朝 その1

 鏡の中に、制服姿の自分が立っている。つい先月までは中学生だったのに、胸に付いた高校のバッジは、僕が追いつくのを待ってくれないらしい。

「海斗、入っていい?」

「いいよ」

 部屋の扉が開き、スーツを着た母さんが入ってくる。制服を着た僕を見て、とても驚き、そして嬉しそうな顔をした。そして、興奮した様子で言った。

「海斗、大きくなったね」

「制服届いたときにもう見たじゃん」

「それとこれとは別でしょう。本当に、立派になって」

 そんなことはわかっていた。だから、思わず笑みが漏れる。それがちょっと恥ずかしかったんだ。

「早く準備して行こう。電車に乗り遅れたらまずいし」

「そうね。でももうちょっと見てていい?」

「帰ってきてからでも時間はあるでしょ」

「あなたもいつか大人になったら、子供がここまで元気に育ったことの嬉しさを感じる時が来るわよ。そしたらきっと同じことを思うでしょう」

 いつか来るのかなあと思ったけれど、母さんも昔はこんなことがあったんだろうと気付いて、待つことにした。

 少したって、とりあえず満足したのか、「あんたも早く荷物の確認しなさい」といって、カバンを取りに行った。その後ろ姿は、昔と比べてちょっと小さく見えた。

足元にある通学用のカバンを背負い、母さんと一緒に扉を開けると、外はきれいに晴れていた。冷たい風が頬に吹き付けて寒いので、母さんをせかして早く駅まで行くことにした。


 入学式の会場の体育館では、ずらっと自分と同じ制服姿の高校一年生が並んで、校長の話を聞いている。どうも「校長先生のお話」の長さはいつまでたっても変わらないみたいだ。ちらっと周りを見ると、まじめに聞き入っている人、小さくあくびをしている人、さっそく隣と話している人。三年前とは違うけれど、それでも変わっていない光景を見て、高校でもちゃんとやっていけるかもしれないと、少し心の雲が晴れた気がした。

そうしてまた前を見ようとしたとき、ちょっと胸がどきりとした。それは、今日の朝、駅から見た海のように、綺麗で、心が惹かれるものだった。

 あの後、高校生活の心構えだとか、クラスについてだとかの話を聞き、お決まりの国歌斉唱をして入学式は終わりとなった。教室まで担任に誘導され、自分の席に座ると、目の前には今日配布されるプリントや封筒が置いてあった。そこには、「高1-1 八木海斗」と書かれていて、もう今日何度目になるかわからない感動を覚えた。でも、それはそんなに重要なことじゃなかった。それどころか、知らない人たちの中に突然放り込まれたことも、今はどうでもよかった。僕にとって大事なのは、右前のほうに座っている子のことだ。これを一目惚れっていうんだろうか。彼女の横顔を見ると、心臓が少し早くなった気がしてしまう。彼女の制服姿は、周りの子たちよりもきれいに見える。彼女が後ろを振り向く。その時見せていた嬉しそうな顔は、きっとこのクラスの太陽のように輝いていた。

 そんなことを考えていたせいで、僕は先生の話を聞いていなかった。そのことに気づいたのは、前の人が僕によくわからないプリントを回した時だった。なんだろう、これ。心臓が震える。もちろん、さっきとは違う意味で。どうしよう。プリントに書いてあることは大体わかるし、書くべきこともわかるけど、間違っていたら取り返しがつかないかもしれない。そうだ、隣の子に聞けばいいんだ。そんな至極当然のことを思った僕は、隣を見た。でも、その子は難しそうな顔をしてプリントを見ていた。話しかけてほしくなさそうな感じだ。どうしよう。仕方ないので、前の人に話しかけることにした。

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど、いい?」

「ん、なんだ?」

 振り向いた彼の顔は後ろから突然話しかけられたからかちょっと驚いていたけど、怒っていたり、イラついていたりはしなそう。よかった。優しそうだ。しかもちょっとかっこいい。軽く息をついて、もう一度話し始める。

「このプリントに何を書けばいいのかわからなくて」

「ああ、それか。ここには名前を、ここには……」

そう言いながら、彼は笑顔でプリントのことを教えてくれた。それに従って僕が書き終えると、彼は前を向き直って自分のプリントに記入し始めたようだった。自分のことを後回しにして、聞くべきことを聞いていなかった僕を助けてくれたらしい。ちょっと申し訳なかった。

それから、高校生活についての説明を受けて、明日からの予定表と時間割を受け取り、今日は解散となった。ちょっとぼうっとしていたけれど、何とか高校生活一日目を乗り切ったということが分かり、ほっとしながら荷物を持ち、帰ろうと立ち上がる。

「そういえば」

「わっ」

 同じように荷物を持って立ち上がった彼が少し僕に突然前から話しかけてきた。

「お前、名前なんていうんだ?俺は盛田直樹」

 話のペースが速い。この人についていくのは大変そうだ。少し固まっていたので不自然な間が開いてしまった。

「あ、僕は八木海斗」

「そっか、これからよろしくな、海斗」

「うん。よろしく、盛田君」

「直樹でいいぞ」

「あっ、ごめん」

「謝るほどのことじゃないって。そう呼んでくれたら俺が喜ぶだけだから」

 ペースは速いけど、でもいい人だと思った。そして、そんな人と出会えた自分のことを運がいいと思い、嬉しくなった。


「へえ、子供のころからこっちに住んでるんだね」

「そう、だから学校に来るのは楽だな。家まで近いし、この辺は昔よく歩いたし」

 そんな話をしながら、学校の最寄り駅までの坂を盛田君と下る。彼はここから少し南に行った駅の近くに住んでいて、中学はそこからさらに先の半島にある場所に行っていたらしい。何より、そんな近くから来ているので、今の高校には中学からの友人もいるとのこと。ちょっとうらやましい。

「海斗はどこから来てるんだ?」

「僕は北白川駅のほうから」

「ちょっと遠いな。東小坂から二十分ってところか」

「そうだね。ただ、距離というよりは電車の本数の問題かなあ。」

 特急も止まらないしね、と言いながら時計を見ると、針は10時ちょうどを指していた。これなら間に合いそうだ。

「確かに西のほうに行く電車の本数は少ないよなあ」

「うん。だからちゃんと時間を見てないと帰れなくなる」

 学校の最寄り駅の東小坂からは三方向に路線が伸びている。盛田君の家のある方は小坂市内を走るので、その中でも一番本数の多い路線だ。一方、僕の家のある方はローカル線なので、本数が少ない。家の近くにある駅は特急も止まらないので、乗り遅れたら三時間電車がないなんてこともある。学校まで車で送ってもらうこともできるけど、母さんに負担をかけることになるし、なんだか嫌だった。ただ、7限のある日はどうやっても電車に間に合わないので、その時は母さんが迎えに来てくれることになっている。

「それじゃ、また明日」

「おう」

 そういって駅で彼と別れた僕は、西に行く電車の出るホームへ行くため跨線橋を降りる。ホームにはもう電車が止まっていたので早速乗り込んだ。車内には僕と同じような学生が何人か乗っているだけだった。ほとんどの人は十分前の特急で行ってしまったのだろう。

空いているのをいいことに、一人掛けのボックスシートに腰を下ろす。去年からここで走り始めた新しい銀色の車両は、座席の数が少なくなったけれど、ボックスシートの足元が広くなったので空いているときは快適だ。でも、車両の内側についている仕切りがなくなったので、冬はドアのそばが寒い。

 電車が動き出す中、僕は今日あったことについて考えていた。入学式の日に友達ができたというのは嬉しい。これで休み時間に一人ぼっちになることはないだろう……たぶん。でも、先生の話を聞いてなったのはまずかった。授業中にこんな調子じゃ、成績までまずいことになる。

 そして、それ以上に考えないといけないのが、彼女のことだ。名前を知らないのでここでは「彼女」としよう。彼女は、サファイアのようだった。周りの光を反射して、さらに強く輝くような人。彼女の周りにも女子はたくさんいたが、その中でも僕の目には彼女だけが特段目立っていた。そして、その光に惹かれた。

 今日見たばかりで、話したこともない子に恋をするなんておかしいんだろうか。自分の恋愛感情というのは何か変なんじゃないか。そう思ったりもした。でも、きっと違う。確かに未来の自分は、昔の僕はおかしかった、なんて考えるかもしれない。でも、今の僕は、彼女に恋をしている。その証拠に、今、僕の心臓は、今日のことを思い出すだけで震えている。

 先生が解散してから少しして、教室が多少騒がしくなり始めたとき、僕は彼女のことを見ていた。とても楽しそうに友達と話している彼女のことを。周囲にその明るさと笑顔を振りまいている彼女のことを。僕はその時、彼女のことが素敵だと思ったんだ。周りに明るいエネルギーを与えているように見えた彼女の姿が。笑顔で幸せそうにしている彼女の姿が。これが恋でないならなんというのだろう。

 僕のことを軽薄で、単純だという人もいる。でも、僕はそうは思わない。だって、恋とはそういうものだろう。

 その人が笑う。誰かの冗談に。誰かの嬉しかったことに。その人の喜びに。

 その人が振り返る。誰かの声に。誰かの動きに。その人が気になったことに。

 その人が話す。誰かに起きたことについて。誰かの気持ちについて。自分の幸せについて。

 その一つ一つがその人の魅力を創り出しているんだから、そこに惹かれることが恋なのだ。そんなことを、窓の外に広がる、サファイア色の海を見ながら思った。


 それから三日。だんだん通常授業が始まり、忙しくなってきた日のこと。その日から、僕は朝の列車の混雑を避けるために、一本早い電車で通学するようになっていた。もちろん、眠る時間が削られるから、昼間に少し眠くなることかもしれないけど、今まで電車通学をしたことがない僕にとって、いきなり混んでいる電車で毎日学校に行くのはきつかった。それに……。

 朝、まだ日が低い時間に家を出て、眠い目をこすりながら駅まで歩く。真新しいコンクリート製の白い階段を降り、青い鉄の階段を上り、ホームで電車を待つ。空は少し曇っていたけど、おおむねいい天気だ。

 あくびをしながらホームに立っていると、後ろで足音がした。振り返ると、僕の同じ学校の制服を着た子が歩いてきていた。どうやら、僕と同じような考えの人もいたらしい。

 一本後よりは空いている車内で吊革につかまり、窓の外を眺める。雪はもうほとんどなくなり、冬の荒涼とした景色は、春の緑豊かな景色に変わってきた。

 普段よりも少し早く学校に着き、荷物を置く。やっぱり昨日と比べると眠いけど、疲れはそうでもない。これなら帰るときにはもうくたくた、なんてことにはならなそうだ。そう思いながらなんとなく黒板に書かれた連絡事項を見ていると、ガラガラという音が右から聞こえてきた。少しびっくりしてそっちを見たら、始業式の日、なんだか難しそうな顔をしていたあの子が教室に入ってきていた。なるほど、今日の朝駅で見たのはこの子だったらしい。

 それから20分くらい。教室の前のほうの扉が開いて、盛田君と荒井さんが入ってきた。荒井さんっていうのは僕がしきりに気にしてた「彼女」のことだ。今日も荒井さんの笑顔は輝いていた。それを見られて、僕は今日もちょっと嬉しくなったけど、でも、友達相手にそんなことを思うのは良くないかもしれないけど、自分の予想が当たっていたことに少しがっかりした。


 僕がそのことを知ったのは昨日のこと。盛田君と話していた時のことだ。朝、考え事をしていたせいで教室を通り過ぎ、そのことに気づいて慌てて戻り、前の扉から教室に入ると、彼と荒井さんが話していた。それも、とても楽しそうに。内心驚いていた僕に、盛田君が気づいた。

「お、おはよう、海斗」

「……おはよう」

「直樹、どうしたの?あっ、おはよう」

「海斗。俺の友達。海斗、こいつは美樹」

 一瞬固まっていた脳に動けと言い、左に貼ってあった座席表をちらっと見る。「1番 荒井」と書いてあった。

 名前と名字を結びつけようとしたけど、会話は止まってくれなかった。

「へえ、海斗くんっていうんだ。よろしく」

「うん、よろしく」

 がんばっていつも通りを装って話していたけど、頭の中は少し混乱していた。とりあえず、荷物を置くと言って自分の机のほうに逃げながら、今起きたことがどういうことか考えていた。

盛田君と彼女――荒井さん――は、かなり親しげに話している風だった。でも、入学式以降、僕が見ている限り、特に二人で話している様子はなかった。なら、二人は僕が知らないうちに仲良くなったのだろうか?それとも……。

脳が僕にとって悪い答えを導き出す前に、前にいた人の声が現実に引き戻してきた。

「どうしたんだ難しそうな顔して」

「わっ」

「そんなに驚くようなことじゃないだろ」

 そりゃ、話しかけられたことは特段驚くようなことじゃない。でも、そうじゃなかった。

「いや、盛……直樹君が荒井さんと話してるとこ初めて見たから」

「ああ、あいつな。俺の中学からの友達。進学先が同じで、たまたま高校でも同じクラスになった。朝同じ時間の電車にあいつが乗っててな」

「そうなんだ」

 「友達」という言葉を聞き、最悪の答えが回避されたことにひとまず安堵し、ほっと息を吐いた。

 でも、それはあくまでも一瞬の安心を僕に与えただけで、不安が取り除かれたわけではない。しかも、その答えは僕にとって一番いいものではなかった。

 その日、授業を聞きながら僕は時々、窓の外や教室の右前に目を向けて、ぼうっとしながら自分の気持ちや彼らの朝の様子のことを考えていた。

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青い海のそばで みずほ @Ao15G

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