森と夜と、花貝殻ひそむ惑いの間

ナナシマイ

p.?? 大切な人にお花を贈る日です

『魔術師さん。今日は花贈りの日だとうかがいました。ですからどうか、あなたにお花を贈らせてください。……と言っても、ご予定がおありなのは承知の上です。急なお誘いですものね。大丈夫。瞬きする時間もいただきませんから!』

 いつもよりも強く魔法を込めた文字に満足げな表情を浮かべた魔女は、膝に乗せた籠の中身をもう一度確認してから、メッセージカードを閉じる。

 チカリと星が瞬くような光。

 これで書き込んだメッセージは対になっているカードへと問題なく送られる――はずだった。


 ザァ、ザザァ……ときらびやかな波音がしている。

 照りつける陽射しは冬のそれとは似ても似つかない。すべてを焦がすような容赦のなさに不快感を覚え、魔女は目を細めた。

 いつの間にか、彼女は膝の上に置いていたはずの籠を手に立ち上がっていた。その足が踏みしめるのは床の木材などではなく、まぶしいほどの白砂。それはどこまでも爽やかで、しかしまとわりつくような熱気を孕む。

「……海だわ」

 それも真夏の、と心の中でため息をつく。

 葡萄酒色の髪をなびかせながら辺りを見回して、もう一度。

(森の要素が薄すぎる……というより、そもそも魔法の力がひどく少ないわ)

 だからここは惑いの間なのだろうと、魔女は見当をつける。そしてその中では、たとえ暑さに耐えられずとも自身を守る服を脱いではならないのだと。

 森の魔女にとっては正反対の性質を持つ海。気を抜けない程度には相性が悪い。

 そして惑いの間とは魔術によって組み上げられた閉鎖空間である。外に影響が出ないようにと研究者が危険な実験で使用したり、享楽的な妖精が伴侶の幽閉に使用したりする。

 迷い込んだら最後、術者が設定した条件を満たすほか脱出方法はない。

 きっかけは明白だと魔女は思う。今現在の彼女に、魔術と紐づくような相手など、ただひとりしかいないのだから。

 つい先ほどメッセージを送ったばかりの、その相手。

 ふと人の気配がしたほうを向けば、磨いた黒壇を思わせる瞳と目が合った。

「やはり、魔術師さんでしたね」

「お前……」

 憮然とした顔でそう呟くのは夜の魔術師。急に呼び落とされたにもかかわらずきっちりとした格好をしている彼は、なにかに気づいたかのようにジャケットの胸ポケットを漁る。

 取り出したのは魔女とやりとりをするためのメッセージカードだ。

 そこに浮かんでいるであろう、魔女が先ほど送ったメッセージを目で追ううちに、彼の表情は苦々しげに歪められる。

「魔法と混線したか。呼び落としに、時間への干渉……よりにもよってこことは厄介な」

 くそ、と悪態をつく魔術師も冬物のジャケットを煩わしそうにしているが、魔女と同じ理由からか、はたまた手の内を見せないためか、脱ぐ様子はない。

 遠くから、若い女性の楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくる。

 声と一緒に漂ってくるのは華やかな庭園の芳しい香りで、しかし、そのどこにも静謐な森の要素はない。果てなく突き抜けるような甘さに、魔女はくらりとした。

「いいか、くれぐれもこの空間の中で今日がなんの日であるかを口にするなよ」

 いつになく真面目な口調で念押しする魔術師に、魔女は神妙な面持ちで頷き、両の人差し指を唇の前で交差させた。

 溢してしまったかのように、一瞬、魔術師の視線がやわく溶ける。


「……お前はひとまずここにいろ。あいつらと話をつけてくる」

 すぐに表情を戻した魔術師が示すのは、波打ち際で遊んでいる三人の女性だ。その姿を確認し、魔女は思わず声をあげる。

「は、花貝殻の妖精さんではありませんか……!」

 甘い香りの持つ印象に違わぬ容姿を陽光に惜しげもなく晒し、ちかちかと淡色の羽を光らせる妖精たち。貝殻の光を紡いだ、艷やかなハリのあるオーガンジーで仕立てられたドレスから覗くほっそりとした脚。ともすれば嬌声にも聞こえるような呼びかけは蠱惑的ですらあった。

「やあだ、マエストロ」

「来るなら連絡をちょうだいって、あれほど言ったのに」

「んふふふ、刺激が欲しくなったのかしら」

 海に連なる者はみな開放的で感情的であると言われるが、なかでもとりわけ気分屋で恐れられているのが花貝殻の妖精である。儚げな容貌からは想像もつかないほどの激情を胸に秘め、とにかく自分の思うままにしか動かない。

 美しい花の要素を持ちながらその気質は海のものという彼らは、色恋において特に強い力を発揮する。

「ったく。気づかれたか」

 近づいてから声をかけるつもりだったのか、小さく舌打ちをする魔術師。そんな彼と、彼を「マエストロ」と呼ぶ花貝殻の妖精にはどうやら因縁があるらしいと両者を見比べていた魔女に、妖精のひとりが気づく。

「あらぁ? いつの間に魔女なんかに鞍替えしたの?」

 そう言いながらこちらへやってくる妖精は流れるような動作で魔術師の腕を取り、自身の腕を絡ませる。甘い花の香りはより濃密になっていく。

 ぎゅ、と寄せられた躰を、魔術師が引き剥がす様子はない。

(……あれ)

 ちくりと喉の奥が痛むのは、その妖精が棘持ちの花に属する貝殻だからだろうか。

「さてな。それから、ここへ来たのはたまたまだ。お前らの機嫌を取りにきたわけではない」

「……その言葉があたしたちを不快にさせるとわかっていて? こんな場所へ閉じ込めて、遊んでもくれないあなたが」

「引き際も知らない者に言われたくはないな」

「まあっ……」

「……ねぇ、いけないのはそこの魔女なんじゃないかしら」

「ちょっと壊してしまいましょうか。マエストロだって、刺激があったほうが、楽しめるでしょう?」

 魔術師がつれない態度を崩すつもりはないと理解した妖精たちは、その苛立ちを別の者へ向けることにしたようだ。冷えた声色とともに重量を増した花の香りは、吸い込んだ者の動きを支配していく。

 妖精による精神の融解と、侵食。

 ぐっと冷えた空気には当然気づいていたが、魔女は慣れない痛みに気を取られていたため、結果、対応が遅れた。

 くゆる甘い花の香りにべとりとした潮の香りが混じる。

 背筋を這い上がるのは、妖精の鎖か、悪寒か。

 酩酊するような頭の揺らぎに身体の自由が効かなくなり、魔女の手から籠が落ちる。

「やあね、ピクニックでもするつもりだったのかしら」

「……それはっ」

 魔女が手を伸ばそうとしても、拘束された状態では届くはずもない。それでも魔術師に忠告された通りに口をつぐみ、ただ取り返そうと意思を持つ。

 籠の中身を渡す相手は決まっているのだ。

 目を向けた先にいる人間の瞳は、このまばゆい海辺の中で異質に昏い夜の色。無表情の下に滲むのは、こちらを試すような、酷薄さだろうか。

 ゆえに魔女は理解する。

(……ここは、魔術師さんがわたくしを陥れるために用意していた惑いの間なのだわ。でもきっと、それは今日の予定ではなかった……)

 その予定を二つの意味で壊してしまうのだと眉を下げた魔女であったが、花貝殻の妖精たちは勘違いをしたようであった。

「んふ。ここであたしたちの玩具になりなさい」

 美しい笑みはおぞましさを湛えながらさらに深まり、魔女を内側から壊さんと香の根を張っていく。

 ――が。

 ぱきんとなにかが割れる音。

 続いて、むせ返るような花と潮の香りが霧散する。

 魔女に纏わりついていた潮風を塗り変えるように伸びるのは、木の枝だ。

「なっ、あなた……!」

 枝葉は魔女を守るようにしてたちまち広がった。その荘厳さに、花貝殻の妖精たちは圧倒されたようによろめき、夜の魔術師は器用に片眉を上げる。

「まさか、森の魔女……!?」

「……だとしても、ここは惑いの間なのよ?」

 魔女というのは、それ自体がひとつの要素だ。森を司る森の魔女はすなわち、森そのもの。自身を削るように分けてしまえば、魔術に閉ざされた空間であっても魔法の要素を育てることは可能であった。

 しかし魔女にとっては、説明の必要性も感じられないほどに些細なこと。

 だからこそ、彼女が伝えるのはその意思だけだ。

「籠をお渡しすることはできません。魔術師さんに用意したものなのですから」

 途端、惑いの間に漂う空気がふたたび変質する。

「……あらあら」

「こうして外との隔絶があると、気づけなくてやぁねぇ」

「…………だから言うなと」

 妖精たちのぎらりと光った瞳と、魔術師が隠すことなく浮かべた諦観。魔女は自分が仕損じたことを知った。

(魔法と違って、その意味にとられる、というだけでも繋がってしまうものなのだわ。魔術は本当に難しい……)

 今日が花贈りの日であると知ってしまった花貝殻の妖精たちによる、魔術の繋ぎが始まる。


 それはひどく美しい侵食であった。

 はらり、はらりと花びらが散りゆくように、花貝殻の妖精たちの表面が剥がれ落ちていく。

 妖精の欠片は硬質なきらめきを軌跡に残し、白い砂浜を覆う。

 そうして砂に触れたところから、新たな生命が誕生するように、花開いた。妖精の本体が消えてなくなる頃には、砂浜一面が花畑のように埋め尽くされる。

「わあ……」

 鋭い陽光を浴びてもなお内から灯る輝きが負けることはない、宝石のような、貝殻の花。

 あまりの美しさに魔女は思わず触れてみたくなり、ゆらりと近づいて――「馬鹿!」という制止の声とともに腰へ回された手にぐいっと引っ張られる。

「――ふあっ?」

「考えなしに触れるな。妖精の灯火花なんぞ、毒そのものだぞ。……お前はこれだ」

 さらにもう片方から抱き込むように回された手の中には、小ぶりな、しかし妖艶な存在感を放っている薔薇の花束があった。

 気品のある反りが美しい花びらは闇よりも昏い夜を表すような漆黒。それが中心へいくほどに色を帯び、葡萄酒を思わせるこっくりとした赤を滲ませていた。

 突然目の前に現れたものにすっかり興味を惹かれた魔女は、誘われるように花束へと手を伸ばす。

「……まあ、綺麗な薔薇です」

 その手はしかし、花びらに触れる直前で止められた。

「でも魔術師さん。ご存知の通り、わたくしは魔女なのです。それなのに、もらってしまって本当にいいのでしょうか」

「は?」

「本来お渡しするはずだった人間のかたは、残念に思いませんか?」

「……待て。お前、どういう意味で俺を呼び出した?」

「どういう意味もなにも、今日は大切な人にお花を贈る日ですよね? わたくしには人間の知り合いがほとんどいませんから、大切と聞いて思い浮かべたのは魔術師さんだけだったのです」

 はぁ、と吐かれた息が魔女の葡萄酒色の髪に当たり、そのくすぐったさに魔女は肩をすくめた。

 わずかな沈黙ののち、魔術師はぼそりと呟く。

「…………そうかよくわかった」

「……あの、ご迷惑でしたか?」

 魔女の質問に魔術師はただ笑う気配を溢すのみで答えなかった。不安に感じて腕の中から見上げると、微笑みは思いのほか近い。

 どこか居心地の悪さを感じるも、抜け出そうともがいた身体は魔術師の拘束から逃れられない。

 するりと取られた手に黒薔薇の花束を握らされるだけだ。

「あの、魔術師さん?」

「俺を呼び落とす予定だった場所へ行け。お前らしさの欠片もないここで受け取るつもりはないぞ。……ああ、これ以上混線されるのはごめんだからな、時の隔離はやめておけよ」

「え、あの――」

「そもそも、このあとに予定はない」

 早くこの場から立ち去りたいのであれば、確かに触れているほうが効率的だろう。この態勢の意味を問う機会を逃した魔女は、代わりに気になったことを質問する。

「魔術師さんは、この空間があまり好みではないのですか?」

「好みのように見えるか?」

「いえ、あなたならもっと……」

 魔女は自身の中にある森を意識する。

 丁寧に削り、育て、惑いの間を埋め尽くしている要素を飲み込んでいく。ただただ純朴な森が広がっていく。

 絶えず聞こえていた波音は遠のき、葉擦れの音が二人の鼓膜を揺らす。

 ほろりと魔術師の腕による拘束が解ける。

「……おい」

「わたくしにとっても真夏の海というのは好ましくありませんが、せっかく美しい花が咲いているのですもの」

 魔術で組み上げられた空間を完全に書き換えることはできない。

 それでも鬱蒼と茂る木々は強烈な陽光さえも遮り、ほの暗く、どこか静謐な空気の流れを生み出した。

 先ほどまでは華やいで見えた花々も、楚々とした佇まいでぽうっと灯る。

「ほら、これなら綺麗でしょう? わたくしの中にも夜はあるのです」

 そっと胸に手を当てて、魔女はこの空間を作るときに意識した常夜の森を思う。

「それを大真面目に言うところがお前らしいな」

 魔術師の声に滲むのは、呆れと、かすかな悔しさに似た感情だ。それに気づき、くすりと笑う魔女。

(ああ、まただわ……)

 残忍な夜の魔術師が溢すふとした感情の欠片を、森の魔女はこっそり拾っていく。そうして物語を紡いでいく楽しさに、気づいてしまった。

 さて、籠の中にある花束を見せたなら、彼はどんな顔をするのだろう。ほんの少しの未来を想像することすら、今では。


 真夏の陽光に照らされた、作り物の深い森の中。

 妖精に戻ることもない、物言わぬ貝殻の花が、揺れている。

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