第30話
玉依、と呼ばれたような気がして目を開く。目の前に木々の重なりと薄く差す光を見て、体を起こした。見えた足の小ささに、手を確かめる。こちらも幼い子供のように小さく、ふくふくと肉づきが良かった。
改めて見渡した光景には、見覚えがある。何度も足を踏み入れたうちの山、氷雪山だった。
「玉依、目が覚めたか」
聞こえた声に視線を移すと、穏やかな笑みを浮かべた品の良い男性が胡座を掻いて座っていた。顔立ちは大作りで暑苦しいが、纏う空気は涼やかだ。耳の下で結った黒髪を垂らし、簡素な作りの服を着ている。胸元には、首飾りが見えた。
「……お父さん?」
予想より随分若い見た目だったが、ほかに心当たりはない。小さく呼んだ私に、男性は嬉しそうに眦を緩めた。
「ああ、そうだ。おいで」
手招きに誘われて近づくと、父は両手を伸ばす。幼い私の両脇を掴み、やすやすと抱えて胡座の膝に座らせた。頭を、温かな手が撫でる。
「このようなことでもなければ、膝に抱いてもやれぬ。お前には長く寂しい思いをさせてしまったな」
寂しげな声に、収まった胡座の中から父を見上げた。
「私、死んだの?」
「まだ死んではおらぬが、人の子として死ぬことも選べる。今後は神となり、私とともに氷雪山を守ればよい。こちらにいれば、いずれ母にも会えよう」
父は答え、また私の頭を撫でる。そばで聞く父の声は、穏やかで心地よい。周りに生い茂る草木も青々として、春のように温かかった。どこかで鳥のさえずりも聞こえる。守られた、平和な場所だった。確かに、こんな場所で暮らせたら幸せだろう。私の人生にはなかった場所だ。
「でも私、まだやり残したことがあるの」
「思いは分かるが、勧められぬ」
父は緩く頭を横に振り、長い息を吐く。
「今のお前の姿は神としてのもの。人の姿より幼いのは、神としてはまだ幼子のように未熟だからだ。しかし向こうは堕ちたとはいえ成熟した神、とても太刀打ちできるものではない」
「でも」
分かっていても、このまま何もなかったことにはできない。何より放置すれば、次の犠牲者が出るのは確実だ。元を断たねば終わらない。
「純然たる神は、秩序を乱さぬ限り神を殺せぬ。人の子でもあるお前ならば可能だが、しかし『人の子を殺したから』では許されぬ。そのようなことが認められれば、役目が務まらぬ者達ばかりになってしまうからな」
自然災害や事故や事件、神が関わった事柄は古今東西溢れているのだろう。人の子を殺していない神なんて、一握りもいないのかもしれない。
「お前が掲げて認められるとすれば、神殺しを企て理に背いた一点のみだ。だがそれも、彼の者においては悪ではないことを忘れてはならぬ。それこそが存在する理由なのだからな」
そんなことを、公卿も話していた。父は頷き、私を抱き上げて立ち上がる。実年齢を考えると気恥ずかしさしかないが、精神年齢も退行しているのか突き放す気にはならない。初めて知る神の、父の熱だ。触れているところから、温かな感覚が流れ込んでいく。陽気と相俟って、眠ってしまいそうだった。
「善を善たるものにするには、悪がなければならぬ。人の子は胸になぜ悪を住まわすのかと問うが、悪がなければ善も分からぬからだ。善には善の、悪には悪の仕事がある。どちらか一つでは決して成り立たぬ。彼の者は、人の子から見れば悪を為しているように見えるのだろうが、我らから見れば幸多かれと恵みを与えておるのと変わらぬ。この木々らを芽吹かせるのと同じこと、罪を犯しているわけではない」
父は私を連れて歩きながら、神の理を説く。
「でも、今更私に神の理を説くなら、どうして人の世で育てたの?」
「麻子が望んだのだ。お前を神の理では育てたくないと言った。私はどの道を選ぶにしてもいずれ我らと関わってしまうと分かっていたから、苦しみを増やさぬ方が良いと言ったのだがな。譲らなかった」
てっきり父の所業だと思っていたのに、予想外の出処だった。母は、私を人として育てたかったのだろう。
「結果お前は、山の怪一体すら殺すをためらう娘に育った。あれ以来、一体も殺しておらぬだろう。確かに命の重さは十分すぎるほど知っただろうが、私はお前の負う荷があまりに重くなりすぎたのではと感じているのだ」
父は私を抱え直し、神籬の前へと連れて行く。父の御霊が、かつて「封じ込められた」場所だ。
「私も、あの神には太刀打ちできないって分かってる。できたとしても、討つのは無理だと思うし。封じることってできないの?」
「できぬことはないが、彼の者を封じればお前だけでなく子々孫々、血の繋がりが途切れぬ限り恨まれることになるぞ」
「それなら大丈夫だよ、私は子供を産まないから。後継ぎが必要なら、養子を迎え入れる」
父は、そうか、と短く答えたあと溜め息をついた。私が子供を望まない理由は分かっているだろう。親不孝にはなるのかもしれない。それでも、これだけは無理だ。
「もう一度問うが、ここで人の命を終えるつもりはないか。彼の者はいずれ宿主が死ねば離れていく。なんら特別なことでなく、堕ちた者らは有史以来そうして世を渡っている。お前が今危険を犯して封じ込める必要などないのだ」
父は、もう人生を終えてそばに来て欲しいのだろう。切々と語る言葉は、神としてのものではなかった。初めて知る親心に苦笑しつつ見上げる。
「それでも、戻るよ。ここで死んだら、立ち直れなくなりそうな人がいるし」
表情は覚えていないが、泣きそうな声は耳に残っていた。思い出せば、胸が締めつけられるように痛む。
「鬼の子との婚姻を認めたわけではないが、血を交えた間柄だ。もはや切れる絆ではない。あの男ならお前の言葉にもよく従おう」
「血を交えた?」
聞き返した私に、父は頷いた。
「お前の命を繋ぎ止めたのは、あの男が与えた鬼の血だ。人の子でもあるとはいえ、鬼の生命力は神をも超える。鬼と神は相容れぬ関係だが、鬼が自ら神に我が血を差し出せば主従関係が成立する。お前はあの男を使役できるということだ」
「するつもりはないけどね」
「しかしお前が彼の者を本当に封じ込めるつもりなら、鬼の力を使わねば無理だ。この度のように情を掛けては仕損じる。封じたいのなら、情を捨てよ」
厳しく響いた声に、視線を落とす。公卿を見逃すか、真方を見捨てるか。どちらも、は叶わないことなのか。
「お前が神ではなく人の子でありたいと願うなら、あの男がお前を守りきれなかった不甲斐なさを思うてやれ。次は、守らせてやるのだ。二度と同じ悔いを抱かせてやるな。守るばかりが愛ではないぞ」
父は穏やかに笑み、私を抱き締めて長い息を吐く。
「お前は、私達の愛しい娘だ。定めを変わってやることはできぬが、いつも見守っている」
「……ありがとう」
温かい手と胸に目を閉じ、照れくささの混じる礼を返す。少しずつ、意識が暗がりへ沈んでいくのが分かった。
やがて父とは違う温かさと、人の気配を感じる。手に触れる何かは、ところどころが固い。なんだろう、これは。
ふと瞼の裏に眩しさを感じて、薄く目を開く。稲羽、と呼ばれた気がした。
「稲羽!」
もう一度、今度ははっきりと聞こえた声は真方のものだ。不意に体が浮いて、父とは違う圧が絡まる。もう少し開いた視界に、法衣の襟ときれいに剃り上げられた襟足が見えた。
副住職に、抱き締められている。夢かもしれない。
周りでは、まるで目覚ましのように機械音が煩く鳴り響いている。繰り返し力を込める腕に応えて、法衣の背にまだ重い手を回した。
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