最終話 封筒
蝉の鳴き声が聞こえた気がする。
一匹ではなく、二匹、三匹と徐々に増え、幾重にもかさなってやがて輪唱がはじまる。ゆっくりと意識が覚醒していく。
ああ、そういえば、昨日は先生と、崇浩さんの骨を盗んで、いっしょに眠りについたんだった。横に寝返りを打ったところで、完全に目が覚めた。
腕を置きなおした方向に、先生の感触がない。
「先生?」
かすれた声で呼ぶが、先生の返事はなかった。僕はベッドの上で上半身を起こす。シャワーの音もしない。先生が寝ていたはずのベッドの半分は、ひんやりとしている。あたりを見回すと、何かがおかしいことに気づいた。
あるべきものが、ない。背筋がキンと凍ったような感覚になった。ふりかえるとベッドヘッドに置いていた水色の骨壷がない。先生の荷物もない。リュックも着替えも、靴も骨壷も。一気に喉が狭まったような気がして息苦しくなった。あわててベッドからおりようとした僕は、膝に力が入らず、ベッドの横に崩れ落ちてしまった。
「痛え……」
床に膝を強くぶつけてしまったせいか、ズキン、と鈍い痛みが染み渡った。でも、そんなことはどうでもよかった。
先生。先生。心のなかで先生を呼ぶが、彼女ははじめからこの部屋にいなかったかのように、しずかな朝だった。身なりもそこそこに整えて、僕は急いで二階の部屋から飛び出して、外階段を駆けおりた。もしかしたら、先生はもう土間で先に朝食を食べているのかもしれない。きっとそうだ。今日この島を出るから、もう荷物をまとめて車に載せただけかもしれない。そうですよね、先生?
土間からは炊きたてのごはんと味噌汁のいい香りが漂ってきた。祈りにも似た気持ちで、土間に飛びこむ。そこでは、相田さんがテーブルに朝食を配膳していた。驚いた表情で、「おはようございます」と挨拶してくれた。先生の姿はない。心臓が、キリキリと痛かった。
「あの、せ……。あ、姉は」
思わず先生と言いそうになり、あわてて言い直す。相田さんはごはんを茶碗によそいながら「ああ、」と笑った。
「お姉さんは今日、朝早くから起きていらっしゃいましたよ。何でも急なお仕事が入られたとかで、宿泊代金だけお支払いいただいて車で先に戻られたみたいです」
突然地面がなくなったように、からだから力が抜けていくのがわかった。相田さんの笑顔がうまく見れなくて、ハ、ハ、と息があらくなる。
昨日の夜、先生はそんなこと一言も言っていなかったし、いま、高校は夏休みだ。教師である先生に、予定になかった仕事が入ることなど、考えられなかった。
「弟さんにはこれを渡してほしいって、預かってますよ」
相田さんは事務所の入口にすえつけられた棚に置かれていた、ひとつの白い封筒を渡してくれた。シワひとつない封筒を、僕は震える手で受け取る。相田さんに何も告げずに僕は土間から出て、先生の車を停めていた場所に出た。先生といっしょにここまで乗ってきた黒い軽自動車は忽然と姿を消していた。
民宿の前を通る道路まで歩き、左右に視線を巡らせる。人の姿も車の影もなかった。蝉の鳴き声だけが四方八方から降り注いでくる。
空を仰ぐ。どこまでも澄んだ、入道雲に囲まれた青い空があった。
僕は悟った。ああ、先生は行ってしまったのだ。崇浩さんの骨とともに、きっともう、手の届かない場所へ。僕は先生のそばにいながら、引き止めることができなかったのだ。昨日の夜、先生が僕に言ってくれた「ありがとう」は、先生の心からの感謝ではなく、僕をただ安心させるためだけの慰めの言葉だったのだ。 僕は先生に、選ばれなかった。
なんとかこらえていたがもう立っていられず、倒れこむように道のどまんなかに座りこんだ。その拍子に、握りしめていた封筒からはらりはらりと紙がこぼれた。何枚もの一万円札だった。おそらく、ここから地元の街に帰るための、一人分の交通費くらいだった。 先生が途中、封筒を買った様子はなかった。じゃあ最初から、先生は。
乾いた地面に、あごを伝ってこぼれ落ちた涙が瞬く間にシミを作っていった。嗚咽が止まらない。もう走れないと知った夜、病院のトイレでひとり泣いたときのように、声を抑えきれなかった。
先生、先生。なんで僕を連れていってくれなかったんですか。なんで僕を殺さずに生かしたまま置いていったんですか。僕は、先生のそばにいれるだけでよかったのに。先生のそばにいれるなら、いっしょに連れて行ってくれたほうがよかったのに。
握りしめてくしゃくしゃになった封筒から、一万円札とは違う、白い紙がはみ出ていることに気づいた。便箋だった。おもむろに開く。一行目には、「天来くんへ」と先生の字で書かれていた。僕は涙を拭い、便箋に目を通していく。
いつのまにか蝉の鳴き声が止んでいた。先生からの手紙を読み進めていると、どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえた。
了
白砂を抱く 高村 芳 @yo4_taka6ra
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