17話



 奏さんのマンションを夕方に出て、僕と南野は再び電車に乗っていた。

 電車は座っている乗車客は多かったが、普段の平日の夕方に比べればずいぶんと空いている。

 僕の駅に近づいていく中で、何度か、南野が僕に話しかけようとして、それで止まったりを繰り返し、何となく僕もその雰囲気に引きづられるように口が重くなったことで、僕と南野は無言で並んでつり革に掴まっていた。

 行くときは右手にあった重みが、今は無い、その事に少しばかりの寂しさを感じているのは確かだった。


「今日、さ」と南野がとうとう絞り出すように言うのに、「うん」、そう言って僕は頷く。


「奏さんもいい人だったし、凄い楽しかったよね」


「うん、それに、今日だけじゃなくて、シロを拾ってからずっと、楽しかった」


 そう、楽しかった。――――だから、寂しいと思う。

 でも、言葉にするのは楽しいの方だけだった。寂しいを言葉にすると、寂しいが増してしまう気がしていた。


「うちも……うちも楽しかった。でさ、佐藤」


「うん?」


 キキーっという音と共に電車がブレーキをかけ、ホームへと滑り込んでいく。

 あと二駅というところで、特急待ちのために少し長く停車する中で、南野が僕の名前を改めて呼んだ。


「これ、返さなきゃと思ってて、それで、いっぱいお世話にもなったから、これも」


 そして、南野がおずおずと鞄から合鍵と、可愛くラッピングされた包みを取り出して渡してくる。


「これは?」


 僕は、鍵とともに受け取ったそれを見て、南野を見た。


「合鍵と、えっと、スポーツタオル。何がお礼になるかわからなかったけど、バスケやる時に必要なものと思って。…………あのさ、正直男子にプレゼントなんてあげるの初めてでさ、相談もできる相手もいなかったから、ちょっと気に入らないかもだけど、受け取ってよ」


 見ると、夕暮れが差し込んだだけではなく、南野の頬が少し赤くなっているのが見えた。

 もしかして、これを渡すための会話の糸口に困って無言だったのだろうか、あの南野が?

 そう思うと、胸がいっぱいになるような感覚を覚えて、「ありがとう」僕はそういうのが精一杯だった。



 そんな時だった。

 ただ、この寂しくも幸せな感覚で一日を終えることができればよかったのに、どこか懐かしい、でも聞きたくなかった声がしたのは。



「佐藤じゃないか?」


 黒髪に、誰が見ても整っていると言うだろう顔立ち。長身でスタイルも良く、そらすこともなく真っ直ぐとこちらを見る目は自信にもあふれているのがわかる。

 部活帰りであろう、バスケのシューズボックスと鞄を持ったその男のことを、僕は知っていた。そういえばこいつも、引っ越してこの方向の電車だったか。


「金崎、か」


「久しぶりだな、まさかこんなところで会うとは思わなかった。それに、こんな可愛い子といるなんてな、まさか彼女……って流石にそれは無いか」


 僕と南野を見比べ、ふっと笑った顔を見て、あぁ、変わっていないな、と思う。

 そんな僕の内心には気づいているのか居ないのか、金崎は南野に向けてとびきりの笑顔を作って話しかけていた。


「こんにちは、俺は中学の時の佐藤の友人の金崎です、よろしく、凄い美人がいるなと思ったら見知った顔が並んでるからびっくりしたよ。どういう知り合いなの?」


「……あの、よろしく」


 南野が、急に馴れ馴れしく話しかけてきたそいつを見て、そして少し気を遣うように僕の方を見る。

 友人だとしたら失礼が無いようにと思っているのだろう。

 だが、正直僕としては一刻も早く立ち去りたかった。しかし電車という場所がそれを許さない。

 逃げ場もない電車の扉が閉まり、走り始める。


「同じ高校の友人だ、悪いけど、今は僕らで話してるから遠慮してくれ」


 仕方なく、僕はそれだけ告げた。

 そもそも、があってから付き合いもなくなったのに、わざわざ声をかけてくる神経がわからなかった。恐らくは、南野を見て、その隣にいる僕を話題に近づきたかったのだろうとは思うが。


 その言葉と、その前の南野の素振りを見て、僕と南野の関係を金崎がどう読み取ったのかはわからなかった。ただ、爽やかそうな整った顔に、まるで相手のことを思っているような笑みを貼り付けて、僕が一番言ってほしくないことを言う。それが金崎というやつだったということを、僕は知っていた。

 

 知った上で、止めることはできなかった。


「久しぶりなのにそんなつれないこというなよ。良かったよ、にも春がきたみたいで、心配してたんだぜ」


 心が落ちていく。

 ――よく言う、一度たりとも連絡してはこなかった。


「それにさ、知ってる? こいつ中学の時『妹殺し』って噂まで流れて孤立してさ」


 心が冷たく暗い中に沈んでいく。

 ――噂ね、僕が相談したのはお前だけだったのに、果たしてその噂の出処はどこだったんだろうな。


「高校じゃどうなのかわからないけどキミみたいな子といるってことは隠してるのかな? それにしても本当に美人だね、良かったら今後友達とか誘って遊びに行かない? 連絡先でも交換―――」


 ドロドロとした、僕には意味がわからない言葉を垂れ流していくのに、どこまでも爽やかそうな空気をまとっているのが、金崎と言う男だった。

 それに気づかなかった過去の自分を殴りたいくらいに。


 そんな男が、南野に話し続けている。

 おい、ふざけるな、と声に出したつもりが、僕の喉から出たのは掠れた声だけだった。情けなかった。こんなやつを苦手なままでいる自分も、南野の前でまで虚勢すら張れない自分も。


 だが、そんな情け無い僕の右手を温かな感触が包んだ。


「……すみません、うち、自分の大事な人の過去をヘラヘラしてこんな場所で言うような人、本当ちょっと無いんで。生理的に無理なので、二度と話しかけないで頂けますか?」


 凍えそうな心に、凛とした声が響いた。


「…………え?」


 顔をあげると、金崎が、驚いた顔をしていた。

 中学の頃、無駄に整ったその顔と声で女子を味方につけ、空気を味方にしていた男がそんな顔を見せていることに、そして何より、僕の右手を強く握りしめた南野に、僕の脳は少しばかり機能不全を起こす。


 気づかないうちに、見覚えのあるホームへと電車は到着していた。


、行こう」


 そう言って南野が右手を引いて、身を寄せるように僕のことを連れて行ってくれる。

 南野の駅はここではないのに、ずんずんと改札に向けて歩く。

 僕を、先程の悪意から守ってくれるように。



 ◇◆



「……南野」


「うち、謝らないから!」


「え?」


 手を引かれたまま歩く。

 よく分からなくなった頭で、何とか感謝を告げようと南野の名前を呼んだところで、南野が絞り出すように叫んだ。

 

 感謝の言葉を告げようとして顔を見て、僕は疑問の声のまま、言葉を失う。

 南野が泣いていた。

 泣きながら、ただ前に、僕の手を引いてくれていた。

 いつだか、シロのトイレを抱えて歩いた道を、僕と南野は手をつないで歩く。


「…………佐藤に秘密があるの、薄々わかってる。……何で一軒家に一人で住んでるのかとか、家族のこと一回も話題に出ないとか、何でバイトしてるのかとか、何でそんなに人と関わりすぎないようにしてたのかとか、いっぱいいっぱい気になるけど、わかってる!」


「…………」


「さっきの、本当に佐藤の友達だったのかも? とか、うち、やらかしたかもとか、余計なお世話だったかとか、いっぱい思うけど、佐藤にあんな顔……うちの大事だと思える人にあんな顔させるやつなんか、絶対に佐藤の友達じゃなくていい!!」


 そう言って、自分の右手で涙を拭って、でも僕の右手を掴んだ左手の力は緩めずに、南野は歩く。


 あぁ、と思った。


(これは、無理だ)


 心境は完全に白旗の気分だった。

 わかっていた。この一ヶ月、少しずつ、僕はわかりすぎるほどわかっていた。

 でも、シロを言い訳に、学校とか立場とか、様々な事を言い訳にして、その言葉を、その心に名前を付けるのを躊躇っていた。


 辞書なんて引かなくても、僕の気持ちについているその名前ははっきりしていたのに。

 この目の前の、泣けない僕の代わりに泣いて怒ってくれた少女への想いなんて、わかっていたのに。わかった上で見ないふりをしていたのに。もう僕は、見ないふりすら許されないほど溢れてしまっていた。


「ごめんな、南野」


「………違う!!」


 なのに僕の口からこぼれ落ちる言葉は謝罪で、そんなところも南野に怒られる。


「…………ありがとう」


 少し考えて、僕はいい直した。


「うん、帰る」


 次の言葉はきっと、合格だった。


「うん」


「佐藤の家に帰る」


「うん」


 手は握ったまま。

 僕は、自分の家に、目の前の強くて、脆くて、そして大事でどうしようもなくなってしまった女の子に手を引かれて歩いて帰った。


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