Valentine!

伊崎 夕風

Valentine!〜「私」を取り巻くバレンタインデーの一日〜

 朝靄が晴れてきた。立春は過ぎたが、やはりまだ2月。今朝は霜が降りた。うっすらと明け始めた街の道路には、白く、朝露が凍っていた。近所の住宅に停めてある、野ざらしの駐車場の車は、天板やガラスが白くなっている。


 道の向こうから人影が見えた。少女は飼い犬を連れてこちらへ歩いてくる。この辺の住宅地には小型犬の飼い犬が多いが、この子が連れているのは中型の柴犬だ。私はこの犬が貰われてきたらしい、子犬の頃から知っている。女の子はその頃はまだ小さかったから、母親と一緒に散歩していた。だが数年経ち、幼児から少女となった今では、毎朝、登校前のこの時間に犬と散歩に来る。私服を着ているのでまだ小学生だろうか。背が高く、可愛い留め具の着いた白のダッフルコートに、赤いマフラー。グレーのチェックのスカート。そこから出たタイツの足はスラリと長く、履き口にムートンのついたブーツを履いていた。歩く度にいつものトレードマークのポニーテールが揺れる。よくみると口元にもほんのり色のついたリップを塗っているのか。随分おめかしして。女の子らしくなったものだな。


 今日は、その子の様子がいつもとどこか違った。毎朝ここの前を通る時、こちらに見向きもしないで通り過ぎるのだが、今日は足を止めて、ベンチの座面が濡れていないかを手で確かめ、霜で濡れていることに気がつくと、その前にしゃがんで、柴犬を撫でた。柴犬はブンブンと尾を振る。少女は、先程からしきりと、自分が来たのと反対側の道の向こうを気にしている。しばらくすると、少女は立ち上がった。見ると向こうからやってくるのは、いつもここの道をランニングしている、高校生の男の子だ。少年でも青年でもない、どう言い表していいかわかんない年齢。短髪にさっぱりした顔立ちのスポーツマンタイプ。なかなかのイケメン。白っぽいウィンドブレーカーが爽やかさを増長している。女の子はポケットから何かを取りだした。

 その人がここへやってくるまで、ひたすらその人を見つめていた女の子は、その男の子があと3mですれ違うというところで呼び止めた。その必死そうな濡れた黒目と、赤らんだ頬。その人を呼び止めた唇を軽く噛んだ。立ち止まって自分を振り返ったその人をじっと見つめたが、思いきったようにそばまで寄ると、手にした包みを前に差し出した。


「あの、突然ごめんなさい。その、これ、貰ってください!」


 ああ、そうか、今日はバレンタインなんだな、と思った。男の子は目を丸くして、照れくさそうに頭の後ろをかくと、


「ありがとう」


 と言って、チョコの包みを受け取る。


「君、名前は?」


 と聞いた。


「千田 渚、です」


 渚と名乗った少女は緊張を閉じ込めるように柴犬のリードをぎゅっと握った。


「渚ちゃん、ありがとう。俺は加納洋平っていいます」


 さすがスポーツマン、礼儀正しいきちんと名乗り返して、白い歯を覗かせて笑った。


「洋平、君」


「うん、ホワイトデーの日、お返しするね。この時間にここで」


 洋平の言葉に、渚はパッと笑顔になった。


「…はい!」


 洋平は手を振ってまたランニングに戻っていく。渚は姿が見えなくなるまで見送ると、うー!!っと小さくうなりながらしゃがみ込んだ。


「チェック、どうしよ!名前!名前分かった!!」


 チェックと呼ばれた犬は、首に抱きついてきた女の子の頬をペロッと舐めた。


「どーしよー!!嬉しすぎる!」


 ああ。早朝から、素敵なものを見てしまった。初々しくて可愛いなぁ。


 そして日が登り、辺りがすっかり朝日に包まれた頃。すぐ近くに住んでいるおじいさんがやってきた。お待ちしてましたよ、おじいさん。今日も元気そうで良かった。おじいさんはそこでいつもラジオ体操をすると、ベンチの座面を持ってきたタオルでふき清める。彼はこれを毎日の習慣にしているようだ。しばらくすると、登下校や通勤で人が増え始めると、しばらくベンチに座っていたおじいさんは、もう少し先の交差点まで歩いていく。そこで黄色い旗を広げて、登校していく子供たちに挨拶しながら、交差点での安全を見守る。


「ミケ猫おじさん!おはようございます!」


 いつも一際声の元気な女の子が、おじいさんに挨拶した。ミケ猫おじさんと呼ばれているのは、首から提げているネームプレートに、三毛猫のシールを貼っているからだ。小学生達はみんな彼をそう呼ぶ。女の子はリボンのついた小さな包みを、おじさんに渡した。


「これ、おじさんに。いつもありがとう!」


「おお、ありがとうね、気をつけて行くんだよ」


「はーい!」


 女の子は赤いランドセルの肩紐を持って、ぴょんぴょん飛び跳ねると、一緒に登校していた友達と並んで行ってしまった。人の途切れたところでおじさんはポケットに1度しまった包みを取り出して、嬉しそうに微笑んだ。


 さて、あなた、どこからそれを見てるの?と思われると思うので、ここで一度自己紹介を。


 えへん。私、バス停のベンチでございます。はい。え?わかってた?鋭い!


 毎日色んな人がここへやってきて、バスに乗って色んな所へ行くのを、このバス停に設置された当初から長年見守ってきて、それはとても素敵な事で、さっきの女の子のように通りかかるだけの子がいれば、三毛猫おじいさんのように、ここを休憩場所にする人もいる。疲れた人がバスがやってくるまで一休みし、バスでやってくる人を待つ人が腰掛ける。


 そして、そろそろ通学や通勤の為にバスに乗る人が増えてくる時間。一日でいちばんにぎやかな時間がやってきた。


「なこー!おはよう!」

「あいら、おはよう!」


 いつもこのベンチで待ち合わせしてる女の子達は、別々の学校の制服を着ている。去年まではここの前で自転車で待ち合わせて中学へ通っていた子達だ。


「これ、約束のチョコ」

「うわぁ!ありがとう!じゃあ、私からも」


 二人は手作りのチョコを交換して、今年の作品は…と話を始めた。とても楽しそう。甘い優しい香りがして、2人の笑顔が可愛くて。本命、ちゃんと渡せたか明日報告会だよ、と二人は指切りした。そしてバスがやってくると、片方の子が、ほかの乗客に交じってバスに乗り込んだ。窓越しに手を振って別れると、残された女の子は1人になった。ふと笑顔が切なくため息に変わった。


「はぁー、今渡したっつーの」


 などと小さな独り言。え?それって、そういうこと?そうなんだよね?最近は自由なんだね、恋愛も。


 やがてほかの乗客が乗り場に並び始めて、女の子も学校へと行ってしまった。通勤通学の時間が終わると、しばらく静かになり、今度は近くのスーパーへ買い物に来る小さな子を連れたお母さんやお父さん。病院へ行くためにやってくるお年寄り。色んな人を迎えて見送る。

 お昼ごろ、バスから降り立った大学生くらいの男の子が、ベンチに座った。向こう側のバス停に反対からのバスが来て、そこから降りたスーツの男の人を見て、手をサッと降った。

「待ちましたか?」

「ううん、時間通り」

 敬語を使うのはビジネスマン風の男性。背が高く、紺色の質の良さそうなスーツが、良く似合う。涼しい目元や笑うと端っこに覗く白い歯。自分が見る限り女の人がほっとかないよな、と言うほどハンサムだと思う。黒いライダースジャケットの若い男の子は、立ち上がると、サッと男性に何かを渡した。シックなリボンのかかった小さな箱。


「優さん」


「……いつも世話になってるから、変な意味じゃねーよ」


 つっけんどんな言葉と、尖らせた口元は、きっと照れくさいのだろう。


「ありがとうございます。…嬉しいですよ」

 スーツの男性の穏やかな微笑みに、若い男は目の下をほんのり赤くして、プイッと顔を背けた。


「行こうぜ」


 二人はその先のショッピングセンターにでも行くのだろうか。並んでどこかへと歩いていく。その後ろ姿が妙に絵になる。


 うーん、あの人たちも、最近の自由な形の恋愛関係なんでしょうか。でも若い人の方が立場が上のような、良く分からない感じですね。まあ、知った所で何か変わるわけじゃないけど。…まあ、好奇心です。


 夕方までそんな感じの繰り返しで、4時を過ぎると今度は下校してくる小中学生がこの前を通る。

 バレンタインの日の放課後は、小学生くらいの女の子達は、みんなで集まって、男の子の家にチョコを渡しに行く、というのを毎年よく見る。ここも待ち合わせ場所にされる事がよくある。


 チョコやお菓子の甘い香り。女の子たちの照れを含んだ嬉しそうな笑い声。


 近くの高校から帰る子達がバス停に並び始めると、手に色んな紙袋を持っていたりする。学校で沢山やり取りしたんだろうな。


「相変わらずですね。今年は2袋?」


 しらっとした声で隣の男の子に声をかけたのは、綺麗な栗色の髪をふたつに結んで、アンダーフレームの眼鏡をかけた背の高い女の子。


「まあな、みんなくれるんだもん」

「こんな無愛想なのにね」

「あ、お前からまだ貰ってねーぞ?」

「まだ欲しいんですか?こんなに貰ってるのに?欲張りですね」


 女の子は軽く目を見開き、呆れた声で言った。


「別に…」


 言い淀んだ男の子はそれっきり何も言わなくなった。


 ははーん、私、ビビッときましたよ。この男の子、この眼鏡の女の子が好きなんじゃないかな?冷たくあしらわれてなんだか元気がない。

 そうだよね、沢山色んな人からもらっても、好きな人から貰えなかったら悲しいよね。


「…お菓子は、もう要らないでしょ?あなた甘いの苦手なんですから」


 女の子は、男の子にそう言って何かを差し出した。長細い包み。


「なにこれ?開けていい?」


 男の子は、その女の子に貰えるもんならなんでも嬉しいのだろう、思わず緩んだ嬉しそうな顔で言った。


「どうぞ」


 女の子は少し笑って言った。


「なんじゃこりゃ!」


 男の子が袋からだしたのは、歯磨きセットだった。ちゃんとしたブランドのロゴが入ったカッコイイやつ。


「来年も遠征に使うでしょ?チョコ食べたらちゃんと歯も磨いてくださいね。……健康管理の指導もマネージャーの務めですから」


「……穂乃果」


「なんですか?」


「サンキュ」


 お互い、つかの間仏頂面で見つめ合うと、同時に吹き出した。

 二人はやってきたバスに、笑いながら乗り込んで行った。


 ああ、なーんだ、女の子もあの子が好きなんじゃないの。ご馳走様。


 やがて日が暮れて、暗くなり始めた頃、会社帰りの人達がパラパラと降りたり乗ったりしていく。すると、小さな女の子を連れた小学生の女の子が、2人でベンチにすわった。


「寒いねえ」


小さな子が白い息を吐いた。


「ユナ、カイロ貸してあげる。持っておきなよ」


「うん!ぬくい!」


 お姉ちゃんなのかな?小さな女の子は4歳くらい?毛糸の帽子を直してあげたり肩を抱いて温めてあげたり、甲斐甲斐しく世話をする姿が微笑ましい。誰かを待ってるのかな?しばらくして通りの向こうからやって来たバスを見て、姉妹はおしゃべりをやめてそのバスをじっと見た。


「おとーさん、いた!」


 妹の方が甲高い声を上げた。お姉ちゃんは、ベンチから立ち上がった。

 やがてバスから大きなトランクを持った男の人が降りてきた。旅行に行ってたのかな?


「お父さん!」


 二人は駆け寄って、父親にしがみついた。


「おお、ただいま!いい子にしてたか?」


 出張?どこか遠いところでお勤めだったのだろうか。どうも久々に会ったらしき親子は、とても幸せそうだった。


「パパ、抱っこ!」


 小さな女の子は言った。父親は口元をほころばせて荷物から手を離した。だけど、お姉ちゃんが父親にしがみついたまま離れない。よく見るとお姉ちゃんは泣いていた。


「ユナ、ちょっと順番な、待っててくれるか?」


 父親が言うと小さな妹はうなづいた。

 父親は、しゃがんでお姉ちゃんの顔をのぞき込むと、なんとも言えない笑顔を浮かべた。悲しいような切ないような。


「よく、いい子にして、寂しいの我慢してくれてたな。ユナの面倒もよく見てくれてるっておばあちゃん言ってたよ。ありがとうな、サナ」


 お父さんは、頷いて、ぐずっと鼻を啜りあげたお姉ちゃんの頭をそっと撫でると、脇の下と膝の裏に手を入れて、抱き上げた。


「きゃあ!」


「ははは!サナは大きくなったから、こうしないと抱っこ出来ないな!」


 父親はサナを抱き上げたままそこでグルンと回って見せた。サナは父の首に抱きつきながら、


「やだ!お父さんたら!」


 と泣き笑いしてる。


「お姉ちゃんいいな!ユナも!」


 お姉ちゃんは、恥ずかしそうに顔を赤くしながらも嬉しそうだった。やがて、父親はサナを下ろすと、ちゃんと順番を待っていたユナを抱き上げて、ぎゅっと抱きしめ、頬を合わせた。ユナも父親の首にしがみついて嬉しそうに笑う。


「お父さん、これ、あげるよ!」

 ユナは、手に持っていた小さな包みを父に渡した。


「ああ、今日バレンタインか」

「うん、私とユナで作ったの。…お母さんの代わりに」


 サナの語尾に、ほんの少し寂しそうな色が混じった。ああ、この子達には母親が居ないのか。


「二人ともありがとうな。嬉しいよ」


 ユナを抱っこしたまま、サナを片手でもう一度胸に抱き寄せた父親は、そっとユナを下ろした。両側に娘、ユナと手を繋ぎカートを押す。そのカートを持つ手にサナの手が重なった。父親は気を取り直すように明るい声で言った。


「今回は10日は居るからな、いっぱい遊ぼうな」


「やったぁ!」


 すっかり暮れた道の街灯の下を、三人は話しながら並んで、祖母の待つ家へ帰って行く。


 はあ。今日は素敵な出来事、沢山あったなぁ。ところで、さっきから気になってたんだけど、ベンチの端っこに、なんか付いてるの。ここが映るミラーがあるんだけど、よく見てみると、なにかのリボンがシールで貼ってある。白とブルーのストライプのリボン。素敵じゃないの。誰かが張りつけて忘れてるだけだとは思うけど。

 思わず、バレンタインの気分を私も味わうことになって、ほっこりとした。



「あ、雪降ってきた」

 暗くなった時間、人通りの少なくなったバス停の前を通りかかったカップル。女性の方が、手のひらを空に向けて言った。見ると、彼女の方がどうも歳上らしい。


「さみぃはずだよ」


 そう言って、彼女の手を取った歳下の彼氏は、自分のコートのポケットに繋いだままの手を突っ込んだ。


「帰ったらケーキ食べよ」


「そんなのあるの?」


「ガトーショコラ焼いてあるから……あなた、甘いの苦手でしょ?」


 二人の影が遠ざかって行った。




 こちらもご馳走様ですね。ラブラブでおなかいっぱいですよ、ほんと。


 あ、皆さんも、どうか素敵なバレンタインを!







 2022.02.01 Valentine!

 by kanoko(伊崎夕風)






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