第34話
翌日、片付けの名目で久し振りに公社へ向かう。デスクの上を片付けて退去の偽装を終えたあと、三階を目指した。
新田の部屋をスルーして、まっすぐに理事長室へと向かう。本当は新田とも話がしたいが、察されて止められる未来が見えている。今は、会わない方がいい。
一息つき、突き当たりのドアをノックする。聞こえた返事に、ゆっくりとドアを開けた。理事長は、ああ、と腰を上げる。
「もう大丈夫? ひどい怪我だったと聞いたけど」
「はい。でもおかげさまで、どうにか復活できました。今日は、最後のご挨拶にと」
「ああ、そうか」
苦笑した私に、理事長は視線を落として再び椅子へ腰を落とす。しゅんとした様子に、心が痛んだ。この人が一枚噛んでいるのは間違いない。それでも、だ。
「次は県庁の総務課でお世話になることになりました。まあ、機備課の復活を知事に直談判したらお叱りを受けて、今は謹慎中なんですけど」
「そうか。知事は厳しい方だからね」
誰に聞いても厳しいとしか言われない現状を、知事はどう思っているのだろう。県民にとって「頼りになる知事」「声に答えてくれる知事」なら、身内の評価などどうでもいいのだろうか。
「君と話をするのは楽しかったから、寂しいね」
「私も、寂しいです。それで、図々しいお願いではあるんですが」
ここが、分かれ道だ。切り出した私に、理事長は頷いて笑みを向ける。
「もしよければ一度、ハナちゃんと遊ばせていただけませんか? ずっとお願いしたかったんですけど、厚かましいかなと」
最初はまさか、こんな風に利用することになるとは思っていなかった。ただ純粋に犬好きとして繋がれたと思っていたのに。
「……ああ、いいよ。遊びにおいで、ハナも喜ぶ。明日は土曜だし、昼からでもどうかな」
理事長は少し驚いたあと、まるで何かを悟ったかのように寂しげに笑む。不意に胸が締めつけられるようで、反射的に何かを言いそうになった。
「ありがとうございます、大丈夫です」
噴き出しそうなものを飲み込んで、装う言葉に変える。うちの場所はね、と携帯を取り出した理事長に、唇を噛んだ。
「ひとまず、うまくはいきました。気分は良くないですが」
「仕方ねえだろ、押し入るわけにはいかねえんだし」
聞こえた返答に、ですよね、と小さく答えて携帯を握り直す。
真方と立てた計画は、それほど難しいものではない。ハナを口実に理事長の家へ行き、おそらくは息子に憑いているであろう公卿を確認し、真方を召喚して対決させ、封じ込める。
ただそれほど簡単に、特に対決と封印がすんなりいくとは思えない。私に、真方を守りきれるだろうか。
「で、今日は泊まりに来ねえのか」
「昨日のは不可抗力です。進んで泊まったように言わないでください。今の目標は機備課の復活なので、達成するまでは集中しないと」
昨日は、知らないうちに眠っていた。早朝に目覚めたものの副住職の前ですっぴんに戻るわけにもいかず、結局今朝はあの顔のまま朝食をいただいて帰ってしまった。住職の、全てを察したような笑みが忘れられない。目が覚めたら手を繋いでいたが、それ以上のことは多分、多分していない。
「受験生かよ」
「この件と美容の両立は無理なので」
確固たる目標がある今は、そちらに集中したい。五日のうちになんとしても片付けなければならない以上、自分のことに構っている時間がない。そんな手を抜いた自分を、副住職に見せるわけにはいかないのだ。
「昨日は時間が足りなくて、自力だったんです。今度会う時はちゃんとプロの力を借りて出力百二十パーセントでお会いしたいので」
「百を超えるのか」
「だってちょっとでもきれいな方が、いいじゃないですか」
強く主張するつもりが、気づいて尻すぼみになる。追いついた照れに頬を押さえた。顔が熱い。
「すみません、明日はよろしくお願いします」
少し早口で継いだあと、答えを待たず通話を終える。長い息を吐き、顔をさすり上げた。
酒を飲まないと素直になれないなんて、ぽんこつすぎるのではないだろうか。見た目はお金を出せば整えられるが、中身はどうすればいいのだろう。こんなことを繰り返していたら、真方だってそのうち。
「あーだめだ、今はこんなことで凹んでる場合じゃない」
予想よりダメージを受けた胸を押さえ、溜め息をつく。メッセージの着信を告げる携帯に視線を落とすと、真方からだった。
『昨日も十分きれいだったぞ』
こんなことが、言える人だったのか。
携帯を置き、顔を覆う。上がりきった熱が落ち着くまで、深呼吸を繰り返す。返答に迷ったあと、結局無難な礼を返して温もりきった携帯を置いた。
土曜の午後、予定どおり理事長の家を目指す。
そこは、住宅地の一角にあった。入り組んだところだから迷うかも、と言われたが、すぐに分かった。見た目はどこにでもあるモルタル壁の和風住宅から、おぞましく暗い気が立ち上っていた。
「お客さんが来るなんて、何年ぶりだろう。ここ数年は滅多になくてね」
理事長は私を招き入れたあと、一階の廊下を奥へと進む。それはそうだろう、一言で言えば、ゴミ屋敷だ。積まれたダンボールや古新聞の束で、廊下も狭まっている。こんなところで、犬が飼えるのか。
埃っぽさにそれとなく口元を押さえ、ちょくちょく床へ貼りつくスリッパで先へ進む。
「今は、どなたが住んでらっしゃるんですか?」
「息子と私だけだよ。妻は十五年ほど前に死んでね」
「それは、息子さんも寂しいですね。私みたいに最初からいなければ……って、すみません。なんのフォローにもなってないですね」
「気にしないで。君は優しいね」
下手なフォローにも眉をひそめることなく受け止めて、階段へ足を掛けた。二階、なのか。
「ハナちゃんは、二階で飼ってらっしゃるんですか」
「うん、息子と一緒にいるよ」
階段に積まれた年季ものの雑誌を眺めたあと、視線を上へやる。昼間なのに暗い階段は、電気も点かないようだった。それだけではない。あの暗い気が、充満している。公卿の気配も、確かにあった。あれは意識を飛ばしただけだったのだろう。本体は、こんなにもおぞましいものだったのか。少しずつ精神力を搾り取られていくようで、気分が悪い。入念に掛けた守りの術は、玄関に入ったところで既に消されていた。
「息子さんは、おいくつなんですか」
「三十九だよ。でも、引きこもっててね」
噂だと前置きをして、真方もそんなことを言っていた。
「息子は帰国子女でね。そのせいで中学の頃いじめに遭って、それからずっと。妻は、息子に殺されたんだよ」
階段を上がりきった理事長が、気になることを言う。それは当たり前だが、初耳だ。
「妻だけじゃなく、いじめた子供二人と、いじめていない子供三十人もね。全く関係のない人達も、ハナも」
ぞわりと冷たいものが肌を這い上がる。こめかみに汗が滲んだ。それでも、ここで逃げるわけにはいかない。
そばへ辿り着いた私を、理事長はドアノブを握りながら見る。
「君に、お願いがあるんだ」
いつもの笑みや人懐こさの消えた、能面のような表情だった。
「息子を、殺して欲しい」
低く漏らされた衝撃の台詞に固まる私を待たず、ドアが開かれる。それほど広くないはずなのに、空間が歪んでいるのか向こうまで距離がある。明らかに、この世ではなかった。部屋の奥には、白く光るテレビ画面が見える。その前に、恐らく「息子だった」と思われる、何かの塊がいた。まるで泥の山のような。
「息子の、
「やはり、来たのだな」
突然、泥の塊がこちらを向く。ひっ、と声にならない悲鳴を上げて思わず後ずさった。どろりと盛り上がった山の頂点にはめ込まれた人の顔が、にやりと笑う。その下には、犬の頭。あれが、ハナか。
「聞かぬ娘だが、まあよい。覚悟はしてきたのだろうからな」
ずるりと滑り落ちてようやく、椅子に座っていたことに気づいた。飲み込まれていた椅子は、朽ちたようになっている。
「理事長、危険なので出ていてください。ここは」
安全を確保しようと振り向いた瞬間、理事長の手が私の首を締めた。
「言っただろう。純然たる神はお前を殺せぬが、人の子は殺せると。生涯檻に繋いでおけば良いと思っていたが、やはり目障りなのでなあ」
背後から聞こえる声は余裕の笑いを刻む。容赦なく締め上げる理事長は、温度のない目をしていた。
「吾が鬼よ、参じよ」
掠れた声で小さく漏らした命に、空気が揺らぐ。一瞬で現れた鬼の真方は理事長を跳ね飛ばし、私を救った。
「大丈夫か」
尋ねる声に頷き、咳き込んだ喉をさする。首を絞められるのもこれで三度目だが、回数が増えれば楽になるものでもない。手を借りて、壁際で伸びている理事長のそばに腰を下ろした。
「ほう、血を目覚めさせる道を選んだか。少しは策を練ってきたらしい」
「汚え神もいたもんだな。ヘドロの塊じゃねえか」
「それ、息子さん、なんです。傷つけないで、ください」
咳の合間に伝えた私を、真方は見下ろす。ぎょろりと剥いた目の輝きには、まだ慣れない。人としての真方の片鱗は、法衣と錫杖にしか残っていなかった。
「無理だろ」
「父親は死を望んでおる。今更人の世には戻れぬのだ、その方が良かろう」
「だめです。人は、殺させません」
たとえこの世で裁けない殺し方だとしても、許すわけにはいかない。
「光よ、境井徹の体から、神を引き離せ。離れるまで、永続せよ」
「小賢しい真似を」
泥の体を軽く揺らし、公卿は不快そうに返す。一度では弾かれて終わるが、離れるまで続くのならそれなりに効果はあるはずだ。真方は何かに気づいた様子で、そうか、と錫杖を揺らす。響き始めた読経の声に、部屋と泥が大きく歪んだ。
「やめよ!」
声とともに投げつけられた泥の塊を、真方の錫杖が弾き返す。床に落ちた泥は、いやな臭いを放ちながら蒸発するように消えた。
おそらく、真方も同じ目的で経を上げているのだろう。錫杖を揺らす音と先で床を打つ音が、公卿を追い詰めているのが分かる。頻度と勢いを上げて繰り返し投げつけられる泥が、その証拠だろう。公卿が、足掻いている。
神性に目覚めたばかりの私と僧侶として修行を続ける真方の法力では、真方の方が何倍も上だ。それなら私が使いこなせない霊力であれこれするより、効果的な方法がある。私には、封じる術を結ぶ霊力さえ残っていればいい。
「吾が鬼に、吾が霊力を」
唱える傍らで、何かが理事長に飛びかかる。咄嗟に伸ばした腕に噛みついたのは、ハナだった。頭だけの、ハナだ。
「稲羽!」
「大丈夫です、真方さんはそっちを引き剥がして!」
唸るハナの鼻先を握り、食い込む牙に息を吐く。ベージュのコートに血が染み出すのが分かった。愛くるしいあの画像とは比較にならない荒れた姿に、唇を噛む。
「光よ、ハナの魂を光へ返せ」
呟くように告げるが、ハナは唸るだけで離れようとしない。動物には、効かないのか。一層食い込む牙に、思わず呻いた。
「ハナ」
弱々しく聞こえた声に振り向くと、理事長が目覚めていた。
「だめだ、やめなさい。こっちにおいで」
体を起こしながら差し出した手に、ハナの表情が大人しくなる。すぐに私の腕を解放して、甘えるように理事長に向かった。
「よし、いい子だ。ハナ」
理事長がハナの頭を抱くと、ハナは目を閉じる。すう、と抜けていく何かに、ようやく解き放たれたのが分かった。
「すまない、どうか息子も」
「だめです。息子さんは、この世で償わなければなりません。たとえ法で裁けないとしても、命の続く限り償わなければ。それが人の世の道理です」
ハナの頭を抱き締めて弱々しく乞う理事長に、諭すように説く。しかし理事長はそれきり俯き、黙ってしまった。今は、まだ無理か。向き直った先では、公卿が引き剥がされつつあるのか、泥が人の形をとり始めていた。
「吾が鬼に、吾が霊力を授ける」
真方の背へかざした手から、何かがぼこりと抜けて真方へ移るのが分かった。
「光よ、吾に仇なす神を顕現せしめよ!」
重ねた術に、公卿の呻きが響き渡る。目の前から消えた真方が次には公卿のそばにいて、泥人形から立ち上るモヤを思い切り引き剥がすのが見えた。
「稲羽!」
真方は引き剥がした泥人形を、こちらへ投げる。放たれた時にはまだ不確かだった姿は、目の前に投げ出された時には完全な人型に戻っていた。しかし三十九とは思えない、それこそ中学生のままの姿だった。半袖Tシャツとハーフパンツから覗く手脚は、少年のように細い。
『鬼ごときが、調子に乗りおって』
猛る声に部屋は歪み、大きく軋む。姿を現した公卿は、予想どおり直衣姿で手には扇があった。空間はどす黒く膨らみ、最早どこに繋がっているのかすら分からない。
公卿は憎々しげにこちらを見やり、扇の先を軽く振る。途端、無数の刃が降り注ぐようにこちらを目指した。慌てて徹へ覆い被さった上で、雨音のように短く弾く音が続く。
「こっちは任せて、お前はそっちをなんとかしろ!」
「はい!」
目の前には、包むように張られた膜がある。予想どおり、私の霊力を使った真方の術は神に抗えるレベルになっていた。
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