涙が止まらないのは

増田朋美

涙が止まらないのは

雨が降って寒い日であった。日が出ず、どんよりしていていかにも冬だなと感じる日でもあった。その日、杉ちゃんとジョチさんは、富士宮に用事があって、富士宮駅から電車に乗って、富士駅で電車を降りたところ、駅のホームに一人の女性が立っていた。白と黒のジャージを身に着けた女性は、なんだか重大な問題を抱えているようで、観光客という感じではなさそうであった。持っているものも、小さなハンドバックを持っているだけだし、その表情からはなにかに絶望したような感じがした。女性は、杉ちゃんたちが近づいても、飛んで逃げようという素振りも見せないで、電車を眺めていた。感情というか、そういうものが欠落してしまっているような感じがして、顔に表情がなかった。

「よう、お前さんよ。」

杉ちゃんが言った。

「今日は雨が降って、用事があるんだったらちょっと行きにくいなあ。」

「そうですね。」

と、小さい声で女性は言った。

「早く電車に乗るなら、早くしないと発車しちまうぞ。次の電車を待つつもり?この時間では、一時間に一本しか電車はこないぞ。」

「それに、特急富士川号を待つのであれば、ここではなくて、二番線に乗り換えないと来ませんよ。」

杉ちゃんとジョチさんは相次いでそういう事を言った。確かに特急富士川号は、静岡行であっても、二番線に来ることになっていて、このホームではない。

「大丈夫です。特急富士川号に乗るつもりではありませんから。」

女性がそう言うと、杉ちゃんという人はある意味変なふうに突っ込んで来るところがあった。それでは行けないと言われるのかもしれないが、思ったことをなんでも口に出して言ってしまうのである。それはある意味超人なのかもしれない。

「それなら、何をするつもりなんだよ。電車に乗らないでホームにいつまでも立っているやつがあるか?それなら、答えは一つだよな。お前さんは自殺をするつもりだろう。」

杉ちゃんがそう言うと、女性は小さくなってうつむいてしまった。

「図星か、まあねえ、そういう気持ちになってしまうのも、ある意味では仕方ないかもしれないけどさ。このご時世だったらね。」

「もし、よろしければどうして自殺に至ったのか、話してくれませんか。大丈夫です。僕達はビジネスとか、新宗教では一切ありませんので。」

ジョチさんがそう言うと、女性は嫌そうな顔をして、こういうのであった。

「どうせ命を大切にしろとか、そういうことを言うのでしょう。自分が変わるしか無いとか、そういうことを言うのでしょう。それなら、サッサと死なせていただけないでしょうか?私には聞いてくれる人もいないし、誰も私の事なんて見てくれようともしませんもの。それはもう十分経験しました。偉い人にも見てもらったけど、結局良くならなくて。偉い人や近所の人にも話したけれど、誰も私のことは、見てくれないし、そういうことなら、もう死んだほうが良いと思うんです。」

「はあなるほどね。偉い人には十分頼ったのか。それなら、偉くない人に相談してみたらどうだ?また違うかもしれないよ。僕なんてただの和裁屋だし、何も偉くないんだ。専門用語とか、そういうものも何も知らない。だったら、そういうやつに相談してみたらどうだ?」

杉ちゃんに言われて女性はちょっとパニックしたような顔をした。

「怖がらなくても大丈夫です。僕達は単に、知りたがりなだけですから。近くにはなまるうどんがありますよね。そこで食事でもしませんか。僕らはお昼ごはんもまだ食べてないんですよ。奢りますから心配しなくていいです。」

ジョチさんに言われて、女性は、二人に着いていくと言った。とりあえず三人はホームからエレベーターで上って、改札階に行き、切符を駅員に渡して改札口を出た。女性も、入場券を渡して、改札口を出た。

はなまるうどんは、駅から出て歩いて五分くらいのところにあった。杉ちゃんとジョチさんは天ぷらうどんを注文して席に座った。女性も、ここに来たら急に食べたくなってしまったようで、天ぷらうどんを頼んで席に座った。

「まずはじめに、お前さんの名前は何ていうの?」

杉ちゃんが言うと、

「井上と申します。井上良子、昭和天皇の奥さんと同じ名前で、良子です。」

と、彼女は答えた。

「井上良子さんね。それで、あのとき身延線のホームに立っていたのは、なにか辛いことがあったから?もちろん、そういうことがなければ、そんな気持ちにはならないか。それでは、はじめから終わりまでしっかり話してみてくれ。」

杉ちゃんに言われて、良子さんは、ハイと言った。

「みんな私が悪いんです。先日から母がちょっと体調を崩していたんですが、私の心配が度を越してしまっていて、母の前でパニックのような状態になってしまって。ちゃんと不安であるとか、そういうことを話すべきだったんでしょうけど、自分の気持ちを表現できなくて、ただ殺せと叫び続けるだけしかできませんでした。止めてくれる人もいないし、結局病院に行って注射を打ってもらって、なんとかなったんですけど、私は自信をなくしてしまいまして。それでもう死ぬしか無いと思ってあそこへ立ってしまったんです。」

「はあなるほど。」

と、杉ちゃんが言った。

「それはお前さんが悪いわけじゃないよ。そういうのは、本当に誰のせいでも無いんだから。人間なんてさ、誰でもパーフェクトに何でもできるって言うわけじゃないし、そういう存在だからトラブルも起きると思うんだよね。だから、それを誰々が悪いとか、そう考えちゃいけないよ。大事なのは、お母さんに心配だってことをちゃんと伝えることじゃないのかな。なにか言えば余計にパニックになってしまうことも、それも人間だから仕方ないだよ。機械みたいに、材料を入れれば、螺子を作ってくれるのかということでも無いからね。それは大事なところだぜ。ときには十分に伝わらないこともあるよ。そしてそこから学ぶことだってできるんじゃないのか。」

杉ちゃんに言われて、女性はそうですねと小さい声で呟いた。

「でも変わろうと思っても買われないし、こうしろと要求しても変わりませんよね。それに私も何処にも行くところが無いし、そうなったらもう死ぬしか無いですよね。」

「そうだねえ。」

と、杉ちゃんが言った。

「でも変わることができないからと言って、自分や相手を責めてしまうのは行けないですよ。ときには、自然になにかが起こるまで待つのも必要ではないでしょうか。今は耐えているしかできないのかもしれないけど、そうですねえ、例えば祈るということをやってみてもいいと思います。人間のちからでは変えることができないことって、意外に多いですからね。それが叶うかかなわないかは別の話ですが、祈るということは大事だと思いますよ。」

ジョチさんは、彼女をそう励ましてあげた。

「多分きっと、ご自身も家庭環境も変われなくて、日々不安が強いから、死にたいと考えてしまったんだと思いますが、それも耐えているうちに変わるかもしれませんよね。お母様に気持ちが通じないと言われましたが、まずはじめに自分が何を伝えたいか、成文化できないと何もなりませんよ。まずはじめに、言葉にしてみて、それを伝えて、きちんと謝罪する。これが大事なのでは無いでしょうか。」

「じゃあここでまとめて見るんだな。本番はそのあとだぜ。」

杉ちゃんに言われて、良子さんは、そうですねと言った。

「はじめはそう、母が仕事から帰ってきたとき、声を潰して帰ってきたので、びっくりしてしまったんです。それでとっさに、今流行りのものかもしれないって、思ってしまいました。」

「それで次はどうしたの?」

杉ちゃんは相槌を打った。

「はい。それで、考えが次々に湧いてきてしまって、母が死んだらどうしようとか、市役所に援助をお願いしたいとか、そう考えてしまって、電話しなければならないとか、わけのわからない発言を繰り返してしまって。私は、感情のコントロールができないので、パニックになると自分ではどうにもならないんです。母がなんとかして止めてくれようとしましたが、私は、余計におかしくなってしまって。もう死にたいとか、そういうことを口走って、錯乱状態でした。」

「はあなるほどね。わかったよ。でもまあ、今の世の中じゃ仕方ないよな。そういう人が出てしまっても良いのではないかな。お前さんに必要なことは、矛盾と上手に付き合うことかもしれないね。お前さんはそこを求めていくと良いかもしれないよ。親なんで、頼れそうで実は何も役に立たないことを平気でいうからね。それをすべてだと思ってしまわないほうが良いよ。そうじゃなくて、他にもこういう意見もあるのかもしれないなと思って於けば、なんとかなるかもしれないぜ。それも考えの一つだよな。」

良子さんに向かって杉ちゃんは言った。

「あと、これも大事なことなんですが、仲間を作ることも大事なんですよね。人間は動物ですから、いざと言うときは集団で防衛に当たるのが常です。それは、どの動物も一緒ですよね。」

ジョチさんが彼女に言った。

「別に変な新興宗教とかそういうものではないですよ。自宅に居場所がなくて、駅のカフェなどに何時間も居座っている人は意外に多いです。もし、行くところが無いのなら、僕らがやっている事業所に来てくれてもいいですよ。更生施設でもないし、フリースクールでもありません。たんに、居場所がない人に場所を貸しているだけのところです。たまに講座やセラピーが行われることもありますが、それ以外は誰も批判したり干渉したりすることはありませんから。」

「そうだよ。良ければ製鉄所に来てみない?と言っても鉄は作ってませんけど。」

杉ちゃんとジョチさんに言われて、井上良子さんは、そうしようと考えてくれたような表情をした。

「まあ自宅にずっといるよりは、そういう場所があったほうがいいですよね。それは、その事業所に参加してみようかな。お願いできませんか?」

良子さんは、杉ちゃんたちに頭を下げた。

「ほんならいつでもいいからさ。製鉄所に見学に来てくれよ。よろしく頼むぜ。」

と杉ちゃんがいうと、ジョチさんは製鉄所の住所と電話番号を書いた紙を、彼女に渡した。

「わかりました。ありがとうございます。富士かぐやの湯の近くにあるんですね。」

「はい。利用したあと、そこの温泉に入ってもいいですよ。」

ジョチさんから渡された紙を見て、良子さんはとてもうれしそうだった。

それから数日立って、良子さんは、富士駅から富士山エコトピア行のバスに乗って、かぐやの湯近くの停留所で降りた。製鉄所という施設名であるようだが、工場のような雰囲気は全く無く、日本旅館のような形をした、大きな建物であった。良子さんは、製鉄所の正門をくぐり、インターフォンのない、玄関の引き戸を開けて、

「ごめんください。見学に参りました。井上良子です。」

というと、ハイどうぞとジョチさんの声がした。良子さんは、玄関に上がり框がなくて、真っ平らになっていることに気がついた。それは車椅子の人が入れるようにというだけではなく、誰でも入って良いようにそうなっているのだった。

「ようこそいらっしゃいました。お待ちしていましたよ。井上良子さん。まずはじめに、建物の中を案内して差し上げます。」

ジョチさんはにこやかに笑って、建物の中に良子さんを招き入れた。そして廊下を歩きながら、製鉄所のルールを説明した。現在利用している利用者は3名で、通信制の高校へ通っている人が1名、あとの二名は社会人である。高校に行っている子は、授業は午前中で終わるため一時から、その他の二人は仕事は15時までなのでそれ以降に来るというのだ。利用時間は、日帰りであれば、10時から、17時まで。それ以降は自宅へ変えるという。

「こちらが食堂です。なにか買って来たものを食べてもいいですし、誰かの料理を食べてくれてもいいです。それからそちらにあるのは中庭で、自由に散歩してよいことになっていますから、どうぞ散歩してください。」

ジョチさんは、食堂と中庭を彼女に紹介した。

「ありがとうございます。もっと規則正しい場所かと思っていましたが、そうでもないんですね。」

良子さんがそういうと、

「はい。中には病気の方もいらっしゃるので、中でヒプノセラピーが行われることもあります。それも自由に見学していいですからね。中にはそれに感銘を受けて、セラピストになりたいという人もいますから。」

ジョチさんがそう言うと、良子さんはしばらく庭を散歩させて貰えないかといった。ジョチさんは、にこやかに笑っていいですよといった。

そうこうしているうちに、製鉄所に設置されている柱時計が、一時を鳴らした。良子さんは、庭を散歩していたが、杉ちゃんが部屋から出てきて、

「今、望月学園から電話があった。なんでも秀子さんが、またパニック発作を起こしてしまったそうで、もう授業に出られないので、迎えに来てくれと言っている。」

と、ジョチさんに言った。

「わかりました。それでは小薗さんを迎えにやらせます。彼女は大丈夫ですかね。話が通じないとかそういうことはありませんか?」

ジョチさんがそう言うと、

「薬を飲んでいるので大丈夫なようだが、一人で帰るには、無理だということだ。」

と、杉ちゃんは言った。確かに精神疾患がある女性が、こういうときに一人で帰ってくるというのはちょっと難しいところがある。そうなると誰か一緒に着いて言ったほうが良いと思った。

「理事長さん。」

と、良子さんが言った。

「私も、その女性を迎えに行ってもよろしいでしょうか?」

「でも、初めての利用者さんに、こんな重大な仕事を任せてしまうのはどうなんでしょうかね?」

ジョチさんは心配したが、

「大丈夫です。私は何回もパニックを起こしたので、わかります。きっとすごい劣等感で泣いていると思いますから、そういうときは誰かが一人着いていたほうが良いと思います。」

決断したような顔で良子さんはいった。

「わかりました。それでは良子さんに行ってもらいましょう。宜しくおねがいします。」

ジョチさんは、良子さんに言った。良子さんは、小薗さんの運転する軽自動車に乗り込み、通信制の高校である、望月学園に向かったのであった。

望月学園に到着すると、小薗さんは、片山秀子さんを迎えに来たと受付に言った。受付は、保健室で休ませていると言ったので、二人は急いでそこへ直行した。

片山秀子さんは、保健室の椅子に座っていた。とりあえず、持っている薬を飲んだようで、まだ泣いているけれど落ち着いていると保健の先生は言った。なんでも、授業でトラウマと関連する言葉を教師が口にしてしまったためにパニックになったという。それは、精神疾患の症状でもあるから、仕方ないことだった。小薗さんが秀子さんに迎えにに来たというと、秀子さんは、一言、ごめんなさいといった。

「いえ、大丈夫ですよ。そういう発作を繰り返してしまうのは病気なんです。車椅子に乗っているのと同じだと考えればそれで良いわ。帰って、帰ってゆっくり休みましょう。」

良子さんがそう言うと、秀子さんは立ち上がった。良子さんはその秀子さんの左手をそっと握ってあげた。それを小薗さんや周りの人達は、よくできるなという表情で眺めていた。

「大丈夫です。私も、仲間ですから。」

良子さんは秀子さんに言った。そして、秀子さんの肩に優しく手をかけてやり、そのまま学校の廊下を歩いて、小薗さんの車に彼女を乗せてあげた。学校の関係者は、この様を優しそうな目で見送ってくれた。それが普通の学校とはまた違うところでもあった。保健の先生が、秀子さんまた来てねと言ってくれたのが、印象的であった。

とりあえず、秀子さんを車に乗せて、良子さんは彼女の隣の席に座り、車に乗った中でも、ずっと秀子さんの手を握っていた。秀子さんはいつまでも泣いていた。それはそうだろう。精神障害の発作というのは、体の発作よりも衝撃が大きなものだ。そういうわけだから、患者も一度起これば自信をなくす。そういう人にとって大事なのは、やはり仲間の存在で、一緒に病気と戦っている仲間がいるということは、治癒率に多く関わってくるのだった。良子さんはそれをよくわかっていた。だから、秀子さんの手を強く握ってあげた。

しばらく車を走らせて、一行は製鉄所に到着した。製鉄所の玄関には杉ちゃんがいて、心配そうな顔をして待っていた。秀子さんに、良子さんが車を降りるように促すと、秀子さんは良子さんに小さな声でありがとうといった。

「本当にありがとうございました。あのとき手を握っていてくれなかったら、私はどうなるかわからない。本当にありがとう。」

秀子さんにそう言われて、良子さんは涙が出てきた。

「おいおいそこの二人、ふたりとも泣いていたらだめだろう。」

杉ちゃんに言われて、良子さんは涙をふこうとしたが、涙は止まらなかった。とりあえず秀子さんには、製鉄所の居室に入ってもらい、安静にしているようにとジョチさんから指示が出た。発作に対してできることはそれしか無いのである。だけど、それが一番大きなことでもある。

秀子さんが居室に入るのを見届けた良子さんは、なんだかものすごい達成感を感じて、更に涙がでてしまった。その時は、滝のように涙が出てしまって、拭くのも忘れていた。

「お前さんもいつまでも泣いてちゃダメだぜ。」

と、杉ちゃんが言うと、良子さんは嬉しそうな声でこう答えたのであった。

「だって私が人助けして、お礼もされるなんて、全然経験したことなかったから。」

そう言って更に涙を流す良子さんに、ジョチさんは、この感動をぶっ壊すような真似はしないようにしようと言った。そのようなことをしたら、彼女の喜びをけしさってしまうことになるからと。杉ちゃんたちが、その場を離れても、良子さんはまだ泣いていた。それは悲しい事による涙ではなくて、嬉しい涙だった。医学的に言ったら、感情のコントロールができないためにそうなったのかもしれないが、そういう感情はコントロールしなくても良いのではないかと思われるのであった。


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涙が止まらないのは 増田朋美 @masubuchi4996

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