第二話  名家の若さま、三虎。

 若いおのこは、石上部君三虎いそのかみべのきみのみとらといった。 


(ああ、どうりで……。上野国かみつけのくに碓氷うすいのこほりを治める、名家だ。)


 さきほど一番初めに抜けた、人好きのする笑顔の男、荒弓あらゆみと一緒の机の倚子に座る。

 莫津左売なづさめ浄酒きよさけを、三虎の土師器はじきつきに注ぐ。


(ああ夕餉ゆうげ……。)


 さっきから、口のなかが唾の洪水だ。


(でも、がっついたら、はしたないと思われるわよね……。)


 広間の中央では、選ばれなかった六人の遊行女うかれめが集まり、いっせいに唄いだした。





 かれ かれや 遊行女うかれめ


 あそべ あそべや 雲罍酒うんらいしゅ


 素梅開素靨そばいかいそえふ     嬌鶯弄嬌聲けいあうほうけいせい


 れにむかいて 懐抱くあいほうを、  や、


 ひらけ ひらけや 懐抱くあいほうを、  や、


 浮かれ 浮かれや 浮雲ふうんたのしび


 手をとり 遊べや 遊浮島うかれうきしま……。




(浮かれましょう、遊行女うかれめと。


 遊びましょう、

 雲雷うんらいをかたどった酒樽さかだるの酒を干して。


 梅はえくぼを開くように可愛らしく咲き、


 美しいうぐいすはあでやかな声をもてあそびさえずる。


 この風景にたいして、その胸のうちを、

 開きなさい、その胸のうちを。


 浮かれましょう、雲にのるような楽しみよ。


 手をとって遊びましょう、

 この遊浮島うかれうきしまで。)





 唄い終えると、おのこ達は拍手をし、荒弓が六人の遊行女を自分の机に呼び、あらかじめ注文していた六本の白酒しろさけ(ノンアルコールの甘酒)を一人ひとりにとらせた。

 遊行女たちはお礼を言い、広間から去っていく。


(今日はあの中に混じって、広間を去るはめにならなくて、本当に良かった……。)


 ぞっと背筋が冷えるのを感じながら、莫津左売なづさめ遊行女うかれめたちの遠ざかる背中を見た。


 広場の中央では、二人のおみな琵琶びわを手に倚子に腰掛け、ゆっくりとしたりつ(リズム)で、琵琶びわを奏ではじめる。


 しかし、広間には男女の話し声のほうが満ちる。

 たくさんの食べ物の匂いと、土師器はじきが机と触れ合うコツッとした音、さざめく笑い声で、ここは賑やかで華やかな場所に見える……。

 三虎と荒弓は話し込みはじめる。


「ねえ、奈良にも良いおみなが沢山いるそうですよ。なんで今日? いて。」


 荒弓は隣に座った馴染みの遊行女うかれめ獲売えるめももをつねられている。




    *   *   *




「それ訊くかい。」


 三虎はゆっくり浄酒きよさけめる。

 舌を刺す心地よい辛さと、どろりとした米の甘さをゆっくり味わいながら、思う。


 ───大川おおかわさまがおみなとさ(共寝)したから。


 ───そして深く傷ついて、地面につっぷして獣のように泣いたから。


 ───大川さまのことがわからない。


 それは三虎にとって大問題だった。


(だからオレもさ寝してみる。)

 

「やっぱり上野国かみつけのくにが好きだから。

 おみなは上野国の女が良い。」


 それだけ荒弓に言い、ふと自分の横の薄撫子うすなでしこの衣の女───先程、莫津左売なづさめと名乗った───を見た。

 あまり箸が進んでないようだった。


「食べないのか?」

「はっ、いえ、あの……。」


 莫津左売なづさめはあたふたする。

 荒弓が、めっ、という顔をして、


「三虎ぁ──。遊行女うかれめだからって、ほっといちゃいけません。

 とくに今日初めての相手じゃないですか。優しくしてあげましょうよ。

 オレみたいな馴染みになれば、遠慮なんてないですけどね。痛。」


 またつねられて、


「そこが良いんじゃないかぁ──。オレはおまえだけだよ……。」


 とか荒弓は隣のおみなに言っている。


(ふむ。面倒だな。)


「すまない、うとくて……。もっとお食べ。何が好き? 今日のおすすめは?」


 なるべく優しい声音を出すように努めてみるが、顔の表情はあまり、いやほとんど動かない。


(限界。オレにはこれ以上無理。)




    *   *   *




 三虎はほとんど表情をかえず言うので、まだちょっと怖い。

 でも、良い人のようだ……。

 そう思いつつ、莫津左売はあらかじめ決まってる言葉を口にした。


「山菜ときのこの雉汁きじじるあぶきじがあります。川魚かわなひる(にんにく)と塩で焼いたものも、とてもおすすめです。」

「じゃあそれ全部。足りるよな? 荒弓?」

「ばっちりです。遊浮島うかれうきしまを儲けさせてるくらいですよ。

 もっとじゃんじゃん頼みましょう。」

「頼む。」


 広間に満ちる人の喋り声の合間、途切れ途切れに聞こえる琵琶の音を聞きつつ、久しぶりに腹が満足するまで食事がとれ、心底ホッとした。

 あまり莫津左売は二人の会話に入ることができなかったが、三虎が気を悪くしてる様子はなかったので、またホッとした。

 三虎は明後日には奈良に発つようで、引き連れてきたおのこたちが次々と三虎のところにきて、浄酒きよさけを注いだ。

 皆、目の下にがある。


「三虎、大人になれよ……。」

「三虎、うっかり失敗するんじゃないぞ。」

「三虎、おまえ顔怖いから、怖がらせないようにな。」

「おまえら、うるさい! なら呑ませすぎんな!」


 三虎が怒鳴り、皆が笑う。



   *   *   *



 三虎は気がついた。

 夕餉の土師器の皿がからになる頃。

 各々おのおの、思い思いに倚子を立ち、どこかへ二人で消えて行く。

 隣に座る莫津左売が、優しげな微笑で三虎を見て、


「ご案内します。」


 と頷いた。


「……。」


 三虎も頷いたが、わかった、と言おうとした言葉がなぜか喉でからまって、上手く出てこなかった。

 かわりに、ゴクリ、と唾を呑んでしまう。


(……くそ。)


 なぜか恥ずかしく、やや乱暴に倚子を立つ。

 荒弓が満面の笑みでウンウンと頷く。


「三虎───っ!」

「頑張れよ───っ!」


 大勢が三虎に野太い声をかける。

 ひときわ大きい声を出し、離れた机でブンブン手を振ったのは、卯団うのだん少志しょうし(副リーダー)、薩人さつひとだ。


(余計なことだ!)


 と睨みつけてやったが、怒鳴りつける気にはならなくて、ムスッとした顔で、莫津左売のあとについて広間を出る。



   




 莫津左売なづさめに案内されながら、沢山の部屋が並ぶ建物へ鼻高沓はなたかくつを踏み入れる。


 時々、おみながすすり泣くような声が聞こえてくる。

 あれは蛙聲あせい嬌声きょうせい)だろうか?

 それとも、選ばれなかった女の哀泣あいきゅうだろうか……?


 簀子すのこ(廊下)を随分歩き、莫津左売は一つの部屋の前で立ち止まり、引き戸をカラリと開けた。


「ここです。」


 そして引き戸の下に置いてある木箱から、五つの鈴の連なりを取り出し、引き戸の取手とってにくくりつけた。


「どうぞ。」


 莫津左売は三虎を室内へいざない、シャララ、と鈴を鳴らしながら引き戸を閉めた。


(これがすずの音か……。)


 と、三虎は思った。

 部屋の中央には、床に直接敷かれた薄い布団があり、部屋の隅の二階棚にかいだな(背の低い棚)の上には土師器はじきの花瓶に、さざんくわが活けられている。

 それ以外、物のない部屋。

 それが三虎の印象だった。


 部屋に二人きりになった。


「うぅ、くそ、呑ませすぎなんだよ……。昨日はほとんど寝てないんだぞ、クソ……。」


 三虎は頭をガンガン叩き、一人で布団にごろりと横になった。

 


   *   *   *



 莫津左売はくすりと笑い、柔らかく三虎の隣に寝そべる。


「ではなぜ、今日なんです?」

「今日でないといけない、オレにとっては……。」


 莫津左売はそっと三虎の胸に触れようとしたが、その手をパッと三虎がとった。

 ぐいと手を莫津左売のほうに押し戻し、すっと立ち上がった。

 厳しく、莫津左売を見下ろす。


「まず言っておくことがある。

 オレがここでする話は一切口外するな。オレは自分の噂話をされるのがキライだ。

 オレは明後日奈良に発つが、部下は沢山いる。もしおまえの口が軽いのなら……。」


 三虎が片膝をつき、


「命であがなうことになる。」


 顔を近づけて真顔で言われた。


(目が怖い。本気だ。)


 莫津左売は口をぽかんと開け、ガタガタ震え始めた。


「それが守れぬようなら、今すぐ立ち去れ。」


 莫津左売は手を胸の前で握りしめた。


(怖い。 

 でも逃げたくない。

 他の遊行女うかれめは皆、羨ましい、あんた良い目見たわね、と目で語っていた。

 こんなに素敵な若者なんですもの……。)


「あたし、口は堅いです。一切、口外しません。」


 莫津左売は、ごくんと唾を呑み込みながら言った。


「良し。」


 三虎の顔から険しさがとれた。


「では、どうすれば良いか、いろいろと教えてくれ。

 まあもう、薄々分かってるだろうけど、……初めてなんで。お願い……。」


 三虎が頬を赤くして、口元が笑みの形になった。

 莫津左売は微笑んだ。

 作り笑いではなく、ちゃんと心から笑えた。


「もちろんですわ。」




   *   *  *





 ───どうしてあたしを選んでくれたの?


 ───声が鈴みたいに綺麗だったから。


 ───声……。


 ───声は大事だよ。いつも野郎の野太い声ばっか聞いてるから。


 ───ふふ……。


 ───これで良い?


 ───いいわ。




   *   *   *




 果てた後、三虎は莫津左売にむかって左手を差し出してきた。


「……噛む?」

「え……? 噛みません。」


 莫津左売は戸惑う。

 

「そう?」


 三虎は手をひっこめた。

 

「怒ったら……、噛むの?」


 犬ではない。莫津左売はくすりと笑いつつ、教えられた作法を思い出す。


「怒ったら、つねります。痛いけど、あとが残らないので。」

「どういう時、噛むの?」


 三虎は無表情で首をかしげるので、質問を投げかけられても、なんだか印象がチグハグだ。

 どれくらい知りたがっているのか、顔からはつかめない。


「そうねぇ……。」


 莫津左売は背の高い三虎に檜皮ひわだ色の衣を着せながら、


「あたしだったら……。まず、素晴らしいさ寝があってから、本当に良い人に、自分の跡を残したい時、かしら……?」


 そう言うと、三虎がじっと莫津左売の顔を見下ろした。


「そう。わかった。ありがとう。

 いつ上野国かみつけのくにに戻るかわからないけど、戻ったら、また来る。

 そして……、時々来るよ、莫津左売。」


 そう言って、目を細めて、破顔した。

 驚くほど優しい、今日会って初めて見た、満面の笑みだった。


(こんなの……、ずるい……。)


 心臓しんのぞうが。

 早鐘を打つ。


 とっとっとっ……。


 早鐘を止めることができない。

 莫津左売は三虎の右手をとり、自分の左胸に押しつけた。


「きっと……。きっとですよ。」


(あたしは口下手だ。上手に言えない。 

 でも、あたしの胸が早鐘を打ってること、分かって……。)


「し……、信じて、待ってますからね……。」


 三虎はちょっと目を見開いて、うん、と頷いた。

 左手で自分の懐を探り、小さな若草色の麻袋を取り出した。


「あげる。」


 莫津左売は三虎の右手を開放し、麻袋を受け取った。


「なあに?」


 中からころんと出てきたのは、小指の爪ほどの金塊だった。


(!)


 驚きすぎて声が出ない。

 この一粒で、今宵九人分の支払いを二回はできる。

 この一粒を浮刀自うきとじに渡せば、一月以上、いや、もっと長く、食事の心配をしなくてすむ。


「うっ……。」


 莫津左売は泣いた。

 命を助けられた。生きていける。


「ええと……。」


 三虎はたじろいでいる。


「ありがとう……。」


 莫津左売は熱くお礼を言いながら三虎の胸にしなだれかかった。


「おイヤじゃなければ、もう一度さ寝して……。」


 自分からこんな事を言うのは初めてだった。

 涙を流しながら、三虎の唇を求める。





   *   *   *




 目を潤ませ、うっとりした顔の莫津左売に見送られて、三虎は遊浮島うかれうきしまをあとにした。

 八人のおのこたちが朝日が昇らない薄闇のなか、


「ワ──ホ──イ!」

「やりましたねっ。」

「あれは恋した顔ですよ!」


 と盛り上がる。


「やめろ、うるさいっ!」


 と三虎が怒鳴り、拳を振り回す。その左手の小指には、おみなの噛み跡があった。

 帰り道、歓談をする仲間をよそに、無言だった三虎が、自分の左手をしげしげと見つめながら、


おみなというものは……。」


 とつぶやいた。


「なんです?」


 と荒弓。


「……いや、なんでもない。荒弓、ありがとうな。、良く効いた。」

「そうでしょうとも。」


 上機嫌で荒弓が答える。








 …………おみなというものは。

 うるわしく。

 たしかに心をかき乱す。

 少し、わかった気がする。


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