逆さまの魔女とココラトール

十余一

逆さまの魔女とココラトール

 お菓子を食べたら甘かった――当時のぼくは、そんな当たり前のことすら知らなかった。


 物心ついた頃には、暗くて汚い路地裏にいた。雨風もしのけず、その日食べるものにすら困る日々。ほどなくして母親が病死してからは、同じく帰る家を持たない子どもたちと身を寄せ合って生きていた。市場から食べものを盗み、殴られ、冷たい雨に晒される。そうして消えてゆくだけだ。


 一人減り、二人減り、とうとうぼくは独りぼっちになってしまった。そのうちにぼくも消えてしまうんだろう。未来への希望なんて持てるはずもなかった。そんな時、ぼくの手を引いたのが逆さまイウェルスムの魔女だった。

 見知らぬ土地の、大きな館を前にして、魔女は言う。


「オマエはこれからここで暮らすんだ。そしてオマエは、逃げ出したくなるような厳しィ~い訓練を受けて、世界を支配するための尖兵になるんだよ。ここでは魔女の命令は絶対だ、逆らうんじゃないよ。ヒヒヒ」


 不気味な笑い声とともに魔女の真っ赤な唇が半月を描く。まだ日も高いというのに、妙な怪しさと迫力があったことを、今でも覚えている。




 館に入るなり、魔女は「ドクトリス! ドクトリスは居るかい!?」と叫ぶ。名前を呼ばれやってきた少年は、当時のぼくよりもいくつか年上で、小綺麗な恰好をしていた。


「ドクトリス、何をすればいいかわかっているね。この子を連れていきな」

「はい、逆さまの魔女」

「ヒヒヒ、たっぷりと歓迎してやるんだよ」


 魔女の言葉を背に、ドクトリスは控えめな笑顔を浮かべてぼくの手を引き、館の奥へ連れていく。辿り着いた先はお風呂場だった。何が何だかわからないという様子でされるがままの僕と、浴室の壁に反射する「怖がらなくていいからね」「お湯、熱くない? 大丈夫?」というドクトリスの優しい声。

 いい匂いのする泡も、澄んだ暖かいお湯も、体を拭くふわふわの布も、新品の服も、ぼくにとっては初めての体験だった。


 お風呂から上がると、魔女に「次はその椅子に座って頭をこっちに向けな。早くするんだよ」と急かされる。すると、暖かくて優しい風が吹いてくる。気持ち良くてうとうとしている間にぼくの髪はさらさらになり、ついでに切り揃えられていた。

 それから、改めて正面から向き合い、魔女が言う。


「準備が整ったね。これからオマエに呪いをかけてやろう。一生解けない恐ろしい呪いさ。ヒヒヒ。……さて。オマエ、何か得意なことはあるかい」

「……わかんない」

「じゃあ、何か好きなものはあるかい」

「すきな、もの……?」

「何かあるだろう。ほら、青い空が好きとか、黄色い花が好きとか、銀の鎧が好きとか」

「わかんない……」

「……。まったく、オマエはそればかりだね」


 呆れた様子の魔女は、「ドクトリス、館を案内してやりな」と言い残してどこかへ行ってしまった。

 ドクトリスに手を引かれ、広い館を巡る。お風呂場、お手洗い、広間、食堂、厨房、子どもたちの部屋、図書室、工芸室、音楽室、倉庫、他にも色々。ぼくと同じように連れてこられた子どもたちが、この館で生活しているらしいということも聞いた。ドクトリスはやっぱり優しくて、「ゆっくり覚えていけばいいからね」と言ってくれる。


 大きな館の隣には、広い庭。駆け回れる運動場、見たことのないものが実っている畑、色とりどりの花が咲く花壇、作りかけの石像、他にも色々。

 ドクトリスがひとつひとつ丁寧に説明しているとき、足音とともに女の子の声がした。


「ね、ね、ドクトリス! その子が新しく来た子?」


 駆け寄ってきた女の子は、ぼくのほうに向きなおって矢継ぎ早に喋り始める。


「はじめまして! わたし、ピストリーナっていうの。よろしくね! きみ、わたしと年同じくらいね。ね、ね、お名前は? 好きな食べものは?」

「こら、ピストリーナ。そんなにいっぺんに言ったらビックリしちゃうだろ」


 ピストリーナと呼ばれた女の子が「あら、ごめんなさい」と口に手を当てたと思ったら、また何かを思い出したかのようにそのよく回る口を開く。ぼくからピストリーナに対する第一印象は“とっても元気な子”だった。


「そろそろ、お夕飯の時間だから呼びに来たの! 今日もコクウスがお手伝いして美味しい食事を作ったのよ。コクウスは料理人になりたいから逆さまの魔女と一緒に食事の準備をするの。わたしもそのうちお手伝いするわ! だってわたしは将来、パン屋さんになりたいんだもの」


 時々ドクトリスになだめられながらも、ピストリーナのお喋りは続く。コクウスの料理は本当に美味しいということ、特にトゥーベル芋のサラダは絶品だということ、ピストリーナも教わって頑張ろうとしていること、友だちのスクルプトスは芸術家になりたくて庭にヘンテコな像を作っていること、双子のカンタートとサルタートは歌と踊りがとても上手なこと、ドクトリスは面倒見が良くてとっても優しくてお兄ちゃんみたいだということ。館にいる子どもたちのことをたくさん教えてくれた。


 ほとんど一人で喋っているのに賑やかで、ぼくは相づちを打つだけで精一杯だった。目が回るくらいに圧倒される。けれども、そこに楽しさがあったことも覚えている。

 そして、お喋りは食卓についても相変わらずだった。逆さまの魔女が「小童こわっぱ共、早く席につきな!」と言っているのを、かき消すくらいの勢いだ。


「今日はカロータ入りのパンよ! それから蒸したキトルス魚に、リヌ豆とケーパのスープ! どれも美味しそうね! 私のオススメはやっぱりパンよ。すり潰したカロータが入っているからだいだい色でキレイでしょう。ほんのり甘くってね――」


 ピストリーナや、他の子どもたちにとっては見慣れた食卓でも、ぼくにとってはそうではなかった。

 カビていないパン、腐っていない魚、暖かいスープ。食卓を囲む子どもたちの顔は喜びに満ちている。暗くない、寒くない、汚くない、怖くない。笑顔しかない場所だ。そう思うと、安心感と今までの辛さが心の中でぐちゃぐちゃに混ざって、涙が止まらなくなっていた。


「え? え? 泣かせちゃった!? ごめんなさい!」

「ちがう……、あったかくて……うれしくって……、それで……」

 違うと伝えたくても、それ以上は言葉にならなかった。涙を拭ってくれるドクトリスと、背中をさすってくれるピストリーナ。かしてばかりだった逆さまの魔女も、この時だけは「ゆっくり、よく噛んで食べるんだよ。魔女の命令は絶対だ」と静かに言っていた。




 翌日からは、他の子どもたちと同様に生活することになった。朝食を終えたら、魔女の尖兵になるために、それぞれに与えられた訓練をこなす。広間の細長い机、広い机、庭の花壇、畑。そうやってみんなが配置につくのを、ぼくはドクトリスと一緒に日当たりの良い席で眺めていた。

 斜め前の席に座る少年に、魔女が言う。


「エドゥカトゥス、オマエは地誌学が好きだったね。これが何かわかるかい? そう、学者テルティウスの新刊さ! なになに、タイトルは『極西地域におけるドラコーネスと降雨伝説の研究』だとさ。ああ〜その嬉しそうな顔! さあ遠慮せずに読むといい。けどね、アタシは日が暮れる頃には、本を奪い取ってオマエを毛布の海に沈めてやるよ! オマエの絶望する顔が今から楽しみだねェ〜。ヒヒヒ」

「ありがとう! 逆さまの魔女!」


「あれはね、暗くなってから本を読んではいけないよって言ってるんだ。読み切れなかったら、続きはまた明日だね、って」

「そうなんだ……」

 ドクトリスが説明をしてくれたけれど、館に来たばかりのぼくにとって魔女の言葉は難解だった。


「逆さまの魔女はああやって僕たちに色々なものをくれるんだ。本、地図、図鑑、食材とレシピ、楽譜と楽器、絵を描くための道具、工作するための布や革、花や野菜の種、それから大きな石材まで。君も好きなもの、見つけられるといいね」


 こうして、僕の訓練も始まった。まずは文字を覚えることからだ。後になって聞いたことだけれど、ドクトリスの夢は教師になることだった。どうりで教え方が上手なわけだ。




 数日後。午後の訓練は、魔女の「小童共、枕を持って庭に出な! 早くするんだよ!」という言葉から始まった。

 大きな木のそばに敷かれた広々とした敷布。木漏れ日のさすその場所で、みんなで枕を並べてお昼寝をする時間だ。戸惑っていたぼくも、あっという間に寝入ってしまったピストリーナと寝かしつけてくれるドクトリスの間で、夢の世界へ旅立った。


 しばらくすると、夢なのか現実なのかわからないまどろみの中で声がする。魔女と、知らない男の人が話す声だ。

「ああ、昨日もバターで炒めたほくほくなトゥーベル芋と甘みの強いケーパを、ぐちゃぐちゃに潰して食卓に出してやったよ。もちろん、牛乳で無駄にかさ増ししてね」

「逆さまの魔女がつくるトゥーベル芋のスープは美味しいからね。子どもたちが羨ましいよ。そうだ。今日は土産を――」


「リブムス! 来ていたのね!」


 男の人の言葉をさえぎったのは、寝起きにもかかわらず元気いっぱいなピストリーナだ。

 駆け寄って行くピストリーナを眺めながら、ドクトリスがリブムスのことを教えてくれた。彼も昔はこの館にいたこと、そして今は館を出て、街でお菓子屋さんをしていること。ある程度の年齢になると、彼のように館を出ていかねばならないこと。


「ね、ね! リブムス! これは何? 何を持ってきたの?」

 リブムスが持っていたかごを、ピストリーナが興味深そうにつついている。

「お菓子を持ってきたんだよ。冒険者になったレペルトゥスが発見した実を、船乗りのナウタが運んで、俺が試行錯誤しこうさくごを重ねて作ったんだ。ここで育った子どもたちは皆、逆さまの魔女とこの館が大好きだからね」


 大好きという言葉に魔女はそっぽを向くけれど、リブムスが気にする様子はない。「さあ、皆で食べよう」というリブムスに、ピストリーナがまた大きな声を上げた。


「このお菓子、色が変よ! 焦がしてしまったの?」

「違うよ。この色はね、カカカ豆の色なんだ。レペルトゥスが見つけた珍しい実の色。美味しいから食べてごらん」


 見たことのない茶色の焼菓子を、おそるおそる口に入れてみる。すると頭のてっぺんが開いてしまうような、そこから花が咲いて日が昇るような、そんな気分になった。お菓子を食べたら甘かった――そんな当たり前のことを、ぼくはこの時初めて知ったんだ。さくさく、ほろほろ、そして甘い。甘いけど、ちょっと苦い。


「美味しい! 甘くって、ちょっと苦くて、すっごく美味しいわ! ね、ね、どうやって作るの? カカカ豆ってどんな豆なの? 教えて、リブムス!」

 感激するピストリーナと一緒に、リブムスに迫る。リブムスの「君も興味ある?」という悪戯イタズラっぽい笑みに、首がもげそうになるほどうなづいた。


 リブムスは色々なことを教えてくれた。新大陸の住民は“ココラトール”という苦い飲み物を薬として飲んでいるということ、ココラトールはカカカ豆という植物から出来ていること、カカカ豆の加工は焼いて皮をいてすり潰して……と手間がかかること、ココラトールの苦味を砂糖と牛乳で中和するととっても美味しくなるということ、牛乳はカーニー牛のものが最適であること。

 まだ文字も書けない、世界のことを知らない当時のぼくにとって、リブムスの説明はわからないことだらけだった。それでもココラトールのお菓子のおいしい甘さは、ぼくの心にしっかりと刻まれて、初めての大好きなものになった。


「ココラトール……、おかし……。……ぼくも、つくりたい」


 ぼくの小さな呟きを拾って、リブムスが「いいね!」と爽やかな笑顔になる。ピストリーナが口をもごもごさせながら驚く。ドクトリスが「好きなもの、見つかってよかったね」と優しく微笑む。

 魔女が静かに、ぼくに告げる。


「オマエにかける呪いが決まったよ。今日からオマエの名はココラトゥスだ、いいね」


「ココラトゥス……、ぼくのなまえ……」

「ね、ね、ココラトゥス! ステキな名前を貰ったのね!」


 ピストリーナがまるで自分のことのように喜ぶ。口元に焼菓子の欠片をつけて、大きな口で笑う。


「わたしの将来の夢はパン屋さん、あなたはお菓子屋さん。二人とも一人前になったら、一緒にお店をやりましょうよ! いっぺんに美味しいパンとお菓子が買えるのよ。きっと大人気になるわ!」


 この館に来てからわからないことばかりだったけれど、ピストリーナの提案がとても素晴らしいものだということは、当時のぼくにも理解ができた。

 これが、暖かい木漏れ日の下で、ぼくが魔女に呪われた思い出の日だ。




 それから十二年が経ち、ぼくとピストリーナが館を追い出される番になった。


「オマエたちはもう、アタシの手には負えないよ。魔女の尖兵にはなれない。さっさと出て行きな」


 魔女は素っ気なく言っているけれど、ぼくらは充分すぎるくらいの路銀を握らされている。生きていくための知恵も、暖かい思い出も、何もかも、貰いすぎてしまったくらいだ。


「今までありがとう、逆さまの魔女。ココラトールでお菓子を作ったら遊びにくるね」

「わたしも、美味しいパンを焼いて持ってくるわ」


 やっぱり魔女は素っ気ない。言葉も態度も、その暖かくて優しい心とは逆さまだ。館で育った子どもたちにとっては、そらすらもおかしくて大好きなところだけど。



 どこかでひっそりと寂しく消えていくはずだった子どもは、魔女に掬い上げられた。名前という呪いで縛られ、この世に確かに存在し、世界に爪痕を残すべく旅立って行く。




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