第32話

 退院後、あと二日あった療養期間を切り上げ朝一で県庁へ向かった。機備課の存続を是とした報告書を突き返されて、部長との面談に臨むためだ。

「機備課は、現場の安全を支えるために必要な課です」

「目的は同意するところではある。でも、派遣した職員を三度も病院送りにするような課だ。安全管理に問題がありすぎる。県が支援している団体として、県民の理解を得られると思うか?」

 部長は悠然と椅子に凭れ、私がデスクへ置いた報告書を眺める。冷ややかな視線だった。

「最初のものは、私の個人的な事情だと申し上げたはずです。あとの二回は確かに鬼魅の類ですが、致し方のない事故でした。それに私の未熟さが原因であって、真方や専務理事のせいではありません。私が県庁へ戻れば問題なくなるはずです」

「知事も既に納得されたことだ。君が戻ったところで覆らないよ」

 それは何度となく聞いたが、納得できない。そもそも、こんな有耶無耶な状況では戻れない。

「しかしまだ、事件の解明ができていません」

「知事が手を引くと言われた。もうこれ以上は調べなくていい」

「ですが、あれは理事」

「聞こえなかったか」

 きつい口調で遮った部長に、乗り出していた身を引く。言わせなかったのは、わざとか。

「……ご存知、だったんですか」

「なんのことか知らないが、早く頭を切り替えた方がいい。次の席は、総務課に用意しておいた。君は上がるべき人材だ、期待してるよ」

 含んだ笑みを浮かべ、部長は私の新たな所属先を告げた。

 今更だが、部長も公社の理事として名前を連ねている。何をどこまで仕組んでいたのだろう。出世をちらつかせて黙らせる、か。

「失礼いたします」

 頭を下げて踵を返す。腹立たしくはあるが、こんなことに力は使いたくない。それでも、真正面から対抗する手段が一つだけ残されている。

 部長室を出て階段へ向かう。知事室は三階だ。アポも何もないが、そんなことは言ってられない。絶対に、覆してもらわなければ。

 小走りで階段を下り、踊り場を抜ける。廊下の角を曲がった先に、職員に囲まれてどこかへ向かう知事の姿があった。どくり、と胸が強く打つ。直接会うのは、これが初めてだ。職員と会話する知事の表情は、テレビで見る柔和なものとは違う険しく厳しいものだった。

「知事、待ってください。林業課の稲羽です!」

 こちらを気にすることなくすり抜けた知事を、思わず呼び止める。うっかり古巣を使ってしまったが、知事の足を止めるには十分だった。

「時間がない、移動しながら話そう」

 知事は鋭い視線で私を一瞥したあと、再び足を進める。慌ててあとを追い掛け、隣に並んだ。

「詳細は車に乗ったあとで聞く。具合は?」

「問題ありません。丈夫にできてますので」

 そうか、と小さく答えて知事はエレベーターを横目に階段を選ぶ。八階まで上がっているのを確かめたのだろう、無駄のない人だ。

 庁舎を出てすぐ、知事は待っていた車へ私を連れて乗り込む。同乗する予定だったらしき職員には申し訳ないが、致し方ない。

「事件の捜査はどこまで進んだ」

 いきなり切り出した知事に、隣で居住まいを正す。公用車は初めてではないが、知事専用車は当たり前だが初めてだ。いろいろと落ち着かない。

「黒幕の目星はつきました。ただ、機備課を潰されては」

「一旦潰した方が君が動きやすいからな。総務課には顔を出したか」

「いえ、まだですが」

「ひとまず行事係に入れ込ませたが、実際は秘書係だ。私の直下だから、ここからは私の指示で動いて欲しい」

 怒涛の勢いで伝える知事に、呆然とする。行事係なのに秘書で直下、とは。

「何か問題があったか」

「申し訳ありません。ちょっと、お考えについていけなくて」

 知事の頭の中では完璧に整っているのだろうが、凡人の頭には疑問符が舞っている。

「この一件には政治的な思惑が絡んでいる。順調に行けば公社の次期理事長は専務理事の新田だが、それを良しとしない向きがある、と言えば分かるか」

「今、分かりました」

「いいね、優秀だ」

 知事は満足した様子で頷き、組んだ脚の上で筋張った手を組む。トレンチコート姿は悠然として、余裕を感じさせる。年は確か五十半ば、起伏の少ない顔立ちに銀縁眼鏡が知的な印象だ。まあ、最高学府出身の元官僚だから「知的」どころの話ではない。白髪交じりの髪を七三で撫で上げ、左手薬指には指輪を鈍く光らせていた。奥様はきっと、このレベルについていけているのだろう。恐ろしい。

「解決まで何日必要だ」

「五日、いただけますか」

「分かった。機備課取り潰しの件で私に直談判し逆鱗に触れ、君は五日間の自宅待機だ。自由に動いてくれ」

 あっさりと受け入れ指示を出す知事を、思わず見据える。

「こうなると、お分かりだったんですか」

「君に関する報告を寄越していたのは農林水産部長だけじゃない。入庁時から君の働きは把握している。機備課取り潰しと聞けば、直接来るだろうと予想していたよ。それくらいの気概がなければ困る」

 知事は揺れた携帯の中身を確認したあと、傍らのバッグから資料を取り出す。当たり前のように返されたが、とんでもないことだ。

「何人くらい、把握されてるんですか」

「県内に限れば今は四百人弱、議員連中と長とつくポストの人物と個人的に目をつけた職員だけだ。ほかの職員も、名前を聞けばどこに所属しているかくらいは分かる」

「知事は、無所属ですよね」

「そうだ。だから忖度不要でね。相手が誰でも容赦はしない。しかしできることなら火種は潰しておきたいんだ。敵が増えていいことはないからな」

 知事は資料から視線を私へと移す。眼鏡越しの視線はまっすぐで、迷いがない。

「解決したところでおそらく警察には突き出せない、手柄を公にできない案件だろう。だがこれから起きる腐敗は止められる。きれいな仕事ではないが、頼めるか」

 少しのためらいも見えない言葉と視線に、肌がぞわりと粟立つ。これが、トップに立つ人間か。

「はい。力を尽くします」

「ありがとう。あと、芝居は得意か」

 知事は私に折り畳んだ紙を渡しながら尋ねる。芝居? と小さく尋ね返した私に、知事はふと柔和な笑みを浮かべた。

 運転手が「着きました」と車を停めるや否や、その表情が凍てつくようなものに変わる。

「私の話を聞いていて、どうしてそういう解釈になるんだ!」

 突然の厳しい叱責に、びくりと体を引く。知事の背後で、ドアが開くのが分かった。

「これ以上話をしても、君には私の判断を理解できないだろう。改めて処分を言い渡すが、それまで仕事に出てこなくていい」

 知事は向こうから車を降りつつ、言葉を継ぐ。ああ、そうか、芝居。

「車から降りろ!」

 続いて浴びせられた声に紙をコートのポケットへ突っ込み、慌てて反対側から降りる。降りた場は商工会議所、周りには数人の職員がいて趨勢を見守っていた。

 私が車から降りるのを確かめ、知事は迎えた職員達とともに中へと向かう。分かっていても、本気で怖かった。動悸で、心臓が痛い。

「あの、大丈夫ですか」

 控えめな声に振り向くと、心配そうに窺う女性職員がいた。

「はい。ちょっとお願いしたいことがあったんですけど、だめだったみたいです。考えが甘かったですね」

「身内には死ぬほど厳しいですもんねえ、うちの知事」

 不憫な私を宥める声に、頭を下げて外へ向かう。知事に直談判してけんもほろろに断られ、処分まで受けてすごすごと引き下がる、か。これ以上ない敗者の完成だ。ほどなく噂は部長の耳にも入るだろう。機備課はお取り潰しとなり面倒だった私も黙らせられた。油断は確実だ。

 あの知事だけは、敵に回したくない。

 まだ落ち着かない肌をさすり、与えられた五日の猶予を思い出す。宿芳山へ向かうべく、駅を目指した。

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