母と、楓真の父より上位の人間を父に持つ兄は、この天蓬家で、楓真の父よりも格が上だった。

「せめて、今晩は、うたげを開きましょう。貴方様の初陣を祝って」

「いらないよ、宴なんて……と言っても、それでは体裁が悪いのだろうね」

「……大人の事情をんでいただき、かたじけない」

「私のほうこそ、いつも任せて、すまない……身近な大人は、貴方しかいないものだから」

 兄が苦笑して、退出の挨拶をする。続いて衣擦きぬずれの音が近づき、ふすまが開いた。

 楓真がいることに、兄は気づいていたのだろう。驚くことなく楓真を見下ろし、小首を傾けて微笑んだ。真直ぐな銀の髪が、さらりと揺れる。紺瑠璃こんるりはかま白藍しらあいの上衣が、涼やかな兄のたたずまいを、一層、凛と見せていた。

「母上は、変わりなかったか?」

 兄の問いに、楓真はうなずき、そして、母から言われたことをどう兄に伝えるべきか、言葉を用意できずに、開きかけた口を、まごまごと閉じる。そんな楓真の様子に、兄は察したのだろう。楓真の頭に、ぽんと優しく手を置いた。

「お変わりないなら良い。私の無事を伝えてくれて、ありがとう、楓真」

 緩やかにきびすを返し、兄は自室へと続く廊下を歩いていく。母の部屋とは真逆の、別棟へ。

「兄上」

 背中を追いかけ、兄を見上げる。

「明日、私に剣術の稽古をつけてほしいです。星天術はまだ使えないけど、剣術の修練なら、今の私でも、できるから……」

 衣の袖口を、ぎゅっと握って、楓真が言う。振り返った兄は、少し困ったように笑った。

「私は良いが……母上が、お許しにならないんじゃないか?」

「えっ……と……母上には……内緒で……」

 楓真はうつむく。落とした視線の先に、こちらに歩む兄の爪先つまさきが見えた。

 ぽん、と、さっきと同じ温もりが、頭を撫でる。

「分かった。明日……昼餉ひるげの後で良いか?」

「っ、はい!」

 ぱっと顔を上げ、楓真が笑顔を咲かせる。そんな楓真を見て、兄も笑った。影のない、ほがらかな笑みだった。

 何かが割れる音が響いたのは、そのときだった。兄の部屋からだった。見ると、花をけていた器が、床に転がり、破片が散っている。

「申し訳ありません……!」

 兄に気づいた使用人の阿枇あびが、その場に手をつき、平伏ひれふす。部屋を整える際、誤って手を滑らせたのだろう。楓真は知らなかったが、その花器は兄の七五三を祝って贈られた品で、使用人の一年分の給金よりも高価だった。

 阿枇の手は血の気を失くし、小さく震えている。そんな阿枇に目を落とし、兄は静かに言った。

其方そなた、怪我はしていないか?」

 兄の言葉に、阿枇は一瞬、途惑とまどったように吐息を揺らし、震える声で、いいえと答えた。

「なら、良い。今なら、私と弟以外、誰も見ていない。今のうちに、片づけてくれ」

「えっ……?」

 瞠目し、阿枇が思わず顔を上げる。そして、はっと気づくと、再び顔を伏せた。

「そんなわけには、まいりません……とがを……罰を、受けなければ……」

「この部屋のあるじは私だ。その花器も、私に贈られたものだ。その私が良いと言っているのだから、何の問題もないだろう。さぁ、顔を上げてくれ。これでは、動くに動けまい」

「できません。なにとぞ、罰を、お与えください……そうでなければ、私はみずから、償いをたてまつらなければならないでしょう」

 阿枇はかたくなに平伏した。兄が小さく息をつく。

「では……仕方ない」

 ふわりと、柔らかに微笑んで、

「私ひとりで片づけるとしよう」

 そう言って、すっと膝を折った。一片の躊躇ためらいもなく。

「これなら私も罪人つみびとだ。其方そなたを裁く資格はなくなる」

 弟には口止めが必要だがな、と楓真を振り返り、悪戯っぽく笑って。

「そんな……柊哉様……使用人の前に、膝を折るなんて……」

 阿枇が一層、大きく目を見開いて、兄を見つめる。驚愕、尊敬、畏怖……様々な感情が混じり合い、信じられないものを見るように、瞳が揺れる。

 その瞳を受けとめて、兄は言った。

其方そなたも天蓬一族の者だろう。いつか、其方にも出陣の命が下り、任地で私と共に戦う日があるかもしれない。もし、どうしても其方の気が済まないというのなら、任地で私の身が危うくなったとき、力を貸してくれ。それを償いの代わりにしよう」

「……は……はい……っ、はい! ……必ず……!」

 阿枇の声が震えた。けれど、その震えは、恐れによるものでは、もうなかった。

 背を丸め、阿枇は、何度も兄に礼を言った。

「そういうわけだから、このことは誰にも言わないでくれ、楓真」

 内緒だぞ、と兄は微笑んだ。楓真は、ぼうっと兄を見つめ、そして、こくん、とうなずいた。兄という人間の、兄という人間らしさを、改めて目にした気がした。

 母が何と言おうと、楓真にとって、兄は、どこまでも優しい兄だった。

 大好きな、唯一無二の兄だった。

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