十六話

 王都の風がまったく届かない、と言ったら言い過ぎかもしれないが、しかし実際ほとんど届いていないような、王国領内の中でも山林に囲まれた辺境を私はさまよい歩いていた。人の多い町村は歩き尽くした上に、重罪人で脱獄犯でもある私がうろつくにはかなり危険でもある。なので最近は王国の中央からは離れた辺境を主に歩き続けていた。この辺りには兵士の姿もなく、国境に近付かない限り私が追われている人間だと気付く者もいない。時々よそ者だと怪しい目で見られることもあるが、それ以上のことはない。気さくに話しかければ相手も警戒心を解いてくれる。王都の人間とは違い、ここには親切で優しい人しか住んでいない。まるで、ラサンのような……。


 彼を捜し歩いて一年以上が経つ。王国中を歩き回り、なかなか見つからない状況は、もうすでに出国してしまった可能性も考えられる。だが犯罪人である私は、そう簡単に国境を越えることはできない。処刑から逃げ出して時間は経っているが、兵士達は追うことをまだ諦めてはいない。その証拠に街中には私の手配書が貼られている。この辺境の地ではさすがに見ないが、国境を守る警備兵にはおそらく通知されているはずだ。しかしたとえここを出られたとしても、何も手掛かりがなくては行く先も決められない。王国内でもこうなのに、それよりも広い世界に出て捜すとなると、一体どれだけの年数がかかることか。下手をすれば一生をかけても見つからないかもしれない。それほど私は困難な人捜しをしているのだ。王国を出ようと出まいと、どうせ時間がかかるのなら、どちらか一方に絞り、徹底的に捜すほうがいい。わずかな可能性に懸けて。そのうち、ラサンにつながる手掛かりも得られるかもしれない。そう気長に信じて、私は毎日彼の姿を捜している。


「そこのお姉さん、随分と疲れた顔をしてるね。うちで一休みしてったらどうだい」


 見晴らしのいい山道を歩いていると、その脇に建つ小屋の中から笑顔の老人が声をかけてきた。見ると、入り口の上には「山奥の休息所」と書かれた看板がぶら下がっている。こんなへんぴな場所で商売か?


「何を売っているんだ?」


「別に何も売っちゃいない。あるのは休める部屋と新鮮な水だけだよ」


「金は取らないのか?」


「いらないいらない。これは個人的な無償活動だからな」


「なぜそんなことを?」


 聞くと老人は、灰色の頭をぽりぽりとかいて言った。


「まあ……死んだかみさんのためだ。かみさんの故郷はこの辺りでな。その、罪滅ぼしってやつだ。事情は話せば長くなるから勘弁してくれ」


「でも、こんなところにいても、人など滅多に通らないんじゃないか?」


「案外そうでもない。あんたのような物好きな旅人や、兵士の一団なんかも通ったりする。ここは国境に近いからな」


 兵士が通るのか……早く通り抜けたほうがよさそうだ。


「疲れてるだろう? 休んでってくれ」


「いや、遠慮しておく」


「何だ? 俺が怪しいか? 心配するな。毒なんて入れやしないよ」


 すると老人は側に置いてあった水差しとコップを持つと、そこに水を入れ、一気に飲み干した。


「ふー……ほら、正真正銘、新鮮で綺麗な水だよ。飲んでいきな」


 毒を疑ったわけではないのだが……しかし、勢いのある飲みっぷりを見せられると、不思議とこちらも飲んでみたくなる。ずっと歩いて来て喉が渇いていないとも言えないし――


「……それじゃあ、少しだけ」


「人の善意には甘えるもんだ。さあ、入りな」


 満面の笑顔に迎え入れられ、私は小屋の中に入った。そこは大きな水がめと、机と椅子が並んでいるだけの質素な部屋だった。本当に休憩するだけの場所のようだ。椅子に座り、窓からの景色を眺めていると、すぐに水が運ばれてきた。


「これはすぐ裏の岩から流れてる湧き水なんだ。美味しいから飲んでみな」


 木製のコップの中で透明の水面が光を反射しながら揺れている。私はゆっくり口に含み、ごくりと飲んだ。街で飲むものとは違い、余計な臭いも味もなく飲みやすい。さすが湧き水と言ったところか。


「確かに、新鮮で美味しい」


 そう言うと老人は安堵したように笑んだ。


「おかわりは好きなだけある。もっと飲みたければ言ってくれ」


 美味しそうな水につられて思わず入ったが、意外にいい休憩になりそうだ。


「今日は私の他にも、誰かここに立ち寄ったのか?」


「ああ、来たよ。いつもよりは少ないがな」


「通る人数は大体決まっているの?」


「天気にも左右されるが、まあ、定期的に通る兵士を除けば、三人から四人が多いな。でももうしばらくは少ないままだろう」


「なぜ?」


「皆、王都のほうに集中してるから。新国王が立ったばかりで、あっちはお祭り騒ぎなんだろう?」


 そう言えばそんな話をどこかで聞いた。つい数日前に、王都で戴冠式が執り行われ、ユーリー王子が即位したと。


「国王が変わったって、こっちのほうは何も変わりゃしないんだがな。おめでたいことがあっても、その恩恵がどんなものか、ここに住む人間はずっと知らないままさ」


 そうなのだろうな。私も辺境を歩き続けて、そういう印象を直に持っている。王都周辺とここでは、まるで違う国のようだ。


「あんたは、新国王をお祝いに行かないのか?」


「その気はない」


「もしかして、王国民じゃなかったか」


「いや、王国民ではあるけど、めでたいこととは思えないから」


「おいおい、そんなこと他では言わないほうがいいぞ。……あんた、ただの旅人じゃないのか?」


 いぶかる老人に私は笑った。


「旅人と名乗った覚えはないが?」


「はあ、そうかい……これ以上は深く聞かないほうがよさそうだな。今日は変わり者ばっかりを相手にしてる」


「へえ。他にどんな変わり者が?」


「金はいらないっていうのに、受け取れってしつこく言ってきた男がいてな。こっちは何度も断ったんだが、向こうは異国人みたいで図体はでかいし、そんなんで詰め寄られると殺されるんじゃないかって思ってな。だから仕方なく受け取ったんだが」


 体の大きい……異国人?


「その相手、どんな姿だった?」


「どんな? えーっと、黒髪で、肌は日焼けしてたな。服装は俺らと変わりない格好で――」


「荷物は? たくさん荷物を持っていなかったか?」


「ああ、そう言えば持ってたよ。大小いろいろ、軽々とな。国境方面へ向かったが、商人には見えなかった。ありゃ何が入ってたのか――」


 私は立ち上がり、老人に詰め寄った。


「その男性は、いつ来たんだ」


「え、いつって……一時間……違うな。二時間か、そのくらい前に……」


 私は走って入り口へ向かった。


「な、何だ、あんたの知り合いなのか?」


「かもしれない。水、ありがとう」


 一言いって足早に小屋を出た。


「急いで捜せば、まだその辺をほっつき歩いてるかもしれない。会えるのを祈ってるよ」


 背後からの老人の声にも振り向かず、私は国境方面の山道を駆けた。胸の鼓動はまだ走り疲れてもいないのに、すでに早鐘のように打ち鳴らされていた。こんな偶然があるのだろうか。黒髪に、日焼けしたような肌、そして多くの荷物……それらはすべて捜し求めている人を表している。私はようやく彼を見つけたのか? いや、まだそうとは言えない。単に特徴が似ているだけの人違いという可能性だってある。姿を見る前に喜ぶのは早い。これまでも似た男性を見かけてはぬか喜びに終わるということが幾度もあったのだから。でも今回こそは、本当に彼だったらとしたら――私の胸は激しく鼓動を刻みながら、大きな期待と疑いに揺り動かされていた。またがっかりさせられる不安と、ついに見つけられた歓喜。気持ちはその二つの間を行ったり来たりし続ける。急げ。この先には国境がある。彼が出国しないとも限らない。答えを得られなくなる前に捜し出さなければ!


 まったく人影のない山道を、私は休まず走り続けた。そのうち、遠く視線の先に国境となる大きな石造りの門の一部が見えてきた。これ以上先に進めば、警備兵の目に留まってしまうかもしれない。だが彼がこちらへ向かっていたら――私は迷った。兵士に重罪人とばれる覚悟をしてでも行くか、それとも別の道を進んだと願い、捜すか……。


「……どうすればいい……」


 分かれる二本の道を眺め、私は頭を抱えた。悩む時間などないのに。こうしている間にも、向こうはどんどん私から離れて行ってしまう。私が行くべき道は、正しい道はどっちなのだ――決められず、二つの行き先を交互に眺めていた時だった。


「……あれは、何だ?」


 分かれ道の周囲に広がる森、その道の脇の木の側に何かが置かれているのに気付いた。こんな人気のない場所で誰かが忘れ物をするとは思えないが――私は近付き、確認してみた。


「これって……!」


 思わず息を呑んだ。見覚えのある多くの荷物……間違いない。彼の荷物だ。だがなぜこんなところに置かれているのか。


「!」


 ふと視線をずらすと、木の裏側に伸ばされた足が見えた。まさかと鼓動を高鳴らせ、私は木の裏に回り込んだ。


「……やっと、見つけた!」


 そこには木の幹に背中を預けて座る捜し求めていた姿――ラサンがいた。しかし腕を組んだ姿勢でうなだれたまま、動く様子がない。……悪い冗談はやめてくれ。


「ラサン……?」


 名前を呼び、肩に触れてみる。触れた指には温もりを感じる。顔を覗き込むと、少し開いた口からは息も吐き出されている……寝ているだけのようだ。私は胸を撫で下ろし、もう一度名前を呼んだ。


「ラサン」


 すると閉じていた瞼がゆっくりと動く。そして顔が上がり、目の前の私を見た。


「……驚いたな」


 そう言った割にラサンの表情は落ち着いていた。少し寝ぼけているのだろうか。


「それはこちらもだ。まさかこんな道端で寝てるあなたに会えるなんて」


「寝るつもりはなかったんだが……でも結果的に、寝込んでよかったようだな」


 言ってラサンは微笑んだ。また、この笑顔を見られた……。


「話し方がなめらかだ。随分と上達している」


「あれから一年は経ってるんだぞ。当然だ」


 一年なんて普通に考えれば短い時間だが、捜している間はとてつもなく長い時間のように感じられたものだ。


「でも、なぜこんな山道の途中に?」


「ああ、それは……気持ちの整理をしようと思ってな」


 私は首をかしげた。


「整理をしようと、居眠りか?」


「だから、寝るつもりはなかったんだ。……ナザリーこそ、どうしてここにいる」


「私は、ずっと、あなたを捜していたんだ。王都から逃げ出した後……ラサンに、助けられてばかりだったとわかったから」


「そうか……前にどこかの街で、王都に竜が現れたっていう話を聞いた。俺は、助けになれたか?」


「なれたから、私はこうしてまたあなたに会えたんだ。助けがなければ、私は何もできず、とっくに殺されていた」


「ナザリーが望んでた結果は残念なものになったようだが……」


 私は首を横に振る。


「いや、残念とは思っていない。おかげで私は目が覚めたんだ。自分は理想と幻想ばかりを追っていて、現実を正しく見ようとしていなかったのだと。王女が国王にならずに済んで、むしろよかったと思っている。だからと言って、あの王子が国王にふさわしいとは思わないけど」


「まだ、追われてる身なのか?」


「ええ。処刑の間際で逃げ出して来たから。でも、私は死んでなんかやらない。王女が求めても、この命は絶対に奪わせない。もうあの人の言いなりにはならない。だから……逃げ続けることにした」


「それで、いいのか?」


 心配顔がこちらを見る。


「いいも何も、こうするしかない。私を待っているのは死だけだ。死に方くらい自分で決める。それまでは悔いなく生きるつもりだ」


 私はラサンを見つめた。


「あなたを捜していたのも、悔いを残さないためだ。まずは礼を言いたい。それと、頼みたいことがある」


「何だ?」


 ラサンを真っすぐ見据えて言った。


「今度は私が、ラサンの助けになりたいんだ。だから、側に……いさせてくれないか」


「恩義を感じてそう言ってるなら気にしなくていい。ナザリーはナザリーで自由に――」


「そういうことじゃない。そういうことじゃなくて……私は、恩など関係なく、あなたの側にいたいんだ。この意味、わかるだろう……?」


 これにラサンは少しだけ目を見開いた。


「それじゃあ、あの時、どうして何も言わずに俺の前から消えたんだ」


 廃屋で彼に世話になりながら、黙って出て行ったあの時――


「当時の私はやるべきことがあると強く信じ、それを遂行することを優先したんだ。言葉を交わせば、覚悟が鈍ると思った。だから……」


 見るとラサンは安心したような笑みを浮かべていた。


「そうだったのか。俺はてっきり世話をやき過ぎて、邪魔に思われたのかと」


「助けられたのに邪魔に思うわけがないだろう。むしろあなたは必要だった。あの時の私には」


「そうか。俺は随分と勘違いしてたみたいだな……」


「すまない。私のせいだ」


 ここで私は、ふと疑問が浮かんだ。


「だが、その後ラサンはもう一度私を助けてくれた。崖から落ちて動けないところを宿まで運んでくれた……かすかにしか憶えていないけど、あれは、あなただったんでしょう?」


「ああ……あの時ナザリーを見つけられたのは、本当に偶然で、幸運だった。廃屋から消えた後、俺はしばらく待ってたんだ。でも現れる気配がないから捜しに行くことにしたんだ。体調が万全じゃなかったから、そういう心配もあった。似た女性の目撃情報を集めながら、俺は南にある、何て言ったか。アームル……」


「アーメルナヤン」


「そうだ。アーメルナヤンの近くまで行った。そして雨の降るあの日、捜し歩いてた俺はナザリーを見つけたんだ」


「確かに幸運としか言いようがない。だって私は王都から追われる最中に崖から落ちて、あそこに倒れていたのだから」


「つまり俺の集めた目撃情報は間違ってたわけだな。それにもかかわらずナザリーを見つけられたのは――」


 ラサンは私の首を指差した。


「このお守りのおかげだな」


 私は黒く丸い石に触れる。ラサンに貰った首飾りだ。処刑の時も没収されず、今もこうして見に付けている。


「これは確か、身に付けた者をいい方向へ導いてくれるのだったか」


「ああ。その通りだっただろう?」


「だが、あの時私はこれを崖に落としていた」


「お守りは一つだけとは限らない」


 そう言うとラサンは右腕の袖をまくって見せた。その腕には黒い石がはめ込まれた腕輪があった。


「なるほど。やはりお守りのおかげのようだ」


 私達は互いを見合い、笑った。この石の効果はあながちないとは言えないかもしれない。なぜなら私は今、ラサンとこうして再び出会えているのだから。


「少し話がずれたな。……宿に運んで手当てをしながら俺は考えてたんだ。ナザリーはどうして何も言わずに出て行ったのかと。風邪も治りかけだったのに、それも待てずに出て行ったのは、やっぱり俺が邪魔だったんだと、そう思った。目を覚ました時、俺がいたらナザリーはきっと嫌な顔をする。一人でいさせるべきだと……だから俺はナザリーを残して宿を出たんだ」


 ラサンは男らしい見た目とは違い、私なんかより何倍も優しく、繊細な心を持っている。気を遣いすぎだと言いたくなるくらいに。


「私が単に王女の元へ行く予定を早めたとは思わなかったの?」


「もちろん思ったが、俺は何より、何も言われなかったことが応えたんだと思う」


「でもあなたはすぐに宿を出なかった。私のために刺青を入れてくれた」


「最後だと思ったから……弱ってるナザリーがとにかく心配だった。刺青は餞別代わりに入れたんだ。少しは役に立っただろう?」


「少しじゃない。十分すぎるほどだった。……あれは一体何なの?」


「守護彫りと言って、俺の一族に伝わる秘技であり、秘術でもある。現れたのは一族の伝説に出てくる現実にはいない生き物だ。守護彫りはそういうものだけを彫り、身を守る」


 言われて納得した。現れた生き物達はすべて常識から外れた姿と力を持っていた。まさに伝説上の生き物そのものだった。


「……宿を出れば、もうナザリーと会うことはないだろうし、俺はすぐに忘れるつもりだった。でも時間が経てば経つほど、頭にナザリーがよぎることが多くなった。最初それは心配してるだけだと思った。弱った状態で残してきたから、気になってるんだと。でも、何か違うような感じもあった。心配の一言じゃ言い表せない感じが……。その気持ちの正体が何なのか、長い間わからずにいた」


 ラサンは口元に笑みを浮かべた。


「実は、ここにいるのはそのためなんだ。本当なら俺は、とっくに国境を越えるつもりでいたんだが、よぎるナザリーがそれを何度も引き止めた。このまま会わずに、忘れてもいいのかと。だから道を外れて、ここで気持ちの整理をしようと思ったんだ。俺は一体どうしたいのか、自問自答するためにな」


 鼓動が再び大きな音を立て始めたのを感じながら、私は聞いた。


「それで、答えは出たのか……?」


「ああ……俺は、ナザリーに会いたかったんだ。宿で別れたことを後悔してたようだ。これは具合が心配だからとかじゃない。つまり――」


 ラサンは私の目をじっと見つめてくる。


「俺もナザリーと、同じ気持ちを抱いてるということだ」


「それじゃあ、私は、側にいても……?」


 すぐに頷いてくれるものと思ったが、予想に反し、ラサンは首を横に振った。


「それは、どうだろう。俺は罪を犯して追われてる。そんなやつの側にいては――」


「私だって犯罪者だ。立場は同じだ」


「俺は人の命を奪った。罪の種類が違う」


「罪は罪だ。周りはそんなことで区別はしない。下手をすれば、ここでは私の罪のほうが重いかもしれない」


「人殺しだと知ってても、その側にいたいと思えるのか?」


 私はラサンの肩をつかみ、その顔を見据えた。


「ならば、あなたはなぜ国境を越えなかったんだ。私を想ってくれていたからじゃないのか」


「そうだ。でも、まさかナザリーも想ってくれてたとは想像もしてなかった。だから俺は、一目だけでも見れれば満足する気でいた。それで今度こそ忘れようと……」


「そうして、また後悔するとは考えなかったの?」


 これにラサンは押し黙った。


「私はもう、自分で決めたことに悔いはない。あなたの側にいたいことだって……。その結果がどうなろうとラサンに責任はない」


「……本当に、それでいいのか?」


 気遣う眼差しのラサンに、私は笑みを返した。


「もちろんだ。だがあなたも正直に決めてほしい。側にいることを無理強いするつもりは――」


 話している途中で突然手を引かれたと思うと、私はラサンに力強く抱き締められた。


「俺の側に、いてくれ」


 耳元でささやかれた言葉に、私は自分の顔が熱くなるのがわかった。


「……ナザリー?」


 おそらく私はトマトよりも赤くなっているだろう。そんな顔を見せられるわけがない――ラサンの肩に顔を埋めたまま、私は言った。


「それが、正直な気持ちか?」


「そうだ。だからもう離れる気はないが……いいか?」


 私は答える代わりに、ラサンを強く抱き締めた。それに答えるようにラサンもまた私を抱き締めてくれる。心地いい体温と感触は互いの心が一つになったと伝えてくれる。


 私が王都で起こした行動は愚かで、馬鹿なものだったと今ならわかる。だがラサンに出会い、すべてが意味のないことだったとは思いたくない。国王の証を盗むと決意し、それが見つかり、逃げ込んだ場所がラサンのいた廃屋……そんないくつもの偶然がつながった先で得た安らぎは、私が行動を起こさなければ知ることも出会うこともなかったものと言えるだろう。だがこれは幸運であっても、決して幸せなどではないとわかっている。追われる身の私達が歩けるのは、光が差すことのない冥い道だけだ。おそらく死を迎えるまで逃亡の日々は続くだろう。しかしそんな道を進むことに、私の中には微塵も悔いはない。今も、これからも。

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冥い道を駆ける 柏木椎菜 @shiina_kswg

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