番外編 「私、晴れ女なんで」

 浅い春の朝。しんと冷えた朝の空気が、上気した火照る頬を撫でてゆく。朝日が射し、街路樹の根元のパンジーについた朝露が小さな光をチラチラと放つ。毎朝6時から30分間ランニングに出る洋平は、今日は5分早く家を出た。


 日が昇るのが早くなり、朝の冷えた空気も少し柔らかくなった気がする。明け方まで降っていた雨が止んで道が濡れて朝日を反射させて眩しい。


 一昨日のランニングの帰り、梅の花の匂いがして振り返ると、いつも通っていた民家の庭から出た枝に紅梅の花が開き始めていた。その花の赤に、ふと思い出した。


 天気のいい日のランニング時には時々会う、ポニーテールに赤いマフラーを巻いて、柴犬の散歩をしている女の子、千田渚。


 渚はバレンタインの朝、バス停のピンク色のベンチの前で、柴犬と共に洋平を待ち構えていた。高校のクラスの女子や部活のマネージャーなんかにも義理チョコだと言って色々貰ったあの日。朝イチで手渡されたチョコは手作りのトリュフだった。包の中に一緒に入っていた手紙には、丁寧に書いたのだろうと伝わる字で、これまで渚が洋平に気がついてからの経緯や一目惚れしてしまった事などが書かれていて、なんだかくすぐったくなった。


 小学校6年生だということにも驚いた。背が高いから中学生くらいだと思っていたのだ。手紙の最後には付き合ってくださいと書かれていたが、さすがに小学生と付き合うのは、自分の許容に余る。はっきり断るのが思いやりだろう。だがなるべく傷つけずにハッキリさせるにはどう言えばいいのか。


 それから何度か柴犬の散歩をしている渚に、2度ほど会ったが、会釈する彼女に洋平は軽く手を上げて通りすがるだけに留めていた。


 その後も返事の仕方にしばらく悩んで、ホワイトデーまでに何とかしようと思っていたのだが、一昨日その紅梅を見るまで、渚とはすっかり会わなくなり、返事の事を忘れてしまっていた。


 冷たいようだが、洋平にとって渚はその程度の存在だったという事だ。やはりはっきり断ろう。曲がり角を曲がると、バス停が見えてきた。ピンクのベンチの前に、久々に見るポニーテールの渚が柴犬を連れて立っている。こちらを見た彼女に、走りながら片手を振ってみる。渚も手を振り返してきた。


 少しスピードを落としながらバス停前で足を止めた。赤いマフラーに首をすくめていた渚はスっと顔を上げた。


 あの日ハッとしたのは、彼女の姿勢の美しさにだったと、今更ながら気がついた。


「おはよう」


 こちらから声をかけると、渚も息を吸い込んで「おはようございます」といった。声がやはり幼い。


「久々だよね、最近全然会わなかった」


 洋平が言うと、渚は少し笑った。


「インフルエンザにかかって、しばらく入院してたんです」


「入院?」


「ちょっとこじらせちゃって。脳炎起こしかけてて。でも今日までに絶対直そうって思ってました」


 そう言った渚の頬や首筋が、何となくやつれてる事にようやく気がつく。


「ちょっとまって、退院したのはいつなの?」


「……一昨日」


「それなら犬の散歩なんかに出たらあ……ダメだよ。筋力落ちてる時は危ないや……」


 洋平は焦ってまくし立て、語尾を飲み込む。


「……ごめんなさい」


「ああ、いや、その、危ないからさ、俺も昔入院してた後、無理して転んで怪我したから」


「そうなんですか?」


 目を丸くした渚に、話がだいぶ逸れてしまったことを思い出す。


「ああ、それは置いとこう。まず本題」


 俺はウィンドブレーカーの上着のポケットから小さな包みを出した。一昨日部活の帰りにショッピングセンターまで行って買い求めたお返しの品だ。綺麗な花柄の包の口にピンクのリボンが結んである典型的な形のラッピング。


「バレンタインにチョコをありがとう。美味しかったよ」


「はあ、良かった」


 先程、強い言い方で強ばらせてしまった彼女の表情が優しくなった。


「それと、手紙なんだけど」


「……はい」


「その、まだ君のことよく知らないから、急に付き合うのは難しいかなって」


 洋平は、口から出た言葉に自分で驚いていた。はっきり断るのが渚への思いやりだとさっき思ったばっかりなのに、何言ってるんだ?と脳内で自分を小突く。


「じゃあ」


 渚は言った。


「時々ここで今みたいに少し話すのはどうですか?」


「ええ?」


「まず友達になってください。私も話してみて、違うなって思うかもしれませんし」


 友達になってください。言われた事を頭の中で咀嚼する。


 まさかそんな切り返しが返って来るとは思わなかったのだ。YESかNoかの返事しか考えていなかった。接点もこの時間すれ違うだけだから断れば終わると思っていた。


 洋平が固まってしまっていた時間はどのくらいだろう。気がつくと目の前の渚は先程の勝気な発言とはうってかわり、目が潤んで泣きそうなのを我慢してる。


「そりゃそうだ、1回しか話したことないもんね」


 言ってから洋平は心の中で自分の背中をバシンと叩いた。断るんとちゃうんかい!と。だが、彼女の見開かれた目がまた潤みを増したのを見た時、心が決まった。絆されたと言われても仕方ない。洋平は捨て猫は見ぬふり出来ない質なのだ。家には拾って育てた猫が2匹もいる。


「月曜日は、朝練が無いんだ。だからこの時間にここで」


「いいんですか?」


「はぁ、うん。ええよ」


 気が抜けて地の訛りが顔を出す。急に訛った洋平の言葉に少し驚いた渚の顔に、短く切ったばかりの短髪の後頭部を右手で揉む。


「俺、関西出身やねん、カッコつけて標準語喋ってたけど」


「そうなんだ……」


「イメージ早速壊したかもしれんけど、それでも良かったら」


 身体を鍛えて清潔にはしているので、客観的な見てくれはそこそこ悪くは無いと自分でも思っている。天狗な男になるつもりは無いけれど。


「大丈夫です。私もだいぶ背伸びしてるんで、子供っぽいって笑われるかも……」


 ふっと笑った彼女の八重歯気味の犬歯に、幼さを見た。袖に隠れた手をギュッと握ってるのを見て、さっきから左手で渡しそびれてる、ピンクのリボンのかかった包みを、少し前に差し出した。


「はいお返し。お口に合うかわからんけど」


 渚は軽く頭を下げながら両手でそれを受け取り、さらに嬉しそうな顔を見せた。


「ありがとうございます」


「こっちこそ。あとな、迷惑やなかったら、帰りは送っていくわ。その子のリード貸して」


「ええ!?」


「柴君、見た感じお利口そうやけど、心配やし」


 柴犬が白い息をハッハッと吐きながらこちらを見上げている。ちゃんと待ててお利口だ。


 どうするか悩んでるのか、渚は真っ赤になって俯いていた。今更赤なるんかい、と心の中で突っ込みつつ、ふっと吹き出した。


「何がおかしいんですか?」


 渚の非難めいた声に「ごめんごめん」と言いつつ


「ほれ、アレと同じ色」


 洋平が指さした、自分の肩の後ろの方を振り返った渚は、少ししてその意図が分かった。少し先の庭から突き出た枝に朝日が当たり、紅梅が鮮やかに見えた。赤くなったことを揶揄られたのだろう。


「からかわないでくださいっ」


 顔を背けて頬を隠すようにして俯く渚に、洋平は「ほれ、かしぃな」と手を差し出した。渚は洋平の顔を見上げると、一瞬迷って柴犬のリードを渡した。


「柴君、なんて名前」


「チェックです」


 言われて赤のチェックの首輪に納得する。


「可愛ええな、チェック」


「それと、女の子です」


「あー、それは申し訳ない、柴ちゃんやったんやな」


 促すと、渚は洋平の隣を歩き出した。住所も手紙にちゃんと書いていたので、家がランニングで行く先の近くだと知っている。


 歩きながら、渡した包の中身の話を振ると、お菓子を作るのが得意なのだと話が繋がる。バレエを習ってる事を聞いて姿勢の良さに納得した。その後もお互いの好みをかわりばんこに話してるうちに渚の家に着いた。


 一般的な戸建ての家で、自分の家と似たような家庭なのだろうとホッとする。さっきまで、もしかしたらいい所のお嬢さんだったら?と心配していたのだ。見た目の上品さと、姿勢の良さがそう見せるのかもしれない。


 今日から学校に行くのだという渚に、無理したらあかんで、などと言いつつ手を振って別れようとして、「あ」と気がついた。


「また風邪ひいたらアカンで、雨とか雪の日はなしやで?」


 言うと、残念がるかと思ったにも関わらず、渚はふっと笑った。


「大丈夫です、私、晴れ女なんで」


 少し勝気なのは間違いではなさそうだ。可笑しくなって「ほうか」と笑う。今度こそ背を向けていつものランニングのルートへと走り出す。角を曲がる前にちらっと振り返ると、渚はまだこっちを見ていて、俺に手を振った。


 雨上がりの道路を照らす、逆光の眩しさに目を細めて、確かに晴れ女なんかもな、と思いながら、洋平も大きく手を振り返した。




 2024.01.21

 伊崎夕風












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