十四話

 尋問を受け終えた私は、カビと埃の臭いが充満する暗い独房にうずくまり、襲ってきた眠気にしばし意識を預けた。ここに入れられて二日が経つ。尋問も二度受けた。その尋問は予想していたよりも短く、内容も控え目だった。侵入経路、逃亡時の行動、盗んだ動機……それらに私が言い淀んでも、担当官は強く追及することもなく、次の質問を続けた。その様子にはやる気というものがなく、形式的に進められているのは明らかだった。書かれている調書を見れば、空白だったり曖昧な文章ばかりが目立つことだろう。二度目の尋問にして、私はこれが意味のないことなのだと理解した。単なる儀礼であり、私がどのように答えようとも、罪の重さは変わらず、そして処される刑罰も変わらないのだ。結果の決まっている取り調べほど、無意味で無駄な時間はない。担当官は、はなからこちらの話を聞く気などないのだ。私も今さら減刑を望むようなことを言う気はないが。近いうちに私は処刑される。それはずっと覚悟していたことだ。


 コツ、コツという音に私の意識は引き戻された。食事以外でここでできることは睡眠くらいしかない。逃げ回っていた間の寝不足はもうすでに解消されてしまい、眠るにしても浅いものばかりで目が覚めやすくなっていた。薄く目を開けて音のした鉄格子の向こうを見ると、暗い色の制服を着た看守の後ろ姿が見えた。見回りで歩いているだけのようだ。その靴音が静かな監獄内に響いている。それを確認してなまった両腕でも伸ばそうかとした時だった。


「ご苦労さん。何もなかったか」


 石の壁の向こうから看守と思われる男性の声が聞こえてきた。この独房は看守の詰め所に近い位置にあるのか、こうして時々話し声が聞こえてくることがある。


「ああ。俺の分まで食ってないだろうな」


「そんなことするかよ。本当、お前は食い意地が張ってるよな」


「その前科はそっちのが多いだろう。先週だって――」


「またそれかよ。あの時は死にそうなくらい腹が減ってたって言っただろう。謝ったんだからもういいだろう」


「その貸しはちゃんと返せよな」


「わかってるよ。そのうちな」


 尋問が終わったのは午後……ということは看守達は夕食を取るのだろう。カチャカチャと食器を動かしているような音が聞こえる。平和な時間なものだ。ちなみに私の食事は朝の一回だけだ。


「あいつの様子はどうだった」


「あいつって?」


「二日前に来た、大罪人の女だよ」


 それを聞いて思わず笑いが漏れそうになった。大罪人か……私は窃盗を犯しただけだが、盗んだ物が国王の証となると、そう呼ばれてしまうらしい。


「大人しく眠ってたけど?」


「あの女、かなりの不運だったようだな」


「何? 何か知ってるのか?」


「噂話好きの友達がいてな。そいつは王宮に勤める友達から聞いたっていうんだ」


「へえ、いかにも怪しいけど……」


 まったくだ。


「まあまあ……それがなかなか面白いんだよ」


「どんな話だよ」


「あの女がどうして国王の証なんていう最大級の宝を盗んだのか。それが実は、ソフィヤ王女の指示だったっていうんだ」


「え? 本当かよ」


 それは王子が流したデマ……のはずだった。だが実際、私は指示に従ってしまったのだろう。王女の言葉に暗示をかけられたかのように、誘導されて。


「つまり、王女は罪を実行犯に押し付けたわけさ。黒幕は王女だって話だ」


「でも、どうしてそんなもの盗ませたんだ?」


「お前知らないのか? 王女と王子は次の国王の座を取り合ってるんだよ。国王の証を持ってればその名の通り、自分こそが国王だっていう証になる。だからさ」


「詳しいんだな。それで?」


「で、実行犯にした女は見つかり、これが王子側に知られたわけだ。王女は一気にやばい立場に追い込まれた」


「それで、王女は知らないふりをしたってことか」


「それだけじゃない。助かるために、王位継承権を進んで放棄したらしい。あの女を捕らえるのも、協力的に動いたそうだ」


「ここまでしたから、許してくださいってわけだな」


「国王になれず、王宮まで追い出されたら、王女として面子もあったもんじゃないだろう。全部を失わないために、玉座だけを手放したってことなんだろう」


 他人事として、楽しげに話す声を聞きながら、私はそれが噂話ではなく、真実の話だと感じていた。王子に同調する王女の、あの豹変した態度が、まさにそれを物語っている。ご自分の身に危険が及ぶと察し、王女は私を切り捨てたのだ。王子には大きく譲歩し、対抗する意思がないのを示した。それはすべて保身のため……ご自身だけを安全な場に置くためだった。私は、不運だったのか? それとも単に馬鹿だったのか? 王女こそが国王にふさわしく、愛をもって導いてくださると信じ続けていたが、今ならそれが私の一方的な幻想だったのだとわかる。暗に盗みをそそのかされはしたが、私はそれを聞かなかったことにもできたのだ。しかしそうせず、行動に移してしまったのは私の責任だろう。だが失敗し、危うくなると、王女は素知らぬふりを見せた。私をかばうこともなく。そして、耳元で本音を放った。そこに私が見ていた愛は微塵もなかった。突き放し、さげすみ、怒りをあらわにした王女に、私はもう何も望まない。やっと目が覚めたのだろう。おかげで真実が見えた気がする。権力の側には、理想などありはしないのだと。


「これが全部本当だったら、かなりすごい話だな」


「だろう? でも話はまだあるんだ。あの女は王族護衛部隊所属の兵士だし、王宮内の衛兵の配置もそれなりに把握してたはずだ。それなのに見つかるへまをしたのには、ある理由があったらしい」


「何だよそれ」


 私が見つかったのは警戒を緩めてしまった、単なる油断だと思っていたが。当人が自覚する理由以外に一体何があるのだか。


「実は、国王の証を狙ってたのは、王女だけじゃなかったんだと」


「え? それって……」


「そうだ。王子も同じように狙って、同じ夜に盗もうとしてたっていうんだよ」


「何か、急に嘘っぽくなったな」


「そうか? でも本当だったらすごくないか? あの女は衛兵だけに注意して行ったが、そこで王子に指示された実行役と鉢合わせしてしまった……一歩遅かった王子は計画を変更し、証が盗まれたことを使って王女を責める作戦に変えたんだ。自分のしたことは隠して」


 少し笑えた。想像力豊かな話だと思う一方で、あり得そうだと思う自分もいた。王女と王子は双子のご兄妹だ。考え方が似るのは当然だろう。そして盗みに入ったあの夜、私はこちらを見つけた相手の姿をよく見ずに逃亡した。今までそれは衛兵だと思っていたが、王子が送った人物だとしたら、不意に見つかってしまったのも仕方がないことだったと言えるかもしれない。だが所詮噂話だ。真偽は確かめようもないし、本当の話だったとしても、先の決まっている私にはもはや関係のないことだ。しくじったと後悔する気持ちが慰められるわけでもない。どちらだろうと構わないことだ。


「話半分で聞いたけど、まあ、そこそこ面白い話ではあったな」


「やっぱ王宮の人間は恐ろしいよ。あの女もかわいそうだ。利用されるだけされて捨てられるんだから」


「噂話なんだろう? 鵜呑みにするなよ」


「でもこういう話には真実がいくらか混じってるっていうだろう?」


「だとしても、一割もあるかどうかだ。そもそも王族にまつわるこういう話は数え切れないほどあるからな。裏切りとか謀略とか……今回の話もその一つに過ぎない」


「そうかもしれないが……つまんないやつだな」


 看守達の話は続いていたが、私は両膝を抱え、そこに顔を伏せて目を瞑った。もういい。もう、何も考えたくない――闇の中で、私はひたすら時間が過ぎていくのを待ち続けた。


 そして、翌日の早朝――


「ナザリー・セギュール、起きろ」


 名前を呼ぶ大きな声に、私はすぐさま目を覚ました。鉄格子の向こうに看守がいつもとは違う引き締まった表情で立っているのを見て、私は察し、静かに立ち上がった。


「出ろ」


 そう言うと看守は鍵を開け、鉄格子の扉を開く。そして私に手枷をはめ、独房から引っ張り出した。


「こんな朝から処刑か?」


 聞いても、看守は一言も話さず、私を押して歩かせるだけだった。拘束してから三日目で処刑か……王女はそれほど早く私を消したかったのだろう。王子に余計な詮索をされる前に……。


 長い階段を上り、監獄棟を出ると、目の前には高い石壁に囲まれた殺風景な庭がある。夜が明けたばかりの空は薄曇りで、辺りは重苦しい暗さと空気に満ちている……いや、そう感じているのは私だけなのだろう。庭で待ち構える執行する側の者達にとっては、これは日常でこなす仕事の一つでしかないのだ。いちいち感情を乗せていたら、きっとこんな仕事は続けられないだろう。ここでも私は形式的に扱われ、葬られるのだ。


 看守から別の兵士に引き渡された私は、傷が刻まれた長方形の台の横に立たされた。それを見て執行官は手元の書類に目を落としながら読み上げる。


「元王族護衛部隊所属、ナザリー・セギュールは、王国の至宝である国王の証を盗むという大罪を犯し、それを認めた。我が王国法に基づき、極刑は免れないものとし、本日、ナザリー・セギュールを斬首刑に処することを許可する」


 執行官の読み上げが終わると、私は台の前でひざまづかされ、そこに頭を押さえ付けられた。台に付いた無数の傷は、ここで首を切られた者の数だ。そして今から私もその一人に加わる……。


 上目遣いに前方を見れば、全身黒づくめの大きな男性が、綺麗に磨かれた斧を手に歩いて来る。それを見た途端、私の中にじわじわと恐怖が広がり始めた。死を覚悟し、すんなり受け入れるつもりだったが、やはりそう簡単なことではなかった。命がある以上、生きることは本能なのだ。それを絶つ死は恐怖でしかない。まして他人に与えられる死など。


 黒づくめの処刑人が私の頭のすぐ横に立った。準備をする気配が伝わってくる。合図をすれば、私の頭は今この目が見ている地面に転がるのだ……鼓動が激しくなっていく。怖い。恐ろしい。逃げたい。死にたくない! 助けて! 誰か! ここから助けて! お願いだから! 助けて! ラサン――


「執行!」


 頭上にシュッと風を切る音が聞こえた。私はまさに、こんな土壇場で思い出した。彼のことを――その直後のことだった。


「おわっ――」


 誰かの慌てた声が聞こえると、私の視界は背後からの強い光に覆われた。これは、どういことだ? まさかまだあったというのか? しかし、全身の刺青は確かに消えていたはず。もう具現化するものなどありは――


「たっ、助けてくれ!」


 気付けば私に振り下ろされようとしていた斧は地面に転がり、すぐ横にいたはずの処刑人は姿を消していた。この助けを呼ぶ声は一体どこから……。


「あれは何なんだ……!」


「処刑人をくわえて、飛んで行った……」


 周囲の騒然とする声に私は頭をもたげた。皆の視線は曇った空へと向けられている。つられるように私も見上げれば、灰色の雲の合間を翼を広げた何かが飛んでいるのが見えた。また鳥が現れたのか……? だが何か違う。体の大きさも随分と大きいような。


 すると、全員が見つめる上空から黒い塊が落ちてきた。その形が次第に鮮明になると、私を含めた皆は息を呑んだ。


「処刑人だ……!」


 黒づくめの服を着た処刑人は遥か上空から真っ逆さまに落ちてくる。しかし意識がないのか、体に力が入った様子はなく、まるで人形のように落ちるがままになっている。その光景を、助ける術のない者達は動かずに見ているしかなかった。その結末をわかりながら。そして――


 バンッと衝突音を響かせ、処刑人は地面に叩き付けられた。その手足はぐにゃりと折れ曲がり、その下からは静かに赤いものが広がり始めた。生死の確認はするまでもない。


「ナザリー・セギュール! お前の仕業か!」


 突然の怒鳴り声に私は首を巡らそうとしたが、その前に私の頭を押さえ付けた執行人はそのまま言った。


「あの怪物は何なのだ! あれがお前の背中から飛び出してきたのを見たぞ!」


「背中……?」


 言われて私は、はっとすると共に確信した。刺青はまだあったのだ。自分の目では見ることのできなかった背中に……!


「お前には疑惑があった。王宮に侵入した夜に、多くの兵士が蜘蛛の怪物を目撃したと報告があったそうだが、捜索してもそんな蜘蛛どころか痕跡もなく、この話は終わった。しかし、今目の前でこうして怪物が現れている。お前の仕業としか考えられない状況だ! 操っているのはお前なのだろう! 言え!」


 執行人は私の頭をわしづかみ、ぐいぐいと台に押し込んでくる。


「操って、など……」


「この期に及んで白を切る気か。ならば……」


 頭を押さえる力が緩んだかと思うと、私の視界の端で持ち上げられた斧が鈍く光った。


「お前が死ねば、操ることはできなくなる!」


 斧を振り上げた気配を感じ、私は大声で叫んだ。


「無駄だ! そんなことをしても――」


 その瞬間、私の頭を突風と共に何かがかすめ、押さえ付けられていた手の力と感触が消えた。


「執行人が!」


 兵士の声に私はすぐさま空へ目をやる。


「ううっ、くっ、放せ!」


 上空を旋回する影から、執行人の必死な声が聞こえてくる。すると次には旋回する影がこちらへ一直線に向かってきた。


「うああ、衝突する……!」


 恐怖を感じた兵士達は私を置いて壁際へと避難していく。近付いて来る影は、まるで巨大な岩や隕石のようだ。高速で地面に突っ込む気なのか――私は身を丸め、その衝撃に備えた。


 バサァと強風と砂埃が吹き付けた直後、ズンと体の芯にまで響く衝撃がきた。地面が小刻みに揺れ、短い地震が起こった。だがそれが治まると、周囲には静けさが戻る。


 私は顔を上げ、辺りの様子をうかがおうとした。が、その目の前にはこちらを見つめる巨大な顔があった。


「ひっ」


 思わず怯えた声が漏れたが、相手は気にする素振りも見せず、私に真っすぐな視線を送ってくる。その穏やかな緑の瞳は、突き出た口に無数の牙がのぞく厳つい顔には似つかわしくないように思えた。


「これって、竜、なのか……?」


 避難した兵士のそんな声が聞こえた。竜……この王国では神話に登場する、架空の生き物だ。気高く、知性もあると言われている。そこに描かれている容姿と照らし合わせてみれば、山にも並ぶ巨体、美しい曲線の角、竜巻をも起こせる翼、どんな武器にも勝る爪、優雅に踊る長い尾――すべてが当てはまっている。


「そんなもの、この世に存在するわけがない。こいつは怪物だ! 早く知らせろ!」


 兵士達が慌ただしく動き始めた。軍の部隊などに出て来られたら厄介だ。早いところ逃げなければ。


「私を、ここから逃がしてほしい」


 緑の目に向かってそう言うと、それはわずかに細められた。これまで具現化した生き物と同様、こちらの言葉を理解してくれたようだ。早速立ち上がろうとして、私はふと気付く。手枷で両手が自由に動かせない。これでは逃げるのも手間取ってしまうだろう。どうにか外せないものか……。とりあえず目に付いた断頭台に打ち付けてみたが、その程度で壊れたら手枷の意味もないだろう。やはり鍵がなければ無理か……。


 横からブフォーと熱い鼻息を吹きかけられて、私は竜の顔が間近に迫っているにの気付いた。……一体何なのだろうか。まさか犬のように撫でてもらいたいというわけではないだろうが。


「……何を訴えている?」


 そうたずねると、竜は鼻先で私の手元を指し示すように動いた。


「……手枷を、どうにかしてくれるというのか?」


 ブフッと竜は鼻息で答えた。しかし、竜にとっては極小である手枷を、どうやって外すというのか。できれば傷の付かない方法を頼みたいが――私は恐る恐る手枷のはまった両手を差し出した。


 すると竜は顔を横に向け、口元からのぞく鋭い牙を見せた。……この牙を使えということか? 意図がよくわからないまま、私は手枷を牙に押し当ててみる。尖った先端を手枷の金属の枠に少し強く押し込んだだけなのに、そこには簡単に小さな穴が開いてしまった。すごい……恐ろしいほどの切れ味だ。私は手が傷付かないよう慎重に穴を広げ、そして無事に手枷を外すことに成功した。


「ありがとう。助かった」


 竜は満足げに目を細め、私から顔を離した。


「なっ、何だ、これは……」


 声に振り向くと、監獄棟とはまた別の出入口から、新たな兵士が顔をのぞかせ、竜の姿に驚いた表情を見せている。……ぐずぐずはしていられない。応援が集まる前に逃げ道を探さないと。しかし、壁に囲まれているここでは出口も限られる。今兵士がいる壁際の扉と、監獄棟の出入口の二箇所だけ。監獄棟へ戻れば他の出口にたどり着けるだろうが、通路は狭く、兵士と鉢合わせでもしたら戦いは避けられず、たちまち包囲されるかもしれない。だが行けるのはこの二箇所以外にはないのだ。どちらを行くべきか……。


「弓兵! 配置に付け!」


 号令の声に視線を上げれば、四方の壁の上に弓を持った兵士が駆け出して来た。思ったより対応が早い。


「構え!」


 頭上から数十人もの兵士が一斉に弓を構え、こちらを狙う。こんなの、避けようがない。


「はな――」


 攻撃の号令がかかったと思った瞬間だった。目の前の竜の巨体がのそりとこちらへ近付くと、私に覆いかぶさるように立った。まるで親鳥が卵を温めるような格好だ。そして次には長い尾をぶんと一振りした。


「うわああ――」


 竜の背後の壁を直撃した尾は、そこにいた兵士を巻き込んで、いともたやすく破壊した。砂埃が舞い上がり、いくつもの悲鳴が響き渡る。


「ひ、怯むな! 矢を放て!」


 動揺した声がまた号令をかけた。直後、頭上からヒュンヒュンと風を切る音を鳴らしながら無数の矢が降り注いできた。竜の体が盾になってくれているものの、私の足下近くに矢が刺さり、思わず頭を抱えてうずくまった。その目の前には竜の大きな鋭い脚の爪があり、その下には真っ赤に染まった執行人が潰されていた。こんな状況では、また血を見ないわけにはいかない。兵士達には何の恨みもないが、立ちはだかるのなら倒すしかない。私にはまだ死ねない理由ができてしまったのだ。彼を捜し、会わなければ。最後まで忘れていた……いや、忘れようとしていた、命の恩人を……!


「矢がまったく効いていません! どうすれば……」


「くそっ、怪物めが……応援はまだか!」


 兵士達には動揺と焦りが広がっているようだ。今なら逃げる隙があるかもしれない――私は竜の陰から顔をのぞかせ、周囲をうかがった。二つの出口の先には必ず兵士がいるだろう。となると、行けそうなのは竜が破壊した壁の向こうか。だが大きな瓦礫が重なり、行く手を阻んでいる……。


「……頼みがある。あなたの後ろの瓦礫をどかして道を作ってほしい。そこから私は逃げる」


 これに竜は特に反応を見せなかった。声が届かなかったのか、言葉の意味が理解できなかったのか――そんな不安を覚える私をよそに、竜は壁の上に並ぶ兵士達を見据えると、おもむろに喉の奥をグウグウと鳴らし始めた。一体何だ?


 すると突然、大口を開けた竜は、そこから勢いよく真っ赤な炎を噴き出した。ゴオゴオと大音量で噴き出す炎は辺り一帯へ熱風を送る。一番近い位置にいる私は、まるでかまどに入れられたかのような熱さで、服や髪が燃え出すのではないかと思わず危険を感じた。


 しかし燃やされたのは兵士達だった。壁の上の狭い足場で思うように逃げられない兵士達は、竜の放つ炎に次々と呑み込まれていく。中には避けきれないと壁から飛び下りる者もいた。だが竜はそれも見逃さない。長い尾を左右にしならせ、逃げる兵士をバチンと弾いていく。その間も炎を止めることはない。向きを変え、すべての壁にいる兵士達を炎で燃やし尽くしていく。燃えながら壁を落ちる者、仲間に踏み潰される者、焦げて黒い塊にされた者……そこにはあっという間に地獄絵図が出来上がっていた。熱風にさらされ続けた私は、大量の汗を流しながらその光景を見届けた。


 周囲に兵士の姿が一人もいなくなると、竜は私の上から離れ、壊した壁のほうへと向かう。そしてそこにある大量の瓦礫を鼻先でどかし始めた。私の頼みはしっかり聞いてくれていたようだ。


 崩れた壁に作られた逃げ道に立ち、その先を眺めた。監獄棟のある区画は王都でも南西の隅に位置している。壁を越えられる今、王都の外へ出ることは距離的にも簡単なはずだ。あとは身を隠しながら兵士に見つからず逃げるだけ……。


「……一緒に来てくれるか?」


 見下ろす竜にそう聞いた時だった。


「まだいる! まだ怪物がいるぞ!」


 新手の兵士の声がして、竜の首はそちらへ向くと、私から離れ、炎のくすぶるほうへと引き返して行った。具現化した生き物の目的は、私の命を脅かす敵を排除すること――


「足留めを頼む」


 それだけ言い、私は壁の外へと駆け出した。背後からは大勢の兵士の喧騒と、竜が動く振動が伝わってくる。それらを感じながら、脇目も振らず、私は王都の外を目指して走る。今度こそ、これが最後だ。また兵士に捕まれば、もうその先はない。記憶がすべて戻った今、そんな失敗は絶対にできない。なぜなら私には会いたい人がいる。会わなければならない人がいる。この首元で揺れる首飾りをくれた人……忘れようとしたって、結局こうして思い出してしまう存在なのだ。しかし、どこへ行けば彼に会える? どこを捜せば彼を見つけられる? その前に兵士に見つかってしまったら、私は二度と彼を見ることは――悲観的になりそうな頭を私はすぐさま振った。急ぐことはない。焦る必要もない。彼はどこかで必ず生きているはずなのだから。今は処刑から逃げ出したばかりで、独りで心細く、不安なだけなのだ。王都を離れれば、そんな気持ちも少しは和らぐだろう……あの時も、国王の証を盗み出した直後も、こんな気持ちだった。兵士に追われ、自分のしたことへの不安にも追われて、私は走っていた――

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