十五話

「あそこだ! 追え!」


 くっ、またか。まいたと思ったのに――私は再び駆け出し、路地へと入った。ここは王都にほど近い小さな街で、今は夜が明けたばかりの早朝。辺りにはまだ住人の姿は見当たらない。王都からどうにか脱出してきた私は、とりあえず近くにあるこの街に逃げ込んだのだが、追っ手の兵士は人数を増やしてここまでやって来たようだ。こうなるとすぐにでも街を出たいが、おそらく通りや街道にはすでに兵士が張っているだろう。安易に街の外へ出るのは危険だ。向こうの動きが落ち着くまで、しばらくどこかに身を隠したほうがいいか。


「あっちへ行ったぞ!」


 遠くの背後から追って来る兵士の大声が聞こえる。どこでもいいから、隠れられそうな場所はないものか――薄暗い路地を突き進みながら隠れ場所を物色していると、ある建物に目が留まった。


「ここは、廃屋か?」


 他の民家からは孤立した場所に、木造の小さな建物がぽつんとあった。だがその外観はいかにもぼろく、苔やつたがまとわりつき、その屋根や壁にはいくつもの穴が開いている。窓の格子は片側が外れてなくなっており、入り口の扉も下部が腐って欠けてしまっている。どこを見ても人が住んでいる生活感はない。


「お前は向こうを捜せ。俺はこっちに行く」


 迫ってくる声に選択の余地はない。私は中を確認する間もなく、急いで廃屋に駆け込んだ。


 腐った扉を後ろ手で閉め、どこに身を隠そうかと部屋に目をやった時、私は心臓が止まりそうになった。ちょうど視線の先で人と目が合ったのだ。そこには長椅子に毛布をかけて座る体格のいい男性がいた。片手には開いた本が握られ、読書中だったと思われる。私と目が合っても、その男性はさほど驚いた様子もなく、じっとこちらを見ていた。これは、まずい。まさか人がいたとは……。


「おい、この廃屋、捜してみるか」


 扉のすぐ向こうで兵士の声がする――私は男性に慌てて駆け寄りながら言った。


「少しだけ隠れさせてほしい」


 しかしそう頼んでも男性はじっと見てくるだけで何も答えてくれない。もう時間がない。私は返答を待たず、男性の座る長椅子の後ろへ身を隠した。こんな場所ではすぐに見つかるかもしれないが、他に隠れる場所を探す余裕などない。適当に見たらさっさと出て行ってくれることを願いながら身を縮こまらせていると、頭上から何かがふわりと覆いかぶさってきた。肌に触れた感触から、それが毛布だとわかった時、入り口の扉がギシッと音を立てた。


「……ん? ここの住人か?」


 入ってきた兵士が男性にすぐ気付き、聞いている。だが男性の声はしない。


「聞いているのか。答えろ」


「待て。……こいつ、異国人じゃないか?」


 兵士は二人いるようだ。……男性が、異国人?


「言われれば……顔の作りが我々王国人とは少し違うな」


「言葉がわからないのかもしれない。……お前、どこから来たんだ」


 これにも男性の声は聞こえない。言葉がわからないのなら答えようもないのだろう。


「もういい。構っても時間の無駄だ。部屋を捜して行くぞ」


 そう言って兵士達の足音が男性から遠ざかっていく。そしてしばらく部屋を見て回る気配が続くと、再び足音は男性の近くに戻って来た。


「邪魔したな。それじゃあ――」


「なあ、その後ろのは何だ」


「ん? ……その毛布の下には何があるんだ」


 兵士の指摘に私の鼓動は速まる。目ざといやつらめ……。


「聞いたって通じない。勝手に見させてもらうぞ」


 私は身を硬くして息を止める。見つからずに済むと思ったのに――毛布をめくられる覚悟をしたが、しかしその時、長椅子がきしむ音と共に男性が動く気配を感じた。


「勘違いするな。ただ確認したいだけだ。確認、わかるか?」


 男性は見せないようにしてくれているのか? この状態ではよくわからない……。


「……確認……」


 ぼそりと低い声が聞こえた。初めて男性が声を発した。


「そうだ。確認だ。見せてくれるか?」


 すると再び男性の動く気配がした。そして私にかかる毛布に誰かの手が触れる。今度こそ見つかる――私は激しい鼓動を感じながら、飛び出す態勢を整える。


 しかし、私の頭上の毛布がめくられることはなかった。触れた手がめくったのは毛布の端、私のすぐ隣に置かれた男性の荷物にかかった部分だけだった。


「……お前の荷物か。随分と多いな」


「異国から来たんだ。商売でもするつもりなんじゃないか? もう行こう」


 直に見て納得したのか、兵士達は足早に離れていく。扉を開く音が鳴りやむと、部屋の中は静寂に包まれた。


 私は恐る恐る毛布をめくり、顔を出した。兵士の姿がないのを確認し、ほっと安堵する。そして長椅子に座る背中に向かって言った。


「ありがとう。助けてくれて」


 これに男性は顔を振り向け、じっとこちらを見る。……確かに、王国人とは少し違う目鼻立ちで、肌の色もやや濃い。同じ黒髪でも、男性のものはさらに黒が深いように感じる。年齢は私よりも上で、三十前後といったところか。


「あなたは、異国人なの?」


 聞くと、男性は軽く首をかしげた。


「言葉がわからないのか?」


「ゆっくり、話して」


 男性はつたない発音で言った。なるほど。わからないわけではなく、まだ慣れていないだけのようだ。


「あなたは、違う国から、来た?」


 言葉を区切ってゆっくり聞くと、男性は小さく頷いた。


「ここは、あなたの、家?」


 男性は首を横に振る。


「誰もいない、から、休んでる」


 空き家を見つけて入り込んでいるだけらしい。まあ、そうだろうな。


「あなたの、おかげで、助かった。本当にありがとう。でも、知らない私を、なぜ、助けてくれたの?」


「なぜ? 困っていると、思ったから……困ってなかった?」


 真っすぐ見つめてくる男性に、私は思わず微笑んでしまった。


「ええ。とても困っていた。あなたの、優しさと、機転に、救われた」


「よかった。助けられて」


 男性も薄く笑みを浮かべた。無表情の時は硬い印象だったが、少し笑っただけでそれもかなり変わる。優しい男性のようでよかった。


「何も、お礼ができなくて、悪いけど、私は、行かないと……」


 私は毛布の下から出て男性の前まで行く。


「それじゃあ」


 一言いって扉へ向かおうとすると、不意に私の手はつかまれた。


「……何?」


 振り向くと男性が真剣な顔でこちらを見ていた。


「まだ、危ない」


 男性は兵士に追われることを心配してくれているようだ。その危険は承知しているが、でも――


「ずっと、ここには、いられない。あなたも、迷惑、でしょう?」


 つかむ手をやんわりと払い、私は扉に手をかけた。そっと開き、外の様子をうかがう。と、通りの奥から兵士らしき姿が走って来るのが見えて、私は咄嗟に扉を閉めた。


「俺は言った、危ないと」


 振り返ると、どこか怒ったような表情を向けられ、私は苦笑いするしかなかった。


「そうだな……」


 今すぐ出て行くのは難しそうだ。どうしたものか……。


「ここに、いろ」


「赤の他人に、迷惑をかけるわけには……」


「何も、迷惑じゃない」


「でも、もし見つかったら、あなたが疑われることに――」


「見つからなければ、いい。違うか?」


「言うだけなら、簡単だ。そう、上手く行くか……」


「大丈夫。俺が、協力する。見つからないように。だから、ここに、いろ」


 口調には自信も感じられるが、果たして信じてしまっていいものか……。しかし、外に出にくい状況が続いている以上、しばらくはここで大人しく隠れているしかないのだろう。会ったばかりの男性だが……信じてみるしかないか。


 私が外に出るのを諦めて引き返すと、男性は長椅子から立ち上がり、そそくさと移動し始めた。そして側の壁に背を預けて座り込むと、持っている本を再び開く。……もしかして、私に長椅子を譲ってくれたのか?


「気遣いは、いらない。先にいたのは、あなた、なんだから」


 男性は私をちらと見た。


「そこで、休め。疲れてるだろう」


「平気だ。少し走ったくらいで、疲れることは――」


「気にするな。休め」


 私はさらに返そうとしたが、男性の優しさを無下にしてしまうようでやめた。


「……じゃあ、お言葉に、甘えさせてもらう」


 塗装がほとんど剥がれた古い長椅子に腰を下ろして、私は肩にかけていた革のかばんを胸の前で抱えるように持った。その中の大事な物の重さを感じながら男性を見た。長年愛読しているものなのか、表紙が薄汚れた本を熱心に読んでいる。


「あなたの、名前は?」


 聞くと男性の目がこちらを向いた。


「私は、ナザリー」


 少し間があってから男性の口は開いた。


「……俺は、ラサン」


 やはり王国では聞き慣れない名だ。


「ラサン……何をしに、王国へ来たの? 商売? それとも、誰かに会いに?」


「どっちも、違う……」


 その口調は暗く、どこか避けたがっているような雰囲気があった。言いたくないのかもしれない。私はすぐに別の話題をふった。


「その本は、どういう本なの?」


「これか? これは……」


 手元の本を見つめて考えるような表情を浮かべるラサンだったが、おもむろに読んでいたページを私に向けて見せた。


「こういう、本だ」


 長椅子を下りて私は本に近付いた。そこにはやや色あせてはいるが、多彩な色使いの独特な絵が描かれていた。


「これ、ラサンが、描いたの?」


「違う。昔から伝わる、手本だ」


「手本……?」


 もう一度絵を見ると、ところどころに注意書きのように、私には読めない文字で何かが書かれている。


「ラサンは、画家なの?」


「違う」


 そう言うと本を置いたラサンは、左腕の袖を少しまくって見せた。


「刺青……俺は、これを彫る」


 腕には本の絵の作風とよく似たものが入れられていたが、まだ途中のように見える。


「これは、若い頃の、失敗した刺青だ。一生、消えない」


「彫り物師か。だからあの多い荷物を……」


 私は長椅子の後ろに置かれた荷物に目をやった。彫り物師が実際どのような道具を使うかは知らないが、針一本だけではないだろうし、色料も何十種類とあるはずだ。それに日常で使う物も入れれば、あれだけの荷物量になるのだろう。王国に来たのは刺青を入れる仕事のためか……でも、それなら堂々と言えることだし、先ほどの暗い口調の理由になりそうにない。仕事とはまた別の理由だろうか。


 グウウ、と予期せぬ音が響き、私は思わず動きを止めた。そしてそっとラサンをうかがってみる。こちらを見ていた顔は一瞬不思議そうだったものの、すぐに笑顔に変わった。私の腹の虫の音だとわかってしまったようだ。昨日の昼から何も食べていないのだ。いい加減腹も鳴る。


 すると立ち上がったラサンは荷物のほうへ向かうと、その中を探って何かを取り出し、私の元に持って来た。


「今は、これだけしか、ない」


 渡されたのは干からびて硬くなった小魚だった。表面に何か塗ってあるのか、てかてかと艶を放っている。これは何だ? 彼の国の食べ物なのか?


「街の店が、開いたら、食い物を買って来る」


 それまではこの小魚をどうぞということか。ラサンは再び壁際に座ると、微笑みながら私が食べるのを待っている。味の感想を聞きたいようだ。怪しい見た目だからと遠慮するわけにはいかなくなってしまった。せっかくの厚意だと思って、意を決して食べてみるか――私は小魚の頭を一口かじってみた。カリッと硬い食感の後、砕けた身がざらざらと口に広がっていく。だがそれと同時に甘じょっぱさも感じる。魚の塩味と、飴のような甘味……見た目とは違って美味しいかもしれない。


「ここにはない、不思議な味だな」


「俺の、故郷の、味だ」


 やはりそうか――私は笑顔を向けた。


「とても美味しい。ありがとう」


 ラサンも笑顔で応えてくれると、一安心したように本を開き、また読み始めた。


 その二、三時間後、ラサンはふらりと廃屋を出て行くと、言った通りに食料を買って来てくれた。空腹を満たし、私は外へ出る機会をうかがい続けたが、兵士はまだ街中をうろつき、私のことをしつこく捜し回っているようだった。明るいうちは無理そうだ――私は太陽が沈むまで廃屋に隠れさせてもらうことにした。


 そして、日がとっぷりと暮れた夜。夕食を買いに行ったラサンを待って、私は廃屋を出るつもりでいた。だが戻って来たラサンはすぐに言った。


「やめたほうが、いい。兵士が、火をつけて、街を、囲んでる」


「様子を、見て来てくれたの?」


 ラサンは頷く。


「ナザリーが、街に、いると、兵士は、疑ってる。動けば、必ず、見つかる」


 私が盗んだ物が物だけに、向こうも真剣にならざるを得ないのだろう。これは厄介な状況だ。できれば急いで王都に戻りたいのに……。


「動ける時を、待って、今日は、休め。外のことは、俺に、任せろ」


 私はその言葉に従う他なかった。私が何より警戒するのは、かばんの中の物を奪われること。兵士は私を見つければ、殺してでもそれを取り返そうとしてくるだろう。私は死ぬ覚悟はしているが、奪われてしまっては無駄死になる。だから王都に戻るまで、あのお方の元にお届けするまで、見つかるわけにはいかないのだ。不本意だが、今は協力してくれるラサンに頼るしかない。迷惑をかけたくなかったが……。


 数日もすれば街から兵士達は消えてくれると考えていたが、その予想に反し、街から兵士の姿はなかなか消えず、私は廃屋から出られない日々を過ごさなければならなかった。しかしラサンが面倒を見てくれるおかげで何も不便なことはなく、快適とまではいかないが、それなりに過ごすことはできていた。ラサンとも互いに深入りしない程度の話をし、することのない私はそうして時間を潰していた。彼もそんな私に笑顔で付き合ってくれていた。だが思えば、彼も何か目的があってここにいるはずだ。それを私が足留めしてしまっていると思うと、やはり申し訳ない気持ちが先に立った。


「……ラサン、あなたにも、やりたいことが、あるんでしょう? だったら私に、構わず、もう行って。後は、自分で、どうにかするから」


 ある日の午後に、私はそう言った。ラサンは相変わらず長椅子を私に譲り、壁際に座っていたが、これにすぐ反応し顔を向けた。


「どうして、そんなことを、言う?」


「どうしてって、私の都合で、あなたを長く、足留めして、悪いし……」


「悪いなんて、思うな。俺は、大丈夫」


「大丈夫なわけない。私のために、ここにいるんじゃ、ないんだから」


「本当に、大丈夫だ。俺は、やりたいことなんて、ない」


「嘘を吐かなくていい。目的があるから、王国に来たんでしょう? そっちを優先して――」


「そんなものない。俺に、目的なんて、ない」


 ラサンの口調と表情はどことなく暗かった。それを見て一瞬迷ったが、やはり聞いてみることにした。


「じゃあ、王国には、なぜ来たの?」


 質問にラサンは黙り込んだ。これに私はすぐに後悔した。これまで深入りしないように話してきたのに、今さら聞くべきではなかった――私は質問を撤回しようと口を開きかけたが、それより先にラサンが言った。


「ナザリーと、同じだ」


 ふっと陰のある笑みを浮かべ、ラサンはこちらを見た。


「私と、同じ……?」


 ラサンは小さく頷き、そしてうつむく。


「追われてるんだ。仲間に……」


 なぜ? と聞きたい気持ちを私は引き止めた。そこまで聞いてしまっていいのか、ためらいがある。だがそんな気持ちを察してくれたかのように、ラサンは自ら明かしてくれた。


「俺は、師匠を、殺したんだ」


 驚いた私は何も言葉が出なかった。彼が人を殺しただなんて到底信じられなかった。他人の私にこんなに優しく接してくれる人が、そんなひどいことをしたなど想像もつかない。


「だから、遠く、離れたここに、逃げてきた……目的も、やりたいことも、ない」


 今は逃亡中の身……まさに私と同じか。


「師匠って、その、刺青の……?」


「そうだ。とても、尊敬してた。それなのに、師匠は、掟を、破ろうとした」


「掟って?」


「我々、一族の刺青は、他の国のものと違って、特殊で、特別だ。だから、その技術は、一子相伝と、決められている。それなのに、師匠はそれを、破ろうとしたんだ。金に、目がくらみ、他国に、技術を、売ろうとした……!」


 ラサンは怒りをこらえた表情で床を睨んでいる。当時の感情がよみがえったのだろう。しかし私にはそれがよくわからなかった。一子相伝の掟を勝手に破ろうとしたことは確かに悪いのだろうが、売ろうとした技術は刺青だ。軍事機密とかならまだわかるが――


「それは、命を奪うほどの、ことだったのか……?」


 思ったままに言った私を、ラサンはじろりと見てきた。


「一族じゃない人間には、わからないだろう。我々の、刺青は、悪用される、恐れがある。そうなれば、一族は、大きな罪を、背負わされる。刺青の技術は、一族内で、守られるべきなんだ」


 刺青がどう悪用されるのか私にはさっぱりわからなかったが、話すラサンの様子は真剣そのものだ。世間は知らない、彼ら独自の技術がきっとあるのだろうと、私はそれ以上は聞かなかった。


「俺は、師匠の、代わりに、罪を犯した。それでよかったと、思う自分もいるし、悲しむ、自分もいる。正直、まだ心が、ぐちゃぐちゃだ。でも、この罪は、一生背負ってく。そして、刺青の技術を、子孫に伝え、守っていきたい……ああ、俺の、やりたいことは、それかもしれない」


 そう言ってラサンは薄く笑んだ。人を殺した男だというのに、なぜだろう。憤りも恐怖もまったく感じない。私利私欲が動機ではないからだろうか。それともすでに彼の優しさを知ってしまったからだろうか……。


「そんな重大な秘密を、なぜ、話してくれたの?」


 ラサンの目がちらりとこちらを見た。


「ナザリーなら、話しても、いいと思えた。似てるから……」


 私は思わず笑った。罪を犯して同じように追われる私に、仲間意識を持ってくれたのかもしれない。


「……私のことは、聞かないのか?」


「言いたくない、だろう? 別に、いい」


「でも、私が話さないのは、不公平じゃないか?」


「そんなこと、思わないから、安心しろ」


 この人は本当に気を遣ってくれる、優しい男性だ。不公平と感じているのは、むしろこちらのほうだ。優しさに甘えてばかりではいけない――


「私は、王宮から、ある宝を盗んだ。それで、追われている」


 話し出すと、ラサンは一瞬驚いたように目を丸くし、そして私を見た。


「……ナザリーは、盗賊、だったのか?」


「ふふっ、違う。私は、王国軍兵士で、王女の、護衛兵をしている」


「王女? それは、すごい」


「私は、王女に、国王になっていただくため、盗んだ宝を、お渡ししたいのだ」


「渡せば、王女は、国王になれるのか?」


「ええ。なれる。そういう、決まりだから。けれど、私は今、大勢の兵士に、追われている。捕まれば、宝を奪われ、極刑は免れない。王都に近付くにしても、その前に、宝を失っては、意味がない」


「隠せば、いい」


 私は、はっとしてラサンを見た。


「隠して、王都に、行ける時に、持って行けば、いい」


 そういう手もあるな。だが――


「ここから、動けない以上、隠しに行くのは、難しい。それに、いい隠し場所も、知らないし」


「俺に、任せろ。いい場所を、知ってる」


「隠し場所に、心当たりが?」


「ここから、少し、南西へ行くと、古い墓場がある。荒れて、人の気配はない。あそこなら、誰にも、見つからないはずだ」


「そんな場所、どうやって、見つけたの?」


「ここに、来る前、休める場所を、探してて、偶然、見つけた。でも、墓場には、屋根は、ないから」


 人が休むには適さない場所だが、確かに、物を隠すには向いているかもしれない。荒れた墓地か……。


「代わりに、俺が、隠して、こようか?」


 聞かれて頷きそうになった気持ちを、私は一度冷静に戻した。彼が私の敵とも、国王の証を騙し取るとも思えないが、あまり頼りにし過ぎてしまうのも危うい気がした。何せこの王国にとって大事な宝なのだ。できるだけ自分一人の手で扱うべき物だろう。


「そこまで、してくれなくていい。隠すのなら、自分でやる。でも、場所は、ありがたく、参考にさせてもらう」


「そうか……やっぱり、他人に、預けるなんて、心配するのが、当然か」


「悪く、思わないでほしい。私は、ラサンのことは、とても――」


「わかってる。ナザリーのほうが、普通だ。俺が、出しゃばったのが、悪い」


 するとラサンは私に笑みを見せた。


「俺に、秘密を、教えてくれて、ありがとう。これで、お互い、秘密を知る、仲になったな」


 言ってラサンは右手を出した。


「誰にも、言わないと、誓おう」


 出された手を握り、私も言った。


「誰にも、言わない。絶対に」


 私達は互いを見合い、笑った。ラサンのたくましい手の感触が伝わったこの時だけは、追われている状況を忘れさせた。きっと私は長いこと不安で、心細かったのだ。国王の証を独りで盗み出すと決意し、だが見つかり、逃亡して、この廃屋でラサンと出会い、話すまで……。似た状況の彼がいてくれるだけで、私は独りではないと思えた。それだけで怯える心は強く保てて、張り詰めた緊張の糸も緩めることができた。だが、緊張と共に、気も少々緩め過ぎたのかもしれない。


「……大丈夫か?」


 長椅子の背にもたれかかる私に、ラサンは優しく毛布をかけてくれた。


「ありがとう……大丈夫だ」


 自分の額に手を当てると、少し熱く感じた。微熱があるようだ。これ以上、上がらなければいいのだが……。


 この廃屋は一応屋根があるとはいえ、どこも穴だらけだ。あらゆる方向から風が吹き込み、屋内であっても半ば野宿をしているようなものだ。季節は春を迎えたが、暖かいのは昼間だけで、日が暮れると秋のように肌寒い。そして数日前から曇り始めた空は、とうとう大粒の雨を降らせた。ぼろぼろの屋根からは雨漏りとは言えないほどの水が落ちてきて、床に大きな水溜まりをいくつも作った。私達の居場所は狭められ、より悪い環境を強いられることになった。それでもどうにかやり過ごせるだろうと思っていた矢先の今朝、私は体のだるさを感じた。おそらく風邪だろう。ここ数年、風邪などひいたことはなかったというのに。この環境が最大の原因だろうが、私もラサンといることで気が緩み、風邪に付け入る隙を与えてしまったのかもしれない。


「食べたいもの、とか、あるか? 後で、買って来るが」


「いつも通りで、いい。気に、するな」


 幸い食欲はある。ただ喉は渇く。水さえあれば問題はない。こんな水浸しの中で喉が渇くなんて、皮肉としか言いようがない。


「辛かったら、言ってくれ」


 私は頷き、軽く笑みを返した。ラサンは本当に親身になり、心配をしてくれていた。壁の穴を落ちていた板で塞いでくれたり、栄養価の高い食べ物を探しに行ってくれたりと、私よりも早く風邪を治そうとしてくれていた。微熱が出ただけで、まだ重症ではないのに……彼はどこまで優しい人なのだろう。


 やまない雨を遠ざけるように目を瞑り、長椅子で毛布にくるまっていると、不意に首に何かが触れて、私は目を開けた。


「……何を、してる?」


 すぐ目の前にはラサンが立っていて、私の首に勝手に何かを付けていた。


「俺の、お守りを、やる」


「お守り?」


「この黒い石は、身に付けた者を、いい方向へ、導いてくれる」


 ラサンが付け終えた首飾りを私は見下ろした。そこには光沢のある黒く丸い石がぶら下がっていた。綺麗な石ではあるが、黒という色のせいか、正直、縁起がいい物には思えない。


「これで、風邪は、治ってくれる」


 できることは全部したい――そういう気持ちでこれをくれたのなら、ありがたく受け取るべきだろう。効き目の有無は別にして。


「……ありがとう」


 礼を言うと、ラサンは優しく微笑んだ。その笑みは私の心をじんわりと温めてくれる気がした。


 だが一方の体のほうは、夕方になると寒気を覚え始め、座っているだけでは辛い状態に変わった。風邪が本格的になってきたようだ。長椅子で横になるには狭すぎるため、私は雨の及んでいない部屋の奥隅に移動し、そこで横たわった。毛布にくるまっているというのにまだ寒かった。ラサンはこの一枚しか毛布を持っていないということで、今はこれ以上の対処のしようがない。兵士の目がある中で焚き火をするわけにもいかないし。とにかく安静にしているしかなさそうだ。


 夜、ラサンが買ってきてくれた食料と水を口にし、私は眠りにつく。雨の勢いは若干弱まったが、それでもしとしとと降り続いており、冷たい空気が相変わらず廃屋内を満たしていた。寒い。顔の半分まで毛布にくるまっていても、冷気はそれを素通りしてくるようだ。体を丸め、自分の体温で手足を温めようとするが、熱いのか寒いのかよくわからない。肌の表面は燃えるように熱いが、その内側には冷水が流れているようで震えてしまいそうでもある。そんな感覚と葛藤し続け、私は長いこと浅い眠りを繰り返していた。


 次にふと目を覚ました時、私は背中に違和感を覚えると同時に、心地よい温もりも感じ、首を巡らせた。見るとすぐ隣には、私に背をぴったり付けて横になるラサンの姿があった。いつの間に――驚き、思わず身じろぎした私に気付いたのか、ラサンもこちらに顔を向けると、眠そうな表情で言った。


「ああ……驚かせて、悪い。ナザリーが、あまりに寒そうに、してたから、少しでも、温めようと、思って……迷惑、だったか?」


「い、いや、……少し、驚いて……」


「そうか。やっぱり、離れたほうが、いいか……」


 のそりと起き上がろうとするラサンを、私は無意識に引き止めていた。


「待って」


「……?」


 こちらを見るラサンの目を見ないように、私はうつむきながら言った。


「迷惑なんかじゃない。その……このままで、いてくれ」


「俺が、温めたほうが、いいか?」


 私は頷いた。これにラサンは小さく笑う。


「わかった。それじゃあ、ここに、いる」


 再び隣で横になったラサンは、こちらに背を向けて寝た。私も同じように、背を合わせる形に戻ろうとしたが、どうもそれでは落ち着けないような気がした。振り返り、もう一度ラサンを見る。大きな背中が無防備に横たわっている――私は自分の高鳴る鼓動を聞きながら、その背中にゆっくりと抱き付いた。


「……ナザリー?」


 不思議そうな声が背中の向こうから聞こえた。


「こう、させてくれ。このほうが、温かいんだ……」


 嫌がられるかもしれないと思ったが、ラサンは何も言わず、そのままでいてくれた。そして彼の腕に置かれた私の手を、ぽんぽんと軽く叩いた。そうしたいのなら構わない――そんな返事のようだった。風邪で辛いはずなのに、私は自然と笑顔になっていた。こんな気持ちは随分と忘れていた。自分が女だったということも久しぶりに思い出した。護衛兵として強くあらねばと言い聞かせ続けてきたが、結局私は強くなどないのだ。強いふりをして、弱さをごまかしていただけなのだろう。そんな本当の私に、ラサンの混じり気のない優しさは温かく沁み込んでくる。できることなら、このままでいたい。彼をずっと、見ていたい――だがもう一人の自分は冷静に告げていた。そんなことは無理だ。なぜならやるべきことがあるから。異性にかまけている暇などありはしないのだ。余計な気持ちは忘れろ、と。


 ラサンの寝息が聞こえ始めたところで、私は背中から離れ、雨音の鳴る暗い天井を見つめた。私には今やるべきことがある。それに必要のないことは考えるべきではない。そうだ。私には願いがあるのだから。ソフィヤ王女にこの王国を導いていただくという大事な願いが。国王の証をなぜ盗み出した? その時の覚悟を思い出せ――私は目を閉じ、暗闇に意識を沈ませた。


「いい知らせが、ある」


 風邪をひいてから三日目、体の熱は大分下がって、体調は確実に良くなっており、天気のほうも雨空から晴天へと変わり、肌寒さは和らいでいた。こんな環境では重症化してもおかしくはなかったが、そうならなかったのは間違いなく、ラサンが献身的に助けてくれたおかげだ。そんなラサンがいつもの買い物から戻って来ると、笑顔を浮かべて言った。


「兵士の、数が、やっと減ったみたいだ。街の外も、街道にも、見張る兵士は、いなかった。これで、ナザリーも、外に出られるぞ」


 私も笑顔で喜ぶべきことだとはわかっていても、心は正直だった。外に出られるということは、ラサンとの別れも意味する。それを悲しむ気持ちを、私はまだ忘れられないでいた。忘れるべきだとわかっていても、彼を見ると、さらに困難になっていく……。


「嬉しそうじゃ、ないな」


 こちらをのぞいてきたラサンに私はすぐさま否定した。


「そんなことはない。長かったと、思って……」


「確かに、長かったな。でも、ナザリーは、風邪をしっかり、治してから、行ったほうが、いい。王都に、着いて、体調を悪くしたら、やりたいことも、できなくなる」


「ええ。万全にしてから、行くことに、する……」


「それが、いい。……これ、日持ちする、食い物と、合うか、わからないが、服だ。兵士に、格好を、憶えられてるかも、しれないから」


 長椅子の上に置かれたそれらの物に、私は驚きつつ言った。


「そんな……ここまで、してくれなくても、大丈夫だ」


「念には、念を、入れるべきだ。必要ないなら、捨ててくれて、構わない」


 私の胸は苦しかった。優しくされれば、されるほど、別れを拒む自分が出てくる。


「……なぜ、こんなに、よく、してくれるんだ」


「俺と、同じで、追われる身だ。捕まって、ほしくない」


 するとラサンはさらに何かを取り出して長椅子に置いた。


「少しだけど、あれば、役に立つ」


 小さな袋が置かれると、その中からジャリと金属のこすれる音が聞こえた。金だ――私はすぐにそれをラサンに返した。


「駄目だ。散々、私のために、金を使わせてしまったのに、これ以上貰ったら、あなたが、困る」


「平気だ。いざとなったら、働いて、稼げる。今までも、そうしてきた」


 笑顔を見せながらラサンは金の入った袋を私に渡してくる。


「でも……」


「いいんだ。俺は、ナザリーの、助けに、なりたい」


「私を助けたって、何の得にも、ならない。むしろ損だ」


「そうは、思わない。ナザリーと、一緒にいる時間は、気持ちがすごく、安らげる。逃げてることを、ほんの少し、忘れさせる」


 思わず私はラサンを見つめていた。同じだ。彼も、私と同じように、心の安らぎを感じてくれている……。


「本当は、もっと一緒に、いてほしい。でも、それは、わがままだ。ナザリーは、やりたいことを、やってくれ。俺は、少しでも、その助けになれればと、思う」


「ああ……」


 私の胸は溢れてくる感情でいっぱいになりそうだった。このままでは覚悟を無視した言葉を発してしまいそうで、それを留めるため、私は顔を伏せ、静かに呼吸を繰り返した。


「……どうか、したか?」


 笑顔を作り、私はラサンを見た。


「……いや、気持ちが、すごく、嬉しくて……ありがとう。本当に……」


「礼なんて、いい。まずは、風邪を、しっかり、治せ」


 私の肩をぽんと叩き、ラサンは定位置である壁際に座り、買ってきた食料を並べ始める。それを横目に私は彼に貰った食料、着替え、金をかばんに詰め込む――もう、ここにはいられない。居続けたら、私は自分の願いも覚悟も忘れてしまうだろう。それではいけない。忘れるべきは、この安らぎであり、ラサンへの気持ちだ。今の私には余計なもの……早くここを、離れよう。


 その日の夕方、ラサンが出かけている間に、私は黙って街を出た。久しぶりの外の空気と景色は、緩みかけた心を引き締め直した。そして国王の証を盗み出したあの時の、必死な自分も思い出させた。覚悟を決めて手に入れた物を簡単に奪われるわけにはいかない。私を捜す兵士の動向を見極める間、証は隠しておいたほうがいいか――ラサンの助言に従い、私は荒れた墓地へ向かい、そこにあった同じ名の墓石の下に証を埋めて隠した。


 それから私は王都の城下町に何度か入り、兵士の動きや王宮へ忍び込む道を探った。しかしある日、城下町を出たところでつけられていることに気付き、私は逃げた。日が経つにつれ追っ手の数は増え、私は王都から追われ、南下した。そして雨の中、あの峠に追い込まれることになる。


 崖から転げ落ちた後のことは何も憶えていないと思っていたが、ラサンを思い出すと、その時のこともわずかだが憶えていた。


 おそらく泥まみれで倒れていたに違いない。場所はよくわからないが、朦朧とした意識の中で見たのは、雨に濡れた雑草と、こちらに駆け寄ってくる人影だった。


「……捜したぞ、ナザリー」


 つたなく、少し慌てたような口調に私は無意識に反応したのだと思う。


「助けて……」


 力を振り絞って出した声に、相手はたくましい手を差し出してくれた――記憶にあるのはそこまでだ。顔も姿もおぼろげだが、その後のことを考えれば、それは間違いなくラサンだったのだろう。刺青を勝手に入れた理由も今ならわかる。特殊な刺青で、兵士に追われて弱っていた私を守ろうとしてくれたのだ。捕まってほしくないと、助けになりたいと言ってくれた彼なら、きっとためらいなどなかったのだろう。


 私はラサンに、何度助けられたのか。放っておけばいいものを、どうしようもない馬鹿な私を捜してまで心配するなど、こんなお節介をやいてくれる人は、どこを捜しても彼以外にはいないと断言できる。こんなのは不公平だ。こちらばかりが助けられるなど、私は望んでいない。私だって彼の助けになりたい。力になってあげたい。追われる身で一体何ができるかはわからないが、私はやるべきことを終えたのだ。もう何にも縛られない。だから彼のことを忘れる必要もない……いや、そもそも忘れてはいけない存在だった。私はラサンにもう一度会わなければならないし、留めていた多くの気持ちを伝えなければならない。その返事がどうであろうと構わない。会わなければ私の気が済まないのだ。どれだけ月日がかかろうとも、必ず見つけてみせる。そして、次は彼のために私の時間を使ってもらうのだ。それでようやく公平と言えるだろう。

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