東雲そわ

第1話

 ─ また今度連絡するね ―


 そのメールが届いてから数年が経った秋の始まり。早朝。腹ぺこの猫に爪をたてられ、ベッドから逃げ出した僕を呼び止めるように、枕に埋もれたままのスマホが鳴った。


「久しぶり。あと、おはよう」


 彼女からの着信。心臓の辺りに鋭い痛みを感じながら電話に出ると、かつて慣れ親しんだ彼女の声からも、隠しきれない緊張の音色が聴き取れた。


「色々話したいことがあるんだけど、……会えない、かな?」


 もう東京に居ないんだ。

 逸る鼓動に諦めを促すように、はっきりと告げる。


「……知ってる。でも、会いたい」


 刺すような胸の痛みが、嘘のように消えていく。

 そう。彼女は知っている。会いたいと言われた僕が、必ず会いに来てくれることを。





 東京へ向かう電車の中で、彼女――アキのことを考えていた。

 最後に会ったのは、四年前、東京、僕の知らない――彼女の部屋。彼女の仕事を手伝うために、初めてその部屋を訪れ、彼女の姿を見た最後の場所。付き合っていた頃によく寝泊りしていた部屋ではなく、別れた後に彼女が引っ越した新しい部屋。僕の持ち物が一つもない、彼女だけの部屋。

 駅からだいぶ歩いた記憶がある。初めて降りた駅、見知らぬ街並み、先の見えない人の流れ。道に迷った僕を、電話口の向こうで彼女は他人行儀に笑っていた。

 彼女の住むアパートは住宅街の外れにあった。三階建ての建物の一階にはコインランドリーがあり、彼女の暮らす部屋は三階の角部屋、日当たりのよい南側に面していた。慌てて片付けをしたのだろう、ベランダに大きなゴミ袋が隠す様に置かれていたのを覚えている。1DKの間取り。室内に置かれた洗濯機が静かに音を立てていた。

 転職したばかりで慣れないオフィスソフトに苦戦する彼女に、基本的な操作をレクチャーするのがその日の僕の役目だった。昼過ぎから、日が暮れるまで、付きっきりで教えた結果はあまりよくなかったような印象がある。別れ際の言葉は覚えていない。完全に記憶から欠落している。たぶん、いい別れ方ではなかったのだろう。

 あの頃の僕は、既に壊れかけていた。人に何かを教えられる程に、他人に向き合えるような状態ではなかったと思う。それでも彼女からの助けを乞うメールに、僕は駆け付けた。誰かの役に立つことだけが、壊れかけた僕を動かす唯一の理由だった。

 自分一人では動けない。彼女はそんな僕のことを、誰よりも知る唯一の存在だった。


 電車が川を渡る。


 かつて暮らした東京に足を踏み入れたのもいつぶりだろうか。大学時代の先輩の結婚式に出席したのは去年の夏。地元の栃木に戻ってから三年が経とうとしているが、東京を訪れたのはその一度きり。

 朝に電話があってから、身なりを整えて、荷物を揃えて、共に暮らす両親に適当な理由を告げ、電車に乗ったときには午後も三時を回っていた。

 彼女との待ち合わせは夜の七時。彼女の仕事が終わってから、待ち合わせをすることになっている。場所は、最後に彼女と会った街とは違う、僕の知らない街だった。

 今日は東京に泊まるつもりだった。もちろん、彼女の部屋を当てにしているわけじゃない。泊まる場所なんていくらでもある。ホテルなんて上等な宿はいらない。漫画喫茶、カラオケボックス、居酒屋、ファミレス。寒さを凌げて夜を明かせる場所ならどこでも構わない。この街で僕が安眠を得ることはもうないのだから。

 見慣れた駅を通過する。車窓から見える街の景色はあの頃と同じようで、どこか違う色をしていた。窓に映る顔も、あの頃の僕とはもう違う人間なのかもしれない。





 待ち合わせの場所には子供がいた。小学生と思しき男の子。身長から判断するにまだ低学年と言ったところだろうか。彼女との待ち合わせ場所である駅前の時計台の下で、大人ばかりが行き交う雑踏に埋もれ、一人佇んでいる。

 駅前の広場を見渡せる場所には交番があった。夜も遅い時間に、子供が一人そこにいれば保護の対象にもなりそうなものだが、時計台の下はちょうどその死角になるらしい。目の前を通り過ぎる大人たちが奇異の視線を向けられる中、誰かを待っているのか、男の子は真っ直ぐに正面を見据えている。

 僕はその子供と隣り合った位置で、一本後の電車でやってくる彼女を待つことにした。

 電車に乗っている間も、彼女との連絡は取り合っていた。いつまでも変わらない僕のメールアドレスを彼女が消さずにいたことが驚きだった。今朝かけてきた電話番号も、今思えば消されていたとしてもおかしくはない。

 僕だけが彼女の存在を消せずにいる、ずっとそう思い込んでいた。

 上着のポケットに入れていたスマホが振動する。彼女からのメールだった。駅に着いたらしい。もうすぐ、彼女と再会する。

 四年振りの再会を前に、緊張をするなという方が無理な話だった。強張る身体をなだめようと、二の腕を擦る。

 東京はまだ寒くないだろうと思い、選んだ服装は失敗だった。電車に乗っているときはわからなかったが、東京の夜から夏は旅立ち、少し肌寒い秋の気配が感じられた。

 すぐ傍には半袖姿の男の子がいるというのに、寒さに震えるなんて、自分ももう若くない証拠だろうか。東京で暮らした時間で、僕が失ったモノは決して少なくない。若さなんて、些細なことだ。ただ消費されたものを失ったと嘆くことすらおこがましい。





「ごめん、待たせちゃったね」


 再会した彼女は、あの頃よりも少し痩せていた。

 お互いに二十代も終わりに近づき、歳相応に老けた僕と、あの頃と変わらず、いや、それ以上に綺麗になった彼女に見惚れた僕は、用意していた最初の言葉を飲み込んでしまった。


「遅いよお母さん」


 黙ったままの僕の隣で、男の子が声を発した。




 ──お母さん?




「お腹減ったよね。今日は外でご飯食べて帰ろうか」

「いいの? 今日はまだ水曜日だよ? お酒飲んじゃダメな日だよ?」

「わかってるよー、ご飯だけだってば」


 駅の雑踏からそこだけが切り取られたように、二人の会話だけが僕の耳に聞こえてくる。


「リクも、それでいいでしょ?」


 僕の名を呼ぶ彼女の目を、どうしても見ることができなかった。

 直視できない現実に混乱していたわけじゃない。動揺はしていたけれど、それは言葉が出てこない理由であって、目を見れない理由にはできなかった。

 怖いのだろうか。

 昔の自分が彼女の中に見えてしまうことが。

 視線を逸らしたままの僕を、彼女を──アキをお母さんと呼んだ男の子の、幼くも強い光を灯した瞳が、不思議そうに見上げていた。





 駅のロータリーを抜けたすぐ正面にあるファミリーレストラン。隣り合わせで座る母子の対面で、僕はまだ動揺していた。


「ハンバーグ切ってあげるから」

「大丈夫、自分でできるから」


 差し伸べる母親の手を押しのけて、ナイフを握るその手はまだ小さく、扱う仕草はやはりぎこちなかった。フォークで切り分けてしまってもいいものなのに、どうしてもナイフを使いたい年頃らしい。

 男の子は、ナオタという名前だった。

 初対面の大人を目の前にしても、さして気にした様子もなく、待望のお子様ランチを前に、母子の食事を満喫している。料理が届くよりも先にオレンジジュースを何度も飲み干してしまい、その度にドリンクバーを往復させられたアキの前には、魚介のスープパスタが置かれている。

 アキはガーリックトマトソースのチキンステーキを頼んだ僕を見て、トマト食べられるようになったんだ、と笑い、ナオタのランチプレートに乗っていたミニトマトを摘み、放るように口に入れた。


「お母さん、トイレ行きたい」

「一人で行ける?」

「だいじょうぶっ」


 座席からトンと降りたナオタが、迷い無く店の奥へと歩いていく背中を見送ってから、僕はようやく口を開いた。


「子供がいるなんて知らなかった」

「うん。可愛いでしょ」


 アキの表情がほころぶのを見て、また胸の奥に痛みを感じた。平静を装う僕の嘘を罰するように、その痛みは次第に大きくなっていく。


「正直、驚いてる」

「どうして? 私達の歳で子供がいるのは、別に可笑しいことでもないでしょ?」

「そうだけど……」


 ──アキが子供を産むなんて。


 その言葉を飲み込んだ僕の代わりに、アキは言った。


「私が産んだ子供じゃないから、安心して」


 そう言われて、胸の痛みが和らぐ僕は、たぶん自分で思っている以上に最低な男なのだろう。


「元夫の連れ子なの。でも今は、私のたった一人の大切な家族」


 アキが結婚した、という話は共通の友人を通じて知っていた。相手が誰なのかは知らないし、知りたくもないと思っていた。そのとき僕の奥底で湧いた感情に、負の要素がなかったと言ったら嘘になる。

 それなのに、まさか今日、その男の子供と顔を合わせることになるとは、思ってもいなかった。

 今のこの感情を表す言葉を、僕は知らない。


「電話で言ってた、話したいことって?」

「それはナオタが戻ってから、ね?」


 左利きのアキがパスタをフォークに絡めるその指に、指輪はなかった。


「もう何年も会ってなかったのに、今更僕にできる事なんて何もないよ」

「それでも、会いに来てくれた」


 肉を切っていたナイフが鉄板を擦り、不快に音を鳴らす。


「あの頃と今は違うよ」

「そうかな? 私はあんまり変わってないと思うよ。……本当はまだトマトだって嫌いなままなんでしょ?」


 彼女は僕の嘘を見抜いてしまう。今も、昔も、それは変わらず、彼女によって曝け出される本当の自分が誰よりも嫌いな事実も変わらない。


「私達って、嫌いになって別れたわけじゃなかったんだよね」


 不意に思い出したような口ぶりでアキが言ったその言葉を、僕は否定も肯定もできないまま、氷の溶けた水を口に運んだ。

 アキと交際していた期間は、半年にも満たない。夏の終わりに友人を介して知り合い、秋には互いの家を行き来するようになっていた。冬のほとんどをアキの部屋で過ごし、春を迎える前に僕はその部屋を出ていった。

 別れたい理由を、アキにはっきりと告げることはしなかった。

 別れた後も、二人で会うことは何度かあった。

 お互いに相手ができるまでは、他に誘う相手がいないときは、都合のいい相手として利用していた。

 慰みに身体を重ねた夜もあった。

 アキが、僕の知らない男に交際を申し込まれるまで、その関係は続いていた。

 自信がなくなった。

 そんな理由で、彼女を手放した自分を責め続けた僕は、仕事もプライベートも上手くいかなくなり、ついには東京から逃げ去り、実家で引きこもるようになってしまった。


「おかえり」


 座席に戻ってきたナオタを、母親の顔でアキが迎える。

 ナオタはここにきてナイフに飽きたのか、握りしめたフォークでざくざくとハンバーグを切り分け始める。その様子を穏やかな表情で見つめていたアキは、前置き無く、それを口にした。


「新しいお父さん、って言ったら怒る?」


 アキのその言葉に、僕とナオタは顔を見合わせていた。その台詞がどちらに向けて発した言葉なのか、二人とも分からずにいた。

 少し間があってから、ナオタがぽっかりと口を開いた。


「お母さんの好きな人ならいいよ」


 そう言って、ナオタは何杯目かのオレンジジュースを飲み干した。


「だってさ。どうしようね?」


 アキは、無邪気に笑っていた。

 その言葉が纏う無慈悲な棘は、僕の心臓を捉えて離そうとしない。


 痛みの理由を、そのとき知った。

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東雲そわ @sowa3sisu

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