第29話

 あれから五分ほどして目を覚ました拓磨は、私の首を締めたことを覚えていなかった。何かした? と不安げに尋ねる表情を宥め、タクシーへ乗せた。


「今日も現場ですか」

「ああ、まだ調べときたいことがあってな。面倒くせえけど」

 私ならともかく、真方が朝っぱらから真面目に現場へ出掛けるなんて珍しい。

「何かあれば、連絡してくださいね」

 掛けた声に真方は手で応え、倉庫を出て行った。

 私が内勤になってからはこれが普通なのに、なんとなく気になってしまう。昨日あんな話を聞いたせいかもしれない。どれほど修行しようと欲を散らそうと、鬼の血が目覚めてしまえば逆らえないと公卿は言った。「公卿」は物腰の優雅さや残酷さから勝手につけた、あの神の呼び名だ。

 一息つき、パソコンで緑化研究所の電話番号を検索する。ようやく掴んだ手がかりは、米村が師事した白浜だ。どうにか探し出して話を聞く必要がある。

 事件の調査をする以上は、この先も踏み込まざるを得ない。対峙して死を願うほどの苦しみを受ける覚悟もできていないが、留まっていれば公卿の思うつぼだ。

――鬼の血を抑え込める方法を、知りたくはないか?

 知りたいが、これ以上の殺しは見逃せない。でもそれは、私の意見だ。真方にしてみたら、喉から手が出るほど欲しかった解決策かもしれない。真方が毎年あの厳しい修行に励むのは、鬼の血を抑えるためでもあるのだ。でも。

 真方もおそらくは新田もシロと分かったのだから、打ち明けられないわけではない。ただ相手は神だ。危険すぎる。

 九時を回った時計を確かめ、真方のデスクへ移動し受話器を上げる。この番号を打ち込めば、もう後戻りはできないだろう。公卿も気づくはずだ。よし、と気合いを入れ、受話器を握り直す。

「光よ、吾に盾を与えよ。仇なすものを光に返せ」

 日に日に整っていく文言に感心し、改めて番号を押す。神性の目覚めはどれほどか、完全に目覚めても公卿に太刀打ちできるとは思えないが今よりはマシだろう。せめて大切な人達だけは守りたい。不公平でも譲れない。遅めの覚悟を決めた時、呼び出し音も途切れた。

 挨拶して最初に名乗り、取材をしたいと理由をつけて白浜への繋ぎを願う。しかし返答は、現在そのような所員はいない、とあっさりしたものだった。

「現在はどこへいらっしゃるか、教えていただくことはできませんか」

 尋ねた私に向こうの女性は、ちょっと待ってくださいね、と保留を選ぶ。本当は論文をひとつくらい読んで学術的なことを理由にしたかったが、緑化研究所の過去論文はパスワードページに格納されていて見られなかった。ネットにも白浜らしき人物の論文は転がっていない。米村が師事していたのは十五年近く前だから、とっくに退職している可能性もある。

 しばらくして機械的なメロディーが途切れ、もしもし、と野太い男性の声がした。

「失礼だけど、あなたほんとに林業公社の人?」

 予想外の問いに、面食らう。

「はい。今年の四月から県庁農林水産部林業課より派遣されました、稲羽と申します」

「ああ、そうか新しい人か。なら知らないのも仕方ないな。白浜は、あなたのとこの理事長だよ。今は……えっと」

「境井で、よろしいですか」

 こめかみが、じわりと汗を滲ませる。震えそうな声に、つばを飲んだ。

「そうそう、境井ね。いろいろあって名字変わったんだよ」

 これで、繋がった。米村を殺したのは、公卿の居場所となっているのは、理事長だ。あの朗らかな笑みが、脳裏で歪む。

「そうだったんですね、灯台下暗しでした。お手数をおかけいたしました」

 卒のないやりとりを経て、受話器を置く。手が、震えていた。

 どうして、理事長が。あの人は、あんなに。

 ……いや、違う。理事長に憑いていたのなら、気づかないはずがない。理事長ではない。だとしたら、息子か。資料には妻と死別して家族は息子、とあった。

 名字が変わる理由は、結婚か離婚が一般的だ。男性側の名字が変わるのだから、婿養子だろう。理事長の場合は、妻との死別による婚姻関係の終了かもしれない。しかし息子を理事長が引き取っているとしたら、婿養子を入れてまで欲しかった後継ぎを妻側が手放したことになる。公卿が息子に憑いたのは、いつなのだろう。

 理事長が米村に賄賂を持ち掛けた理由は、金に困っていたからだろう。でもあの公卿が、ダイレクトに現金を欲しがるとは思えない。足りなかった最後のピースである息子に多分、全ての答えがある。

 公卿を息子から剥がしてどうにか、討つのは無理だろうから封印か。守道の術は物の怪や主相手で、神の封印は無理らしい。神を封印する方法は、神に聞くしかないだろう。でも父は、まだ神になって千年ほどだ。聞くとしたら神として長く、力があり、人の子を道具と見ない神。それなら、宿芳山の神か。

 お役目が入ったと言えば、休みはもらえるだろう。特に今は内勤の身で、正直暇を持て余している。ホワイトすぎて、県庁に戻るのがつらい。苦笑しながらファイルから申請書を取り出し、明日の日付を記入した。


 申請は無事新田に受理され、明日は日帰りで宿芳山だ。真方にも事後報告するつもりでいたのだが、帰りが遅い。確かめた時計はもう昼近い。真方は仕事が早いから、二時間もあれば片付けられるはずだ。しかも昨日も入った現場なのに。何かあったのかもしれない。

 電話を鳴らすと、新田はすぐに応えた。

「お忙しいところ、すみません。真方さんが現場に入って三時間以上経つのに、まだ帰って来ないんです。神隠しの現場ですし、何かあったのではないかと」

「三時間か。確かに掛かり過ぎるな。頼めるか」

 新田は、私以上に真方の仕事を知っている。今回の異質さを「もうすぐ帰ってくるよ」では流さない人だ。

「はい、行きます。それで、もし私も帰って来なかったらですか」

 切り出したあと、一呼吸置く。少しためらったが、伝えないわけにはいかないだろう。

「伯父に連絡をお願いします。こんな用件で、申し訳ないですが」

「……聞いたか」

 新田は少し間を置いて答えたあと、長い息を吐いた。

「先日、知らされたばかりです」

「それなら、俺が稲羽を大事に思う理由も分かるだろう。倭は多少手荒く扱ってもいいから、必ず二人で帰って来てくれ」

「分かりました、必ず」

 受話器を握り締めたまま、見えない向こうへ頭を下げる。真方が帰ってこないのは、つまりそれだけ相手が悪いということだ。私だって、無事に帰ってこられる保証はない。それでも、見捨てる選択肢はない。あの人は私の。……その辺は、帰ってからにしよう。

 上着を脱ぎ、髪を高い位置で結び直す。携帯を腰ポケットへ突っ込み、現場へと向かった。


 現場では、現場保存のためか警察官が二人立っていた。

「林業公社機備課の稲羽です。うちの真方が先に入っていると思うのですが、連絡がないため参りました。一度でも出てきましたか?」

「いえ、入られたきりです。何かしら異常を感じたら逃げろと言われましたが」

 そうですか、と答え、鬱蒼と茂る小さな山林を見上げる。擁壁の上には背の高いフェンス。まるで何かが出るのを防いでいるかのような。

 ふと感じ取れたものに、再び森の奥を見据える。俯き、唇を噛んだ。行方不明者は三名、全員もう亡くなっている。ただ、それだけではない。新しくはないが、ほかにも気配があった。おそらく最近ではない遺体が……山のように。このままでは、真方も危ない。

「私も入りますが、絶対に人を立ち入らせないでください。二時間で出てこなければ各所へ連絡をお願いします。そのあとここを完全封鎖して、もう二度と誰も入れないようにしてください」

 しかし、と戸惑うように返す警察官をじっと見上げる。私より年下に見える若者だ。

 私の力は皆を等しく救えない、不公平なものだ。無条件に人間の味方ができるほどお花畑でもない。それでも、救えるものは救う。

「二時間で出てこなければ、私も真方も死んでいます。私達の力では押さえきれないものがいる、ということです。これ以上の犠牲を出すわけにはいきません。あなた達も、危険を感じたら二時間経たなくても身を守る行動をしてください。念の為、守りの術をかけておきます」

 私達の仕事は上層部から聞いているだろうが、信じきれていないのは見て分かる。でも、そんなことでためらっている場合ではない。

「光よ、彼らに盾を与えよ。仇なすものを光に返せ」

 一歩引いて唱えてすぐ、光の繭がふわりと彼らを包む。真方の守りは分厚い寒天のようだったが、術者によって形が変わるのだろう。

「どうか、お気をつけて」

 向かう背に掛けられた声に小さく頭を下げ、張られたテープをくぐる。遺体の感覚は茂る木々の奥から伝わる。まだ三つだから、真方のものはない。早く辿り着かなければ。

「氷雪山が神、九多真塩の娘の稲羽玉依と申します。ご遺体を引き取りに参りました。どうか近くまで、お導きください」

 目的を告げた私に、山頂から吹き下りた風が木々をさんざめかせて道を作る。殺したのは、主ではないのだろう。

 開かれた道に感謝し、ほとんど人の踏み入った形跡のない山を登って行く。遺体のところに、きっと真方も。

「誰を探してるの?」

 声が聞こえた次には、目の前に誰かが立っていた。驚いたのはその素早さだが、それだけではない。息を呑むほどの美少女だった。そこかしこに見えるあどけなさは、十代半ばに見える。薄く差す日差しに淡く浮かび上がる白い肌と腰辺りまで伸びた長く豊かな黒髪、大きな目に通った鼻筋、ふっくらとした頬は少し赤みを帯びていた。人間離れした美しさは「人間ではない」からだろう、時代に不釣り合いな白装束は簡素なものだった。そしてそこには一つのシミもないのに、少女からは血の臭いがした。

「ここに足を踏み入れた人が四人、行方不明になってるの。その人達を探しに来たの」

「だから、あれは食べていいものだって言ってるでしょ? 自分と違う臭いなら食べてもいいって惣領が言ったもの」

 不満げに返す口ぶりは、この問いが初めてではないことを知らせる。前回は真方だろう。

「あなたは、いつからここにいるの?」

「分からない、気づいたらここにいた。お腹が空いたから、近くに来たものを食べてたの。そしたら、惣領がだめだって」

「惣領は、どこの家の人か分かる?」

「うん。山を下りたところ」

 やはりそうか。山の持ち主である人物の先祖だろう。この子が人間ではないと知りながら匿い、周りの動物だけでなく山へ入る人間を餌として与えていたのだ。ただ、山の怪の寿命は人間より遥かに長い。惣領の死後次々と代替わりして、この山林が売られずにいる理由も迷信になっていたのかもしれない。

「自分と同じ臭いがする人は、私の家族だから食べちゃだめだって。そのかわり、違う臭いの人はいいって言ったの」

 引っ掛かる台詞に、顎をさすっていた手が止まる。家族。ああ、だから、人の姿と変わらないのか。

「ねえ、私の前に男の人が来なかった?」

「来たよ。初めて、私と一緒の鬼が来た!」

 遮るように返して、少女は花が綻ぶような笑みを浮かべた。この子、鬼か。驚きを抑え、息を吐く。真方もきっと、初めての同胞だったのだろう。だから、多分。

「会わせてくれないかな、知り合いなの」

「だめだよ、せっかく大人しくなったのに帰りたくなるでしょ」

 滑らかそうな細い眉間に皺を刻み、少女は不満げに答える。いやな予感がした。

「あの人に、何をしたの」

「そんなのどうでもいいでしょ。それより」

 少女は突き放すように答え、私を上目遣いで見据える。ぎろりと動いた瞳に思わず退いた。さっきまでの少女らしい表情とは一転して、粗野な獣のような歪みを浮かべる。これが鬼の顔、か。

「さっきから、すごくいい匂いがするの。これまで食べたのと違う。違う臭いだから、食べていいよね」

 言い終わるや否や守りの膜が強い音を立て、少女が跳ねるように後ろへ飛ぶ。焦げくさい臭いがした。

「何するの、食べられないじゃない!」

 金切り声で叫んだ少女の目は爛々と金色に輝き、口は裂けるように拡がり牙が覗いている。白装束から覗く腕や脚は相変わらず白かったが、指先からは刃物のような長い爪が伸びていた。今は防げたが、鬼の力に真正面から殴られ続ければいつまで持つか分からない。

「森よ、道を開いて。私を導いて!」

 現状での最善策は真方と合流することだ。再び大きく開かれた森に、奥へと急ぐ。まるで私を守るように道を閉じていく背後に感謝しながら、大きく開かれた場所へと乗り込んだ。

 途端、鼻を突く臭いに顔を背ける。

 目の前には大きな横穴と木の枝で覆われ隠された何か、散らばる骨、そして両手を木に打ちつけられた真方がいた。

「真方さん!」

 叫んだ私に、真方は垂れていた頭をもたげる。顔色は青ざめて、息も荒い。打ちこまれているのはなんの楔か、あれを外さなければ長くは持たないだろう。

 しかし駆け寄ろうとしたその先に、再び少女が立ちはだかる。牙を剥き出しにし、唸る姿は正に鬼だ。さっきはまだ見えなかった角が今は二本、額から伸びていた。

「帰れ、こいつは渡さない」

「その人は、人の中で生きてるの。ここはいるべき場所じゃない」

「うるさい!」

 振り払われた腕がまた膜を叩く。どうにか攻撃は弾けたが、圧に押されて大きく後退った。どうにか、真方の楔を外さなければ。

「今『どうにか楔を外さなければ』って思ったでしょ」

 なぞられた思考に、弾かれたように顔を上げる。

「何を考えてるのか、分かるの。もうちょっとで、それ破けるんでしょ? 人間がどれだけがんばったって」

 鬼の形相で声だけは少女のまま、不気味に聞こえる言葉がふと止まる。少女は私を見据えて、にやりと笑った。

「ああ……そうか、神様だ。だからそんなにいい匂いがするんだ、神様か」

 次にはもう目の前にいて、思い切りなぐられる。もちろん直接は触れないが、圧でまた跳ね飛ばされた。膜が、破片を零し始めたのが見える。

「ああ、食いたい、食わせろ」

 少女の可憐な声に重なる太い声の圧に、体が震えた。滴り落ちる汗を拭い、少女の向こうに真方を見る。次の攻撃はもう防げないだろう。守りの術を重ねがけし続けても、消耗戦になるだけだ。滅す文言を唱えても良くて相打ち、私が死ねば真方の楔を外せる者がいなくなる。それなら、真方の楔を外した方が勝率が高い。

「さっきも言ったけど、考えてること全部分かるの。あいつの杭を抜いたって無理だよ、あいつが助けたいのは私だから」

「無理でも助けるよ。私は、婚約者だから。守って死ぬくらいの覚悟はあるの」

 私はもう無理だから、これくらい言っておいてもいいだろう。

「コンヤクシャ? 知らないけど、私達は初めて会った同族なの。男と女だから番にもなれる。このあと、あんたの肉を一緒に食べるわ」

 突き出された鬼の手に、守りの膜が軋む。

「光よ、真方倭の楔を解き放て!」

 唱え終えた瞬間、ガラスが割れるかのように膜が砕け散る。次には腹への衝撃と、にたりと笑う鬼の顔。それでも、不思議と悪い気分ではなかった。助けられたからだろう。

 しかし不意に、目の前からその頭が消える。噴き出す血の向こうにもう一体、猛々しい鬼の姿が見えた。

「稲羽!」

 崩れ落ちる体を抱き止めて呼んだのは確かに真方の声だったが、目の前が霞んでもう見えない。

「聞こえるか、稲羽、俺の血を飲め!」

 暗がりの向こうに声は聞こえるが、もう無理だ。咳き込むと、何か温いものが口から溢れ出すのが分かった。体中が熱い。これが、死か。

 死ぬな、と繰り返す泣きそうな声に手を伸ばしたかったが、指先は震えるだけでもう動きそうにない。泣かないで、どうか幸せに。

 暗がりに沈みゆく意識の中で願い、全てを閉じた。

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