第35話

 体を起こし、徹の肩を揺らす。無事を確かめるのはもちろん、公卿の名を聞かなければならない。本名でなくてもいい、公卿がそれを自分と認識している名前が必要だ。深く沈み込んだ本人の意識を、目覚めさせなければならない。

「光よ、境井徹の」

「起こさないでくれ」

 徹の肩を揺らす私の手を、理事長が掴む。頼む、と乞う表情は悲痛なものだった。

「私の息子はもう死んだ、もういないんだ。このまま死なせればいい、目覚めなくていいんだ」

 震える声で願う理事長に、頭を横に振る。

「だめです。徹さんはおそらく何らかの方法で神を呼び、憑かれました。徹さんが彼をなんと呼んでいたのかが分からないと、封じられないんです。封じなければ、更に人が死にます」

「徹が死ねば終わるんだろう、それなら徹を殺してくれ」

「理事長!」

 窘めた私に、理事長は俯く。重ねていた手を離し、傍らに置いていたハナの頭を再び抱いた。

「もう……もう、疲れたんだよ、私は」

「お気持ちは、お察しします。それでも」

 食い下がる私の向こうでは、公卿との攻防を繰り広げている真方の姿が見える。防げてはいるが、決して優位に立っているわけではない。法衣はずたぼろだし、息も荒い。真方は、私達を守りながら戦わなければならないのだ。

「このままでは、私達を守って真方が死にます!」

 訴えた声に、理事長はまたハナの頭を抱き締めて黙る。

「光よ、境井徹の意識を癒やし、目覚めさせよ」

 同意を得ぬまま掛けた声に、徹を薄い光が包む。

「目を覚まして。あなたにしか、救えない命があるんです」

 語り掛けながら、頭を撫でる。ふ、と何かが満ちたのが分かった。

「徹さん、分かりますか」

 薄く開いた目に尋ねると、徹はぼんやりと私を見上げる。誰、と小さく尋ねられたが、丁寧な自己紹介をしている時間はない。

「お父さんと同じ会社で働いている、稲羽といいます。徹さん、何かの儀式をして神を呼び出しましたね」

「……同じ夢を、何回も見て。そのやり方で」

 徹はゆっくりと体を起こし、向こうで戦う真方と公卿にぎょっとした。

「向こうの平安貴族みたいなのが、あなたが呼び出した神です。手前の鬼は私の夫です」

 怯えて後ずさる徹の腕を掴むと、噛まれた痕が痛む。

「あなたは、あの神に憑かれていたんです。ここで封じなければ、更に多くの人が犠牲になります。あの神の名を、教えてください」

「やめろよ、なんなんだよ、知らないよ」

「落ち着いてください。大丈夫です、必ず守りますから。誰を呼んだんですか」

 半泣きでなおも逃れようとする徹を宥め、繰り返す。

「知らない、そんなの。離せよ!」

「徹!」

 短く呼んだ理事長に、徹は気づいて力を弱めた。薄暗がりでも、驚きの表情はよく見えた。

「え……お父、さん?」

 いつから意識を眠らせていたのか、もしかしたら二十年以上ぶりの再会かもしれない。

「お前はいじめられて引きこもって、その相手を殺すためにあれを呼び出して修学旅行のバスを崖下に落とした。クラスの生徒全員を、無残に殺したんだ。覚えてないのか」

「違う、俺じゃない、俺はしてない!」

 私の腕を振り払い、徹は頭を抱えてうずくまる。叶ってしまった願いの衝撃に、自分を放棄してしまったのかもしれない。

「あなたはしていません、したのはあの神です。あなたが呼び出して頼んだ、あの神の名を教えてください、お願いします。これ以上、誰も死なせたくないんです!」

 しかし徹は小さくなったまま、頭を上げようともしない。だめだ、どうしたら。

 確かめた向こうは、真方が押され始めている。露わになった肩からは、血が滴り落ちていた。情けを捨てて犠牲にしろと父は言ったが、そんなことができるわけはない。

「お願いです、徹さん。あの人を助けてください、このままだと死んでしまう」

 半泣きで肩を揺するが、頑なな塊はびくともしなかった。お願い、と繰り返した声が小さく掠れた時、理事長が隣で何かを振り下ろした。頭を殴られた徹は、ぎゃ、と鈍い声を漏らし慌てたように後ずさる。見上げた顔が、引きつっていた。

「だから、言ったじゃないか。殺さなければだめなんだ、こんな奴が、生きてていいはずがない」

「落ち着いてください!」

 再び振り上げられたゲーム機に、慌てて割って入る。だめだ、この人も本当に殺してしまう。

「……オオアザノミコト、オオアザノミコトだ!」

 泣きそうな声で告げられた名前に頷き、振り向いた。

「光よ、オオアザノミコトの力を奪い拘束せよ!」

 唱えた術に、公卿の動きが途端に鈍くなる。私の力では完全に為せないが、名前の効力は絶大だ。真方は、乱れた装束で悔しげに顔を歪める公卿の首を瞬時に跳ね飛ばした。

「封じろ!」

「宿芳山の神よ」

「まあ待て、氷雪山の娘よ」

 落とされた公卿の頭がくるりと回り、突然私に話し掛ける。身構えた私を見て、卑屈な笑みを浮かべた。

「慈悲を乞うても無駄です」

「ならば、こやつも連れていきたいのだがなあ」

 公卿は含んだように笑み、宙を見上げる。空間が揺らいだあと現れたのは、拓磨だった。

「拓磨さん!」

 何かに吊るされたような拓磨は、意識を失っているのか反応がない。あの時つけた道筋が、まだ残っていたのか。

「我を封じるのなら、この首を刎ね落とすぞ」

「それでも、神なの?」

「生憎、我は善なる神とは呼ばれぬものよ」

 公卿は勝てると思っているのだろう。余裕のある声だった。それでも、封じなければ全てが元通りだ。これ以上、居場所を与え続けるわけにはいかない。

 ちらりと確かめた真方は、一瞬の隙を狙っているらしい。

「まずは鬼を退かせよ。目障りだ」

 腹立たしげな声に、迷いが募る。真方を退かせれば勝ち目がない。守りの壁も、全て消えてしまう。

「はようせぬか!」

 ぶらぶらと振り回される拓磨の体に、真方を見た。仕方ない。

「真方さん、退いてください」

 小さく命じた声に、真方は人の姿に戻る。ずたぼろの法衣はあちこちに血が沁みて、頭や顔からも血が滴っていた。

「つくづく、甘い娘よ」

 ふ、と質を変えた空気に視線を向ける。放たれた暗い塊には、見覚えがある。受けたら即死の、呪詛だ。もう、間に合わない。

『玉依』

 初めて聞く柔らかな声に、瞑ったばかりの目を開く。いつの間にか目の前にいた真方も、気づいた様子で顔を上げた。

『この子は大丈夫です、早く封じなさい』

 視線を上げた先で、拓磨の体が光に包まれるのが見えた。

「人間風情が、しゃしゃり出おって」

 憎々しげな公卿の声に脳裏を掠めたものはあったが、今はすべきことがある。

「宿芳山の神よ、その名の下にオオアザノミコトを封じよ!」

 放った言葉に、公卿の姿がぶれる。

「許さぬぞ、稲羽の」

 全てを言い終えないうちに、体も首も砂塵のように崩れて消えた。ぐにゃりと空間が歪んだのは一瞬、気づけば六畳ほどの小さな部屋に立っていた。拓磨は、壁際に置かれたベッドへ寝かされている。振り向いた戸口には、俯きハナの頭を抱く理事長と、相変わらず頭を抱えてうずくまる徹がいた。


 終わった、のか。

「真方さん!」

 がくりと膝を突いた真方を、慌てて支える。

「大丈夫だ、ちょっと力を使いすぎただけだ」

 覆い被さる体を受け止め、抱き締める。良かった、犠牲にはならなかった。目を閉じ、安堵の息を長く吐いてまた開く。

「ありがとう、お母さん」

 宙を見上げて伝えた礼に、穏やかな風が頬を撫でる。元通り、また話はできなくなってしまったのだろう。それでも今は、確かに母の気配を感じられた。まだ神ではないから、できた技か。

「おかげで、誰も犠牲にせずにすんだよ。お父さんにも、お礼を言っておいて」

 父も、力を貸してくれたはずだ。じわりと胸に拡がる温かさに、長い息を吐いた。

「帰りましょうか。拓磨さん、起こします」

「俺が起こすから、お前はそっちをなんとかしろ」

 真方は肩越しに息を吐き、体を起こす。いつもの匂いに、血の臭いが混じりこんでいた。

「さすがにその法衣は繕えませんけど、あとで怪我の手当てはさせてくださいね」

「こんなもん、舐めときゃ治るぞ」

「私が、したいんです」

 小さく告げると、視界の端で口元が笑む。

「まあ、『私の夫』って言ってたしな」

「言、ってません」

 聞こえてたのか。でもあれは別に、そんな意味があったわけではない。婚約者だと長ったらしいから、選んだだけだ。

「とにかく、言ってませんから」

「へいへい」

 真方は適当に返し、錫杖を拾い上げてベッドへ向かう。私は熱い頬を押さえたあと、戸口で沈んだ二人の元へ向かった。こちらは、これからが正念場だろう。

「お二人とも、大丈夫ですか」

「……ああ、君達には、本当に申し訳ないことをしたね」

 理事長は気づいたように、ぼんやりとした視線を私へ向ける。

「理事長、また明日改めて」

「賄賂で百五十万を受け取ったのは、僕だ」

 突然切り出された核心に驚き、ちらりと徹を確かめる。少しも動かない塊を確かめて、ひとまず前に座った。

「何に、使われたんですか」

「徹が殺してしまった子供達と先生、運転手、バスガイドさんの家族に毎年、少しずつだけど匿名でお金を送ってたんだ。一生明かすつもりはなかったけど、死んだ生徒の弟って子が僕だと探し当ててね。いや、多分ほかの人達も分かってたとは思うんだよ。一人だけ生き残った罪悪感だろうと、黙って受け入れてくれてただけでね」

 訥々と話しながら、理事長は膝に抱えたハナの頭を撫でる。さっきまでは生き生きとして見えたが、今は死後と分かる姿だ。いつ死んだのか、もう毛並みはぼさぼさで、死臭が立ち上っている。

「その子が、『徹だけ生き残って申し訳ないと思うなら金を出して欲しい』と言ったんだ。兄が死んで病んだ母親が作った借金が返せないからって。三百万。それを出したら今度は、妹が結婚するのに準備する金がないとか、母親の入院費用がないとか、いろいろとね。いよいよ銀行からも借りられなくなって困ってた時に、林務課へ異動してきた米村くんと再会した。米村くんも、借金で困っててね。あとは、想像のとおりだよ。僕が持ちかけて、米村くんが動いてくれた。バレそうになった時に殺したのは、僕の意志じゃなかったけどね。気づいたら、あれが殺してしまってた」

「部長には、何を頼まれたんですか?」

「ちょうど、次の理事長にして欲しいと頼まれてた。理由は知らないけどかなり切羽詰まっていたようだから、取り引きは難しくなかったよ。了承する代わりに、僕に捜査が向かないように頼んだ。まだ何も償えてないのに、捕まるわけにはいかなかった」

 理事長が罪を語る隣で、徹は相変わらず固く閉じたまま顔を上げようともしない。少し後ろに、真方と拓磨が座ったのが分かった。

「百歩譲って、いじめた二人は当然の報いだったとしよう。でも、ほかの三十人は? 少しくらい、見て見ぬ振りをしたかもしれない。先生も、面倒くさいと思いながら対応していたかもしれない。でもそれは、死ぬほどの罪なのか? 初めて会った運転手やバスガイドは、巻き込まれて殺されても仕方ないような罪を犯したのか? 悪魔に飲まれた我が子をどうにか救いたくて声を掛け続けた妻は、ただ遊んで欲しかっただけのハナは」

 膝を抱えていた徹の手が、ゆっくりと拳を作る。その時は、恨みつらみに飲まれて分からなくなっていたのだろう。叶わなかった私と、叶ってしまった徹。大人にならなくても、罪の重さは分かったはずだ。

「金でしか、償えなかった。ほかに、僕にできることなんて何も」

 震える声で零し洟を啜る理事長の姿に、手嶋が重なる。

「今は、ハナちゃんを眠らせてあげましょう」

 それが、今言える精一杯のことだった。

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