26 そばにいる

「まだ、広場に屋台出とったで。祭り、楽しんでや」



 男性は懐中電灯を左右に振って、がはは、と豪快に笑った。僕は無意識に止まっていた息を大きく吐き出し、「ありがとうございます」と答えて墓地をあとにした。

 しばらく歩いてから後ろを確認すると、見回りの男性は墓地を出て、広場へ続く道を歩いていくところだった。



 
十五分ほど、そのまま月に照らされた夜道を先生と寄り添いながら歩いた。先生は何も言わず、僕に肩を預けている。僕は先生の熱を感じながら、肩を抱いてそのまま足を無意識に動かす。膝は軋むが、さきほどまでの痛みはなかった。



「大丈夫です」



 僕は先生に、何度もそう声をかけた。先生から言葉が返ってこなくても、僕は何度も声をかけた。先生は独りではないということが、すこしでも伝わればそれでいい。昼間にたっぷり熱を蓄えていた空気は風で洗い流され、草木の香りを含んだ爽やかな空気が僕らの背中を押してくれている。民宿までの道のりが、遠く遠く感じられた。





 民宿の外階段から二階の部屋に戻り、僕は先生を窓際の籐の椅子に座らせた。先生が背負っていたリュックのジッパーを開き、テーブルの上にビニル袋に包まれた骨壷をとりだす。ビニル袋をとりさり、テーブルの上にしずかに置いた。テーブルのガラス面に骨壷が当たり、コツンと小さく音をたてる。


 骨壷の薄い水色が月あかりに照らされて白く光っていた。僕はタオルを洗面台で濡らし、先生に渡す。先生の頬には幾筋もの涙が乾いた跡が痛々しく残っていた。先生が顔を拭いているあいだ、僕は先生と骨壷を挟んで向かい合うようにもうひとつの籐の椅子に腰かけた。顔を拭き終わった先生の表情はもう抜け殻ではなく、その目に光がかすかに戻っている。


 先生はゆっくりと大きく深呼吸して、骨壷に手を伸ばす。手は震えていない。蓋をそっと開き、テーブルの天板に置いた。骨に直接、月あかりが降り注いだ。



「骨って、こんなに白いんですね。白い、砂みたい」



 僕は墓地で骨を見たときからずっと思っていたことをそのままつぶやいた。でも実際には、骨は白色だけではなかった。茶色くなっているところ、黒くなっているところ、赤くなっているところ。ヒビが入っていたり割れていたり、細かったり塊になっていたり。白い砂のなかに、さまざまな色があった。


 でも、小さな骨壷のなかは白い世界だった。遺骨がおりなす表面は、まるで教科書で見た月面のようにも思える。寂しい、寂しい砂の地平。先生に肯定も否定も求めていない。ただ、僕が感じたことを知ってほしかっただけだった。先生が、ふ、と笑った。



「骨の主成分はリン酸カルシウムと炭素でできています。焼骨すると表面がセラミックのようになるので、そう見えるのかもしれませんね」



 いつもの先生に似た口調で、すこしホッとする。その知識は生物教師だからなのか、生物系の研究室にいたからなのか、それとも遺骨について調べたことがあるからなのか、僕には判断がつかなかったけれど。



「天来くん」



 先生はしずかに僕を呼んだ。先生を見つめると、久方ぶりに先生と目が合った。月あかりを受けるその真剣な表情を、僕はとても美しいと思った。はい、と返事をする。



「天来くんは、いまも死にたいと思っていますか?」



 先生の問いは、細い細い針のように僕の肌を突き刺した。ほんのすこし、でも無視できない痛みを感じる。三日前、屋上の縁に立ち尽くし、グラウンドのトラックを眺めていたときのことを思い出す。あのとき吹いていた風は温くて、残酷で、僕の背中を押すことはなかった。


 椅子に腰かけている自分の右足に、視線を落とす。テーピングを巻いた膝と、タコが硬くなった母指球。走れない膝、走り続けてきた足の裏。ちぐはぐで、なんていまの僕らしいんだろう。



 屋上で先生と相対したときと同じ、先生の問い。



「いえ、」



 自分が思った以上に、その言葉が自然とこぼれた。答えは、あのときと変わっていた。



「いまはそう思いません。走れなくても、これから先生のそばにいることはできるって、思うから」



 僕は先生をまっすぐに見返した。彼女はいままで見たことがない表情をしていた。僕にかける言葉を探しているような、そういう表情だった。そのまま先生が月あかりに溶けていってしまいそうな気がして、僕は思わず椅子から立ち上がり、先生の膝に置かれた手に右手を重ねた。先生は抵抗せず、手のひらを返して僕の手を握り返す。先生の華奢な手が、僕の肌の熱を確かめているようだった。



「先生。いっしょに地元に帰って、また学校で会いましょう。今回のことは、誰にも、何も言いません。僕も学校で先生にむやみやたらに話しかけたりなんかしません。何も無かったように振る舞います。だから先生は、崇浩さんの骨といっしょにいてください。僕を、そんな先生のそばにいさせてください」



 先生は消え入りそうな声で「ありがとう。天来くん」とつぶやいた。その音は、二人のあいだの空気に溶けていく。僕と先生は、しばらくそのまま手をつなぎながら、崇浩さんの白い骨を眺めていた。




 それからどちらからともなく、二人で同じベッドに潜りこんだ。ベッドヘッドには崇浩さんの遺骨を置き、先生と向かい合うようにして眠りにつく。先生の黒髪が、細い肩から首元にさらさらとこぼれていく。先生は疲れていたのか、目を閉じてまもなく、穏やかな寝息が聞こえてきた。先生の伏せられた長いまつげが、鼻をかすめるんじゃないかと思えるくらい近い。初めて女の人と同じ布団に入ったが、心臓がドキドキするというよりも、締めつけられるように苦しかった。



 おそらく僕たちは明日、地元の街に戻るだろう。また先生と二人でフェリーに乗って、車で高速道路を走って。家に帰ったら、僕は何をしようか。まずは勉強だろうか。大学はいままで、自分で選ぶものではなく、「大学に自分が選ばれるもの」だと思っていた。僕の足と記録がほしい大学が、声をかけてきてくれるものだと。もう、そんな夢みたいなことは絶対にない。今後は、自分のやりたいことができる大学を選べばいい。僕自身がやりたいことはまだわからないけれど、頑張って前に進もうとする誰かをサポートできるような、そんなことをやれたらいい。



 いつのまにか、睡魔がゆっくりと僕を包みこんでいく。明日帰る前に、先生といっしょに海でも眺めにいこう。きっと水面を背にする先生は綺麗だ。そう思ったところで、僕は眠りの海にしずかに沈んでいった。


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