第26話

 広規が電話を鳴らしたのは、予想より早い二日後だった。しかし、前回とは少し様子が違っていた。

「必要な情報は集められたんだけど、玉依に会ったあとから、なんかずっと誰かに見られてるような感じがするんだ。早く渡した方がいいような気がする」

「分かった。じゃあ、これから大学まで取りに行くよ。あと守りの術を掛けておくから」

「ありがとう、頼むよ。着いたら連絡して」

 広規は声をひそめ、通話を終える。忘れていた、危険なことを頼むのだからもっと早く。

 ふと感じた背後の気配に、勢いよく振り向く。しかしそこはいつもどおりの、地下の光景だ。隣には機備課のドア。見上げた階段の先からは日差しが零れ落ちる。ただ、誰かが下りてくるようではない。

 もしかして、調べていることが黒幕にバレたのかもしれない。だとしたら、大学の情報が当たりか。

 目を閉じて広規の姿を詳細に思い浮かべる。

「光よ、瀬田広規の盾となり仇なすものより守れ」

 相変わらず自分らしくない何かが、自分らしくない言葉を放つ。これが神性の目覚めなのだろうが、まるで二重人格になったようで落ち着かない。とはいえ、今はこんなことをしている場合ではない。

「すみません、所用で少し外出します。一時間で戻ってきますから」

 中へ戻り外出を申請した私に、真方はパソコンの画面から視線を移す。新田が能力者である証拠が掴めていない今は、庇っている可能性も含めて真方をリストから外すわけにはいかない。

「煙草、ワンカートン買ってきてくれ。今朝買ってくるの忘れたんだよ」

「ヘビースモーカーの僧侶なんて」

「こうやって欲を散らしてんだよ」

 真方は笑いながら傍らから煙草を手に取り、咥えて引き抜く。今日は朝から酒の臭いもする。二日酔いだろうが、最近増えていた。

「欲深いんですね」

「半分は鬼だからな」

 急いで向かわなければならないのに、足止めするかのような答えを返す。

「今、その話振ります?」

「だから最近、俺を避けてんじゃねえのか」

 真方はまるで無視して続け、煙を吐き出す。避けたつもりはないが、戸惑いが態度に出てしまっていたのかもしれない。いろいろと話したいことはあるが、今は膝を突き合わせている場合ではない。

「その話は、帰ってからお願いします。では、行ってきます」

 頭を下げてバッグを掴み、急いで外へ向かう。

――そうなる前に、なるべく早くお前の手で殺しなさい。

 思い出せば飲まれそうになる白蛇山の神の言葉を振り払い、二段飛ばしで階段を上がる。早く行かなければ、さっきから寒気が止まらない。こんなのは、初めてだった。


 大学に着いてすぐ、携帯を鳴らしつつ急ぎ足で工学部へ向かう。広規は五回ほど鳴らしたところで出て、構内の森を指定した。この大学は田舎で平地が有り余っているはずなのに、山を切り開いて建てられている。以前は水害の多い土地だったから、それを避けたのだろう。おかげで構内のあちこちに森と、山の片鱗が残されている。

 玉依、と呼ぶ声に視線をやると、スーツ姿の広規がいた。

「ごめんな、来てもらって」

「いいよ、こっちが頼んだんだし。危ない目に遭わせてごめんね」

 無事に会えたことに安堵した瞬間、広規の動きが止まる。突然、首を押さえて苦しみだした。

「ひろさん!」

 慌てて駆け寄ろうとした先で、広規が掴み上げられるように宙へ浮いた。さっきまで広規を守っていたはずの、守りの膜が消えている。どうして。

『これ以上、手を出すな』

 背後に突然現れた気配は、耳元で低く囁く。少し高めで滑らかな、男の声だった。肌がぞわりと粟立ち、汗が噴き出す。さっき感じたものと同じか、指先が震え始める。霊、ではない。これは。

「彼を下ろして、彼は関係ない」

『手を引くのであれば、助けてやる』

 耳元を振り払っても、声は変わらずすぐそばで聞こえる。迷っている時間はない。

「分かった。手を引くから、彼を助けて」

 呻く広規を見上げて条件を飲むと、体は放り出されるように森へ落ちた。

「ひろさん、大丈夫?」

 駆け寄って触れようとした時、鼻で笑うような音が聞こえる。一瞬で感じ取った悪意に、広規を抱き締めて背を向けた。次の瞬間稲光のようなものが辺りに散り、何かが弾き返された音がした。

『我が山で、勝手は許さぬ』

 さっきのものとは違う、太く毅然とした声が響く。

「吾に仇なすものを顕現せしめよ!」

『無駄だ、効かぬ。もう消えた』

 少し穏やかになった口調が答えた。ここの神は、男性だったのか。

「助けてくださり、ありがとうございました」

『この山にも秩序はある。人の子らが勝手に転がり落ちようが死のうが止めはせぬが、神殺しは容認できぬのでな』

 腕の中で細かく咳をする広規の背をさすり、森の奥を見る。

「さっきの気配が誰か、ご存知ですか。守りの術をこの人に掛けていたのに、効きませんでした」

『知ってはいるが、我が教えるわけにはならぬ。術が解けたのはお前より力が上だからだ、と言えば分かろう』

「でも、神は約束を違わぬ存在ではないのですか。さっきは約束を翻し、私達を殺そうとしました」

 それに、私の力をゆうに超える相手だ。殺すつもりなら今日まで待たなくても、あんな揺さぶりを掛けなくても簡単にできたはずだ。

『神にもいろいろ、より酷なことを望むものもおる。人の子の苦しむ様を愉しんでおるのだ』

「ご存知なのに、どうして神は何もなさらないんですか」

『驕るな。我らは人の子のためだけにあるものではない。人の子らは、まるで我らが己が欲を叶えるために存在しているように扱うがな』

 びり、と肌に触れる圧に、広規を抱き締める。森の奥まで震わせるように木々が揺れ、神の威厳を知らせた。

『我がお前達を助けたのは、命を哀れんでではない。神殺しが我が山の秩序に逆らうものだからだ。神は決して、人の子の手足のように動く存在ではない。お前も半身とはいえ神であろう。神の理と秩序を弁えよ』

「申し訳、ありません」

 噴き出た冷や汗に、吐いた息も震える。神の叱責を受けるのは何度目か、理に口を出してはならないと分かってはいる。それでも、どうしても。

『しかし同時に、お前は人の子でもある。お前なら、我らに救えぬものも救えるであろう。人の子の定めを揺るがさぬかぎりは、それを窘めることはせぬ。ただそれは時に、我ら以上の責を負うものだ。そしていつかは人の子に、尽きぬ人の子らの欲に潰される』

――それを不公平だと思うのは、悪いことなんだろうか。

 神の声に、了一の言葉が重なる。私は目の前にいる人しか、限られた人しか救えない。

「人の子の定めとは、寿命ですか」

『それだけとは限らぬ。どのような物事にも己の魂が定めと選び握っているものがある。目先の哀れみで、その学びを妨げることは許されぬ。同じ病でも、治して良い者とならぬ者がおるのだ。憎まれ、恨まれるぞ。我らより遥かに容易くな。覚悟はしておけ』

 はい、と短く答えて頭を下げる。森がさんざめくように揺れ、頬を柔らかい風が撫でた。厳しい神だったが、言葉のそこかしこに、それだけでないものが滲んでいた。

 掠れた声で呼ぶ広規に気づいて、助け起こす。

「本当にごめんなさい、こんなことに巻き込んで。私の力で守れる相手だと思い込んでたの、甘かった」

 いや、と広規は首をさすり、上着のポケットからUSBメモリを取り出す。

「ごめん。『できることがあれば』なんて言ったけど、俺はもうこれ以上のことはできそうにない。守らなきゃいけない人や、家族がいるから」

 視線を落とし時折声を掠れさせながら、広規は素直な心情を語る。USBメモリを差し出す指が震えていた。守らなきゃいけない人、か。小さく痛む胸を宥めて頷く。

「ごめんなさい、もう連絡はしない。本当に助かったよ。ありがとう」

 礼を伝えたあと、広規を助けて立ち上がる。

「また逃げるみたいになって、格好悪いね」

「気にしないで。あの頃も今も、本当に感謝してる」

 広規は自嘲混じりの笑みを浮かべて頷き、学部棟へと消えていく。少し滲んだ姿に、慌てて目元を拭う。私はもう守られる立場ではない。私が、守らなければ。

 一息ついて、USBメモリをポケットへ突っ込む。森の奥へ向き直って深々と頭を下げ、広規とは違う道を選んだ。

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