19話
ピー……ピー……
静寂の中、ある一室に一定の機械音が刻まれるのを、僕はただ聞いていた。
先程から一言も発せていなかった。
白い壁に囲まれていた。
周りには、同じように白い服を着た大人達。
そして目の前には、体中に管をつながれた少女が寝ていた。
生きている、僕に残されたただ一人の家族。
法律上および医学上は
そして、僕がこれから死をもたらすことになる、ただ一人の、妹だった。
その拳を、血の気が失うほど握りしめ、それでもその拳を振り上げることも、叩きつけることもなく僕は立っていた。
いつもと同じように始まって、いつも通りには流れなかったその日は、僕が運命とかいう名前の、意味のわからないものに全てを奪われることになった日だった。
――落ち着いて聞くんだ……ご家族の方が、事故に遭われたそうだ
その言葉を聞いても、僕は笑顔を崩さなかった。
(何を言ってるんだろう、先生)
言葉は分かったが、何を言っているのか分からない。
事故? お父さんが、お母さんが、
「……これから、僕の車でそこまで一緒に行く。気をしっかり持って、親戚の方の連絡先はわかるか?」
「きっと大丈夫だから、ね」
廊下で、担任と、学年主任の先生達が心配する言葉も、僕には実感として響かなかった。
海に行きたいという妹の
僕は、夏休み前の終業式で、部活に少し顔を出したら電車で合流する予定だった。
「うちの父と母は、俗に言う駆け落ちっていうやつだったらしくて、母方の親戚は完全没交渉で僕は知らないんです、後、父方の祖父母は亡くなっています。唯一、父方の叔父だけがいるんですけど、いつも海外を飛び回っている人なので連絡がつくかどうかは」
「…………」
僕の言葉に、質問していた男性教師と女性教師は、共に言葉を失った。
おそらくは、僕のこれからが、多難なものになる予感を受けての無言だったのだろうか。
そうして僕が、実感など何もわかないまま連れられてきたのは、県を
その場所で、最初に訪れた部屋で見たのは、顔に布を被せられた両親。
もう笑いかけることも、叱ることもない、物言わぬ
それを見てなお、僕の心に浮かんだのは、『あぁ、ドラマでみたことある』といったような現実味の無い事だった。
白衣を来た男性が近づいてくる。
――沈痛、という面持ちで。
そして少しの沈黙が訪れた。
比較的死に慣れ、それを告げることを慣れている医師にも、これから僕に告げなければいけない現実は重いものであったのだろう。
「……美穂は、妹は、どこですか」
そんな沈黙を破ったのは、そんな僕の声だった。
車に乗っていたのは三人のはずだった。
「……こちらへ」
そういって、前を歩く医師の背を追う。
医師が、ある病室の前で足を止めるまで、足音だけが響いた。
(……美穂)
そこで初めて僕は理解した。
学校で先生達に言葉をかけられた時も、先ほどの物言わぬ両親を見た時も、テレビの中のような非現実を漂っていた心が、現実という名の目の前の世界と重なり合う。
「あぁ……っ……」
無意識の内にそう漏れる声。僕の声なのに、遠くに聞こえた。
もう既に、握り締めすぎて白くなっていた手の痛みも、周囲の風景も気にならず、ただ、その先を見る。
その部屋に取り付けられた、ガラスの窓の先で、たくさんの管につながれた少女を――。
「……あぁ……あ」
先程までの光景が
窓もない暗い部屋の中に横たわる両親の姿を――。
「…………」
そして思い知る。
自分が、この世界で独りになってしまったということを。
「……ご両親と、妹さんが巻き込まれた事故は、ひどいものであったと聞いています」
言葉を発することなく、ただ医師に顔を向けた僕に告げられた言葉は、このように始まった。
何も反応を示さない僕に、医師は続ける。
子供相手には不釣り合いなほど丁寧で、淡々とした言葉で。
「駆けつけたときには、既にご両親は息を引きとっておられました……妹さんは、意識不明の重体でありましたが、まだ生命反応があり、すぐに救命措置が行われました……しかし……」
そこで、落ち着けるように、僕をと言うよりは、それを告げる自らを落ち着けるように医師は言葉を切った。そして続ける。
「……しかしながら、処置の甲斐なく、先程、美穂さんは自発呼吸が不可能な状態との判断がなされました。現在は、人工呼吸器によって、心肺が活動している状態です」
「……植物状態、というやつですか?」
僕の言葉に、医師はしかして首を振った。
「……いえ……一般的な植物状態とは、大脳の機能の一部又は全部を失って意識がない状態ですが、脳幹や小脳は機能が残っていて自発呼吸ができることが多く、稀に回復することもあり脳死とは根本的に違うものです。今回の状況は……」
「……回復の見込みがない、ということでしょうか」
「……はい」
言葉を失いながらも、搾り出すように尋ねた言葉に、医師は頷く。
「……現在の状況は、脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な停止であり、回復する可能性は……ありません。……人工呼吸器を装着していても、数日以内に心臓は停止してしまうでしょう」
「……つまり」
「……現状態で、心臓が自発的に止まってしまうまで、呼吸器を装着することも可能です。その判断は、原則として親族の方の意思によることになります」
「……それは……」
医師の言葉に。僕は悟った。
驚くほどに、心も頭の中も静かだった。
「…………美穂の、妹の近くに行ってもいいですか?」
長い沈黙の後、僕は医師にそう尋ねた。
「…………」
医師は黙って頷き、僕と美穂の二人の時間をくれた。
それからどれだけの時間が経ったのだろう。
十分。一時間。
永遠のような一瞬のようなその沈黙の時を終え、僕は改めて目の前の少女を見下ろす。
(苦しそうだ。普段はあんなに笑ったり怒ったりで忙しいやつなのに)
人工的に呼吸をし、そして断続的に響く音と、少女には不釣り合いな管は、僕にはこの上なく息苦しそうに見えた。
「……美穂を、妹を、楽にさせてあげてください」
そう告げた声が、自分のものでないように感じながらも、僕は、自分の意思で決断を下した。
残念なことに、僕は医師の言うことがわからないほど、子供でもなかった。
そしてまた、この状態のままでおこうと迷えるほど、大人でもなかった。
だから、もう一度口にした。
「こんなに苦しそうなのは、終わりにしてあげてください。……美穂は、痛いのは嫌いだったから」
その声に、医師はただ一人、黙って頷いた。
音が、止まる。
「2021年7月20日16時18分。心停止を確認」
そう告げた声を聞きながら、僕はただ妹の顔を見つめ続けていた。
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