第31話

 私が目を覚ましたのは十二月十日、長い眠りの間に二十六歳になっていた。

 救急へ運び込まれた時は大量出血と内蔵損傷、皮膚の刺創で既に死んでいてもおかしくない状態だったらしい。しかしその後は人間ではありえない速度で修復が進み、二週間も経つ頃には内臓機能は完全に回復していたと医者は言った。鬼の血のおかげだろう。

「治ったんなら、早く退院した方がいい。あいつら、研究したくてたまらねえって顔してるからな」

「そうですね。リハビリ不要で、もう明日から働けそうな感じですし」

 ベッドからもたげた腕を軽く動かしてみる。普通なら一ヶ月以上も眠っていれば、リハビリなしで普段の生活に戻るのは難しいだろう。しかし今も動作は入院前のまま、全くの衰えがない。

 そのことだけどな、と長椅子の真方は視線を落とし、法衣の膝で手を重ねる。

「機備課はお取り潰しになった。お前は復帰次第、県庁へ戻ることになってる。俺はこのとおり、公社を辞めて今は副住職一本だ」

「てっきり、修行が済んだところだからだと思ってました」

 驚いたが、不思議ではない対応だ。三度目を許すほど部長は、知事は甘くない。

「新田さんは、大丈夫ですか」

「ああ。処分は受けたけど、まだ専務理事の席にはいる。でも、来年の春で辞めるんじゃねえか。もう、いろいろ無理だろ」

 目覚めてすぐ各所へ連絡してもらったが、伯父も新田も泣いていたらしい。私が目覚めない間、何を思って過ごしたのか。決して楽ではなかったはずだ。

「でも、そしたらまた現場は元に戻るじゃないですか。皆さんまた、怯えながら工事を」

「いいんだよ、もう」

 遮るように返して、真方は私を見る。剃髪して法衣の完全なる副住職のはずなのに、真方だった。

「お前が体張って助けてやらなきゃいけねえ奴なんか、この世には一人もいねえんだよ。だからオヤジも、取り潰しに同意したんだ」

 でもそれでは、これまでの努力が水泡に帰してしまう。私は、引導を渡したかったわけではない。

「なんで、俺を助けた。俺は、あいつを逃がそうとしてたんだぞ」

「彼女は、初めて会った同族だと話していました。真方さんも、ですよね? 誰よりも、抱えてきた孤独を分かち合える相手じゃないですか。……どうして、一緒に逃げなかったんですか。逃げれば誰も、私だって追えません。誰も知らない場所で、二人でやり直すことだってできたのに」

 真方の手を借り、体を起こす。もう痛みや違和感はなかったが、トイレで見た腹には無残な傷跡が残っていた。普通の人間なら、間違いなく死んでいた傷だ。あの時鬼が目覚めた真方は同族の彼女を殺して、私を救った。

 真方は長椅子を選ばず、ベッド際に座る。すぐそばに、法衣の腕があった。

「俺は父親が鬼だけど、あいつは母親が鬼だから寿命が長くてな。麓にあった家の先祖が父親らしい。母親が殺された時に父親が隠して山に住まわせて、定期的に人間を送り込んで食わせてた。俺達は一度でも人を食えばもう、鬼にしかなれねえ。半分人の血が流れてんだから、人として生きることだってできたのに」

 真方は視線を落とし、やるせない息を吐く。彼女と真方の道を分けたのは、取り巻く環境だ。山の中とはいえ自由に生きられた彼女と、人の中で虐げられながら生きてきた真方。彼女がもし鬼ではなく人として隠されていたら、人と人として出会えていたかもしれない。

「ずっと、同族だろうと鬼になってたらためらいなく殺せると思ってたんだよ。ひと思いに殺してやった方が楽になれるだろってな。でも実際に会ったら、無理だった。手が震えてな。その甘さを見抜かれた」

 鬼になっていたとはいえ、見た目は人だ。特に彼女は、まだ十代の少女にしか見えなかった。真方が殺せなかったのは、十分理解できる。

「一緒に暮らそう、逃げようって言われて一瞬、ぐらついたんだよ。ただ俺は今の、人として生きる道を選びたかった。血の目覚めに怯えながらでもな」

 自嘲混じりに零す真方に、ためらいながら手を伸ばす。とはいえすぐそばにある手は掴みかねて、法衣の袖を握った。深く吸った息が、白檀の香りを嗅ぎ取る。

「でもあいつにとっては、数百年生きてようやく見つけた同族だ。一人で逃げろなんて、通じるわけなかったんだよ」

 少し濃くなる手元の影に、黙って俯く。同族殺しは、初めて知る痛みだったはずだ。これまでだって、好き好んで殺してきたわけではないだろう。

「殺したくなかったですよね。ごめんなさい」

「お前のせいじゃねえよ。命張るほど惚れてる婚約者に気づかなかった俺の落ち度だ」

 沈んでいくばかりだった会話が、いきなり向きを変える。そういえば、そんなことを言ってしまった。あの時はもう死ぬ予定だったから言えたが、今は死ぬほど恥ずかしい。

「……惚れてません、ビジネス契約です」

「ビジネス契約のために命張るのかよ」

「ビジネスは、信用第一です。真方さんに信用されないのは、悲しいですから」

 熱くなっていく頬を押さえ、視線を上げる。すぐそばに迫っていた顔を、慌てて防いだ。

「おい、なんだこの手は」

 押しつけた手のひらの向こうで真方の顔が不満げに蠢く。思わず防いでしまったが、こっちだっていろいろと心の準備がある。目覚めたばかりだし、こんな格好だし、すっぴんだし、お風呂に入って髪と顔を洗って歯みがきもしたいし産毛も剃りたい。

「いや、だってちょっと」

「お前の大好きな副住職だぞ」

「副住職だからだめなんです、見ないでください」

 顔を押し返して、そっぽを向く。毎年抜かりなく整えて迎えていたのに、不可抗力とはいえこんな小汚い姿を見られるなんて。

「もう今年は、修行済んじゃったんですよね? 毎年気合い入れてきれいにして、山に入られる日を待ってたのに」

「それでか。山奥なのにすげえ気合入ってんなと思ってたわ。四月に来た時、あまりの落差で二度見した」

 あの、呪詛をまとわせた錫杖で物理的に殺されそうになった日だ。あの日はそれでも初日だからそこまで手を抜いていなかった、はず。

「なんで、もっと早く言ってくれなかったんですか」

「分かってて大人の礼儀で黙ってると思ってたんだよ。マジで気づいてないとか思わねえだろ。一年に一回で塩対応とはいえ、毎年会ってんだぞ」

 相変わらず、真方は手のひらの向こうから不満を漏らす。少しくらい引いてくれればいいのに、全くその気配がない。本当は、こんな風呂にも入っていない汚い手で副住職の顔に触れているのも申し訳ないのに。

「だから、恥ずかしくて顔を見られなかったんです」

「顔も見られない男のために毎年気合い入れてたのかよ」

 鼻で笑う真方に、そっぽを向いたまま俯く。

「……いいじゃないですか、別に。一年に一回しか会えなかったから、ちょっとでもきれいな姿を見て欲しかったんです」

「ガチのやつじゃねえか」

 少しだけ緩めた力に一層迫ろうとする真方を、再び突き放す。

「お前、言葉と態度が噛み合ってねえぞ」

「噛み合ってます。副住職にこんな小汚い姿、見せたくないんです。それにこんな、なし崩し的なのはいやです」

「俺は気にしねえ」

「私がいやなんです! とにかく、早く『真方さん』に戻ってください」

 この世へ戻ってきて早々、死ぬほど心臓に悪い。髪がどうしようもないのは分かるが、はやくいつものスーツ姿に戻って欲しい。すごくいい匂いしかしない。

「もうスーツ着る理由ねえだろ」

「機備課は必要な課です。私が県庁に戻って撤回させますから」

「それで次は、マジで死ぬ気か」

 触れていた顔が少し離れ、暗い声がした。死ぬ気はないし、公卿は私を殺せない。でも死なないだけで、危険な目に遭うことには変わりない。

「諦めろよ、お前が相手しようとしてんのはその辺のごろつきじゃねえだろ」

「やっぱり、知ってたんですね」

 溜め息交じりの言葉に、おずおずと視線を向ける。すぐに合わされた視線を、慌てて逸らした。目が、合ってしまった。

「気づかないわけねえだろ。お前が機備課に来た本当の目的も、俺とオヤジを疑ってたのもな。でもオヤジは気づいてねえから言うなよ、とどめ刺すぞ」

 やはり新田は、私にはいろいろと甘くなってしまうのだろう。確かに二人揃って帰っては来たが、死にかけの私に心が折れたのは想像に難くない。

「相手のことは、どれくらい分かってます?」

「俺と波長が合わねえ時点で神ってのは分かってた。けど、それくらいだな。触らぬ神に祟りなしだ。神の屁理屈に付き合う義理もねえしな」

 うんざりした様子で返し、真方は軽く袖を払う。衣擦れの音とともにまた、ふわりと香りが立つ。心を落ち着かせる香りのはずなのに、この人から匂い立つのは本当に困る。さっきまで触れていた手をぎこちなくさすり、高揚の収まらない胸に長い息を吐く。自分がここへ派遣された目的から公卿の話まで、全てを話すことにした。

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