ビタースイートモーニング

つくも せんぺい

ビタースイートモーニング

 朝、五時半のアラームが鳴る前に目が覚める。

 自分がゆっくりと寝付けない理由なんて分かりきっているけれど、冬である今は他にできることもあり、僕の気持ちは幾分か軽くなる。


 寝室の遮光性の低いカーテンでも、まだ外は暗い。明かりは点けずに、かすかに見える僕の布団と、並んだ小さな布団の輪郭。そこから聞こえてくる寝息を頼りに、その存在を踏まないように部屋を出る。

 まだ子供が起きるには早い時間だ。

 そっと寝室の扉から出て、視線を動かし、閉まっている隣の部屋とスリッパを確認すると、足音に気を付けながら、ライトを点けて階段を降りる。


 夜の間に息が白む程冷えてしまった、古い我が家のリビング。

 僕は石油ストーブにライターで火を入れ、ポットのお湯を入れた手鍋を上に置き、早く部屋に湯気が充満するように促す。そのままソファには座らず、引き戸一枚で隔てられた台所の扉を開ける。


 お湯の蛇口を捻り、水がお湯に変わる間に、流し台のまだ洗われていないカップをすすぎ、今度はスポンジで丁寧に洗う。食器置きに伏せてから、温かくなったお湯で最後に顔を洗う。

 そして、ストーブの近くに昨夜用意した仕事着に着替えた。

 なんてことないように思える、朝のルーティンだ。



 ◇



 まだ暑い時だった。

 子供が遊びに出かけて、二人きりになった休日に、他愛もない会話の悪ふざけで抱きしめたとき。君は震える手でその腕を外した。


「ごめん。アタシはいまアナタのこと、前みたいに想えなくなってる…」


 突然、というのは僕だけの感覚で、君にとっては確かな時間があったんだろう。

 君から触れることをしなくなったことには気づいていた。


「でも、いまの家族カタチをアタシは失くしたくないの。だから、アタシを修復していきたいの。だからね、…時間をちょうだい?」


 ハッキリとした言葉で、迷いなく、でも申し訳なさそうに君は僕に告げた。


 理由はなんとなく分かっている。

 共働きを始めて、小さかった君の世界が広がったこと。

 献身的な性格だから、仕事に貢献できていることに喜びが大きいこと。

 そこでできた仲間に、日々の会話や些細な承認欲求が満たされているということ。

 もう、子供がいるっていうこと。

 子供が小さい時、僕が仕事に躍起になって君をないがしろにしていたこと。

 僕という存在に、外から比較対象ができたことに気づいたこと。


 最初は物わかりの良い顔して受け入れられると思っていた。

 でも数日したらケンカして、一月したらまた。二カ月で君の隣に陰を疑い、泣いて、泣かせて…。

 そしてあの話があってから、自分が君を傷つけることしかしていないことに愕然とし、距離を置いた。

 触れなくなって、寝室も分け、会話も減った。でも日常はやってきて、家族は形づくられる。ずいぶん経つ気がするけれど、まだ季節は半分も巡ってはいない。

 きっと君は裏切られたと感じているだろう。同じ屋根の下、近いハズの距離は離れたままだ。



 ◇



「おはよ」

「おはよー」


 六時を回り、暖かくなった部屋に、まだ眠そうな君の短い声がして、努めて明るく、僕は言葉を返す。

 二階から持って降りた仕事着を抱えて、台所に君は向かう。

 程なく聞こえる衣擦れの音に、向こうまでもう暖まっていればいいなと思った。

 そのまま会話なく、ニュースの音声とお弁当を作る音だけが流れる。

 いつもの朝だ。


 でも今日は少し違った。

 温めなおされた昨日の夕飯の匂いとも違う、かぐわしい香りが漂ってくる。


「はい」


 少しして君の声に振り向くと、君は湯気ののぼるマグカップを差し出していた。

 もう片方の手には金の包み紙のチョコレート


「あ、ありがとう」


 覚えていたんだ。

 そう、少し気持ちが浮き上がるのを感じるが、平静を保つよう意識する。


 ◇


「この間差し入れもらったから、バレンタインだし仕事場にチョコ買ってくるね」


 そう言ったのは昨日。


「なら僕にも頂戴」

「子供らにもらったじゃん」

「えー」


 そう、冗談めかしながら話せた会話。

 一緒に買い物に行くことはないけれど、帰ってきた君の荷物には、ウエハースチョコの詰め合わせと、カカオ七十パーセントのビターチョコ、そして学生時代から何度かバレンタインに君がくれた、金の包み紙のチョコレートが入っていた。


「好きだったよね」

「うん。ありがとう、いや、仕事場の人が10円チョコなら、僕は30円の位の気分で言ったから、気を遣わせたね」

「そうなん? なんかごめん」

「いや、嬉しい。コーヒー淹れた時に一緒に食べようよ?」

「なら、明日の朝かな」


 ◇



 指に伝わるじんわりとしたぬくもりに昨日のことを思い出していた。一口飲むと、インスタントじゃないことがわかる。透き通ったドリップコーヒーは、見た目よりも濃い目に淹れてあった。


「君のは?」

「向こうにあるから大丈夫」


 そう言って台所に戻る君を追いかけるように、僕はソファを立ち、引き戸の縁を背もたれにする。


「いただきます」

「ん」


 レンジ台にカップを置いて、包み紙を開きチョコレートを取り出す。

 それはミルクチョコベースの丸い形で、クラッシュナッツがトッピングされている。

 指でつまんで、半分くらいを食べると、ウエハースが層を作っていて、中心にはマカダミアナッツが入っており、小気味よい音を立てた。

 口の中で溶けきれないくらいで、コーヒーをまた口に含むと、口内で混ざり、さっきの濃い目の苦いがまろやかに感じられた。


「おいしい」

「よかった」


 短い会話を重ね、君も同じチョコを口にする。


「…甘っ」


 渋い顔が笑いを誘う。


「ゆっくりした時に、買ってた七十パーのを食べたらいいんじゃない」

「そだね」


 しばらくそのまま二人でコーヒーを飲み、君が背を向け弁当作りに戻るのを見届けて、僕は子供を起こしに2階へと向かった。

 リビングや台所と違い冷えた寝室のライトを点け、子供に声をかけ、布団を畳むからと、こちょこちょとわき腹をくすぐりながら起こす。まだ眠く重い足取りのその子の背を見送り、布団を畳んでから1階へと戻る。

 また、日常が戻ってきた。



 ◇



 七時を目前にし、僕が仕事カバンの中身等を確認し終えて時計を眺めていると、横からべりべりと包みを破る音がして、言葉もなく黒い物体が差し出された。見やると口に同じものを君がくわえて隣に立っている。ビターチョコレートだろう。


「座れば?」

「大丈夫」


 朝が忙しいから。そう単純に考えられなかった自分に辟易する。口内を苦みが満たす。飲み込むのを待たずに、僕は上着を手にした。


「ありがと、もう出るよ」

「そう?」


 袖を通して、仕事カバンを手にし、廊下に続くドアを開けると、キンと冷えた空気が頭を冷やせと言っているようだった。


「行ってきます」

「はい、これ」


 君が渡したのは、金の包み紙だった。


「行くときのお供に」


 そう笑って手を振った。


 家の外はまだ静かだった。

 吹き抜ける風が、肌だけではなく心を刺す。

 君がくれたチョコレートを口に含むと、思い出と甘みが溶けて巡るようだった。


 君は笑顔で見送った。


 ホワイトデーはまだ遠い。

 この日常で、僕は君に何ができるだろう?

 何が返せるというのだろうか?

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