十月:善には善の、悪には悪の

第25話

 真方は出勤するなり、挨拶より早く「新聞読んだか」と尋ねる。

「いえ。新聞とってないので」

「地方面の片隅に、あの古美術商が盗みに遭ったって記事が出てたんだよ。二百点近く盗まれたけど、鍵は開けられてねえし店内が荒らされた様子もねえんだと」

「そうですか」

 答えながらメールを打ち続ける私に、間が置かれた。

「お前、なんかしたろ」

「してませんよ。ただ、あの店で挨拶した付喪神の方々が夢に出てこられて『長い縁だったがこれ以上は守れぬ』って挨拶して行かれました。またなんかしでかして、愛想をつかされたんですよ。自業自得です」

「そうか、付喪神か。確かに、あの神さんの罰らしくねえわな」

 真方は今日最初の煙草を咥え、火をつける。長くたなびく煙を眺めて、手元へ視線を戻した。

 あのあと改めて、私一人で白蛇山へお礼参りに行った。神は手元に戻った鏡を喜び、ひとしきり自分と地頭との恋について語った。

――私でも、愛で結ばれた者を見れば幸多かれと思うものよ。その脆さも知っているけれど。

 顔は見えなくても、少し寂しそうに笑んでいる気がした。神の情け深さに感謝し安堵していたら、次の台詞に冷や水を浴びせられた。

――お前は、鬼の子が人の子と本当に共存できると思っているの。鬼の血を引く者は本能的に神を嫌い、いつか鬼の血に飲まれて鬼と化す。お前の神性が目覚めたように、その血が目覚め突き動かされる日が来るの。そうなれば人の子は無残に食い散らかされて、この地など一瞬で荒れてしまう。そうなる前に、なるべく早くお前の手で殺しなさい。

 そんなこと、できるわけがない。

 気づけば止まっていた手元が、揺れた携帯にぴくりと動く。部長だろうか。

 こまめな報告を求められるのはこれまでどおりだが、答えもこれまでどおりだ。「早く調べろ」「粗を探せ」と高圧的に求められることはない。前回の調査は知事の指示だったらしく、急にすまなかったと詫びられた。至って普通の対応だ。その普通さを不気味に感じるのは、私が機備課に染まりつつあるからだろうか。

 しかしためらいながら確かめたメールの差出人は、部長ではなかった。ただ開くのがもっと恐ろしい相手ではある。意を決して開いた先には、予想より丁寧な返信があった。

 『お久しぶりです。突然の連絡で驚きましたが、事情がありそうですね。勧誘の類だとは思っていないので、安心してください。今日の夜で良ければ空けておきます』。

 思わず漏れた安堵の息を引き止め、素知らぬ顔で業務へ戻る。必死で仕事の話だと書き連ねたのが良かったのだろう、文面は昔を思い出させる優しさだった。それでも、結局は突き放されたのだ。

 じわりと滲む鈍い痛みに苦笑し、ひとまずの礼を送り返した。


 仕事だと分かっているが、緊張で胸が痛む。

 指定した店は少しお高めの居酒屋で、少人数でも個室が使えるし料理も美味しい。県庁時代もよく使った店だ。向こうも知っていたから、大学でも同じように重宝されているのかもしれない。

 店へ入り店員に名前を告げると、奥へと案内される。それなりに賑やかな声を小上がりの左右に聞きながら、早鐘を打つ胸を押さえてあとに続いた。

 小上がりの際に揃えて脱がれた革靴に、大きく深呼吸する。大丈夫。仕事、仕事だ。

 気弱になる胸に勇気を奮い立たせ、声を掛けて戸を引く。座敷の奥には、赤みのある間接照明に照らされた懐かしい姿があった。あの頃より、少し痩せたかもしれない。

「ごめんなさい、遅くなって」

「俺も今来たとこだよ」

 模範解答を返し、座卓の向かいで広規はにこりと笑う。

「奢るから、なんでも好きなものを頼んで」

「いや、奢りだと断りたくなっても気が引けるからワリカンにしよう」

「来てもらったんだから、そんなのいいのに」

 苦笑で手渡されたメニューを眺める。

「とりあえず何か食べよう。今日の昼、忙しくて抜いたから限界が近い」

「仕事、忙しい?」

「まあね、研究しつつ論文書きつつ求人公募に申し込む日々だよ。早く職に就きたい」

 広規はポスドク事情を語りながら、細長い手をおしぼりで拭う。

 ポスドクは、主に院を卒業したあと任期つきの職に就いている研究員の総称だ。広規の言う「職に就きたい」は、任期なしの研究員だとか講師や助教授などのポストを得たい、という意味だ。近年はポスドクが飽和気味と聞いたことがあるが、我が母校でもそうなのかもしれない。

「そっちはどう? 仕事は大変?」

「大変は大変だけど、県庁時代とは種類が違うかな。デスクワークからフィールドワークって感じで」

 ああ、と頷く広規はリラックスして見えて安堵する。予想よりスムーズに続く会話に感謝し、現れた店員に酒と料理を注文して見送った。

「今も大学時代の友達と会って飲むことある?」

「就職一年目はたまに集まって励まし合ってたよ。でも仕事に慣れるにつれなくなって、今はSNSで生存確認してる程度。そっちは?」

「俺は今も大学の延長線上みたいなもんだからなあ。ただやっぱり、就職した奴とは途切れたね。正月に地元帰っても、結婚した奴とは話が合わなくなってきた」

「三十近くにもなれば、いろいろあるよね」

 温かいおてふきで指を拭いながら、遠くて近い数年後を思う。

「三十って昔はすごく大人でまだまだ先にあるイメージだったのに、気づいたら来年だろ。そりゃあ教え子も研究室に入ってくるよなって」

「え、塾の? 誰?」

 思わず身を乗り出した私に、広規は笑う。覚えてるかな、と答えて話し始めた姿に当時を思い出す。私達が出会ったのは大学近くにある塾で、広規はアルバイト講師四年目の先輩だった。教える科目は理系と文系で違っていたが、緊張と不信感でまだコミュニケーションのぎこちなかった私の指導役を買って出てくれた人でもあった。

 その後は教え教えられている内に、と言葉にすれば陳腐な展開だろう。でも広規は、傷が癒えても一生恋はできないと信じていた私の心を溶かしてくれた。恋の終わりは苦かったが、嫌いにはなれない。広規の荷物が消えてすぐ私は塾を辞めて連絡も絶ったが、いつかこんな日がくればいいと願ってはいた。


 料理をひととおり楽しみ程よく酔いも回ったところで、広規が切り替えるように本題へと話題を移す。

「メッセージをもらった時は驚いたけど、こうして会ったのは後ろめたさがあったからじゃない。もちろん、玉依にはひどいことをしたと思ってる。あの頃の俺には受け止めきれなくて逃げ出してしまったけど、あんな方法をとるべきじゃなかった。本当に申し訳なかった」

「もういいよ。確かにあの時はショックだったけど、ひろさんに会えてすごく救われたのも事実だから。だからまた、こうして甘えてしまうんだけど」

 苦笑しながらもするりと零れ落ちた言葉には安堵する。私も「憎んでいない」と伝えたかったのだ。広規は頷き、手酌で冷酒を注ぐ。

「メッセージが来て驚いたのは、ちょうど玉依のことを思い出してたからでもあるんだ。研究室の子が、少し前に氷雪山の麓ですごいものを見たって言ってて。スマホが壊れて何も残ってないって悔しがってた」

「あそこに居合わせた子がいたんだ。ケガはなかった?」

「うん、吹雪と事故で足止めくらっただけだって」

「良かった」

 ほっとして、手元のグラスを軽く揺らす。丸くなった氷がウイスキーをまとって透ける。

「やっぱり玉依だったんだ。きれいな人だったって言ってたよ」

「全部『優』で卒業させてあげて」

 笑いながらグラスを傾け、私の好みとは少し違う風味を味わう。私はやっぱりバーボン派だ。この味は、私には少し品が良すぎる。

「その話を聞いた時、変わってないなと思ったよ。あの頃の俺は、頼られる自分に酔ってたんだ。玉依のつらい話は信じてなかったのに、敢えて乗っかって理解ある振りしてた。周囲から一目置かれるような、懐の深い奴だと思われたくて必死だったから」

 広規は自嘲気味に明かしながら、長めの髪をかき上げる。酔いのせいか、通った鼻筋が白く照り、頬も赤い。あの頃もよく、夜中まで二人で飲んだ。外でも、家の中でも。好みの酒は違っても、同じ時を過ごせるのが幸せだった。

「でも玉依は俺と違うんだってあの日、はっきり分かったんだよ。昨日まではあんなに泣いていやがって俺がいなきゃ生きていけない感じだったのに、何事もなかったみたいに『お役目が入ったから行ってくるね』って。別人みたいにしっかりした、凛々しい表情だった。正直に言えば、話が本当だったからじゃなくて、その姿がショックだったんだ。それで勝手に裏切られた気分になって、耐えられなくて逃げた。思い出しながら、きっと今回も毅然と向かっていったんだろうなって、懐かしくも誇らしかったよ」

 少し視線を伏せ噛み締めるように話す広規に、こちらも酔いのせいか涙腺が刺激されて泣きそうになる。ごまかせなくなりそうで、残りの酒を飲み干して意識を逃した。

「今こうして会ってるのは、純粋に玉依の力になりたいと思ったからだ。まあ俺にできることには限りがあるから、『なんでも言って』なんて言えないけど」

「それで十分だよ。できない時はできないって言って。頼んでるくせに何言ってるんだと思われるかもしれないけど、危ない目には遭わせたくないから」

 猪口を置き頷いた広規に、居住まいを正した。

 まずは収賄事件の経緯と警察の捜査はお蔵入りになってしまったこと、その調査に能力を買われて公社へ派遣されたこと、米村の情報を調べたいが市役所界隈は禁じられていることを話す。その上で、米村の履修データや師事した教授などの情報が欲しいことを伝えた。

「大学の方は無理だけど、大学院の方なら研究内容と担当教官くらいならなんとかなる」

「ありがとう。よろしくお願いします。ネットで調べても卒論しか出てこなくて」

 初めて得た明るい兆しに思わず頭を下げる。

「頭下げるのはなんとかできてからでいいよ。できなかったら恥ずかしい」

 涙ぐんだ顔を上げれば、穏やかな笑みがあった。ああダメだ、泣いたらメイクが崩れてしまう。

「だめ、メイクが落ちるから笑わせて」

「無茶振りするなあ」

 明るく笑う声に、私も釣られて笑う。叶えられたわがままに目尻をそっと拭った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る