賽子の目

道星毛糸

賽子の目

その日は朝から雨だった。


からっと晴れた日が続いていたし、天気予報は一言も雨が降るだなんて伝えていなかった。


こういうのが一番困るんだ。溜め込んでしまっている洗濯物が、まったく乾かせないじゃないか……。


私は脱力してカーテンを閉めた。


シャッという小気味よい音が室内に響き渡る。

私のことを嘲笑うように雨は降り注ぎ、バシバシと窓を叩いていた。


部屋の片隅に移動し、座椅子に深く腰を掛ける。テーブルの上には飲みかけのお茶が横たわっていた。


ペットボトルだったけれどキャップが開いていて、中身はすべて垂れ流しになっている。

私は鼻で大きく息を吸い込んだ。口から出ていくため息には、魂みたいなものも混ざっている気がした。


「午後には晴れるかなぁ……?」


壁に立てかけられた時計に目を向ける。


時計は自分の知ったことではないといった調子に、チクタクと動いていた。

時刻は午前九時を少し回ったところ。

このままいけば、午後も雨は止みそうにない。おそらく降り続けるだろう。


私は顔を覆った。外着は箪笥の中に替えがある。ただ部屋着が見当たらない。


本来なら部屋着は余るほどあった。どれもこれも、今は着られる状態にないだけで。


チラリと四隅を見やる。冷たいフローリングの床。ズタボロの部屋着が散乱していた。引き裂かれて完全にお陀仏になっている。


頭がガンガンした。嫌な記憶がフラッシュバックしてくる前兆だ。私は首を強く振り、二、三度頬を叩く。


リモコンを手に取ってテレビをつける。

開口一番に、ニュース番組が目に飛び込んできた。


どこどこで強盗だとか、どこどこで火事があっただとか。他人事で関心を持てない放送しか流れてこない。それでも気が紛れるから見続けた。


“お〜い、ちゃんと片付けとけよぉ”


はっと振り返る。

帰ってきた? いや、違う。幻聴だ。


あの人が帰ってくることはもう、ありえないのだから。ダメだ。いけない。落ち着かないと。

過呼吸にならないよう胸元をおさえ、目を閉じる。


くだらないニュース番組に意識を集中しろ。私ならできる。

どうしようもないけれど、現実逃避は唯一の特技なのだから。


数分。下手したら数時間だろうか? ニュース番組はとうに終わっていた。私は瞑想に近い形で、落ち着きを取り戻している。


ぐっと体を伸ばす。だらん、とぜい肉が垂れた。ダイエットしないと……。どうせ続かないだろうけど。試しに二の腕をつねってみる。

ぶにっとした感触が、指先に伝わった。


あ、そうだ。部屋着を買いに行かなければ。

この間いいなって目に留めた柄のやつ、まだ売れ残ってるかなぁ?

雨脚が弱まったら出掛けてみよう。


私は座椅子から起き上がった。洗濯物が干せないなら、せめて溜まっていた食器を片そうと台所に移動する。


ちょうど立ち見鏡の前を通り過ぎた。

横目に一糸纏まとわぬ姿の私が現れる。

顔の半分と、胸元に血がこびりついていた。それは赤黒く凝固している。


あぁ、そうだそうだ……。洗濯物よりも食器の片付けよりも、何よりもまずはシャワーを浴びてこないと。


これはいけない。落ち着いているようで意識のどこかでは、慌てている私がいるようだ。


それでも客観的に見れているのは、昨日起こった出来事がニュース番組で流れているような、他人事に思えているからだろう。


乱雑に散らかった部屋着のすぐ側に、賽子が転がっていた。そっと拾い上げる。何の変哲もない賽子だ。正方形で一から六までの数字が刻まれている、真っ白な。


「……真っ赤じゃん」


もともと真っ白だったそれは、血濡れて真っ赤に染まっていた。より一層、黒い数字の点だけが目立つようになっている。


朱色に塗られた一の数字だけ、血溜まりに溺れてしまったように見えなくなっていた。


ひとしきり賽子を眺めて、徐にそれを放る。

小さな弧を描いて宙を舞った賽子は、カツーンという軽快な音を響かせて、床に転がった。


賽の目は二。

黒い二つの点を、私はぼうっと見つめる。


何か大事なことを決めるとき、大体この賽子を使っていた。優柔不断なところがある私にとって、この賽子は非常に役に立つ。ある種お守りのように感じていた。


出会いは大学時代。

眠たい講義を我慢して受けている時だったと思う。


暇を持て余し、隠れて携帯をいじっていたら、何かが落ちる音が耳に入った。

そちらに目を向けると賽子が転がっていて、気が付いたら拾い上げていたのだ。


講義が終わってしばらく経っても、特に賽子を探す素振りを見せる学生は現れない。

そこで私はその賽子を持ち帰ることに決めた。

以来、賽子は私の所有物になっている。


今になって振り返ると、あれは運命だったのかもしれない。


私が賽子を拾い上げたのも、大学を卒業してからこの身に降りかかった“いざこざ”も。

神様が巧妙に仕組んだ必然だったのかもしれない。


来たるべき時が来て、判断をつけられない私のために、神様があの講義室で賽子を手渡してくれたのかもしれない。


思考の渦がぐるぐると回る。

目眩を起こす前に、やることをやってしまわないと。


洗濯物、食器洗い、シャワー、部屋着の購入。……馬鹿か。違うだろう? 


まずは電話をかけるところからだ。


……ん。あれ、そういえば携帯電話ってどこにやったっけ?


はぁ。もういいや。固定電話からかけよう。


ダイヤルを押して、受話器を手に取って、最後にもう一度賽子に視線をくれる。


何度見ても一緒だよ、と言わんばかりに賽子の目は二だった。

その二つの黒い点が、血に染まった奥からギラリと私を睨んでいるような錯覚に陥る。


一連の“いざこざ”が終わってから決めていた。


賽子の目。

その出目が私の予想した通りの数字だったら、電話をかけようと。


結果として予想は的中。

賽子の目は二だった。

随分と悪運の強いことで、と独り言ちる。


“もしもし。警察です。事件ですか? 事故ですか?”


電話口から聞こえた相手の台詞に、私は言葉を詰まらせた。これって事件? 事故?


―――静寂。


あ、事件か。だって私が殺ったんだもの。


「事件です。人を殺しました。住所は――」


賽の目を見つめ返しながら、私は淡々と言葉を発していく。

嫌な汗をかくだろうと思っていたが、案外そんなこともなかった。意外と冷静なものだ。


ふぅ。警察が来るまでには、シャワーを浴びちゃいたいな……。


あ、でも、それって証拠隠蔽とかになっちゃうのかな? うーん、でも裸見られるのは恥ずかしいし……。

まぁ、仕方ない。外着でもいいから、服だけは羽織っておこう。

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賽子の目 道星毛糸 @honhatomodati

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