第22話

 結局、見合いの地獄からは逃れられなかった。

「随分、待たせてくれるよな」

 座卓の向かいで苛立つ祐二に、視線を落とす。今日も寒天くんのおかげでかなり楽だが、気を抜けば指が震えた。無意味にスーツの膝を払い、荒れそうな息を落ち着かせる。大丈夫、大丈夫だ。

「申し訳ありません。さっきから連絡してるんですが、繋がらなくて」

「気にしなくていいよ。別に今更畏まって話をするような仲でもないし」

 祐二の隣で宥めたのは、手嶋ではなく兄の了一だ。今日は手嶋の代理だと詫びられた。手嶋は、数日前から体調不良で臥せっているらしい。相変わらずまともで、私にもちゃんと優しい。だからこそなぜこの席を容認したのか、疑問だった。

 まあ今の問題はそこではなく、私の隣にいるべき伯父の姿がないことだ。

「さっき知り合いの方に家まで確かめに行ってもらうように頼んだので、少ししたら連絡が来ると思います」

 私は市内から戻ってきたし、伯父は山から下りてくる予定だったから、今日はまだ顔を合わせていない。料亭前で九時半のはずが、始まる十時になっても現れない。時間にルーズな人ではないから、何かあったと考えるのが妥当だ。

「金勘定で時間を忘れてるんじゃないのか」

「祐二」

 窘めるように呼ぶ了一に、祐二はうるさそうな表情を浮かべる。金勘定、と聞いて血の気が引いた。

「あの、まさか伯父がお金を出して見合いを頼んだんですか?」

「は? 散々せしめといて、バカにしてんのか」

 祐二は顔を歪めて、きつい口調で言い返す。だが、身に覚えのない言葉だった。

「金をせしめるって、どういう」

「もしかして、玉依ちゃん」

「知らないわけないだろ、こいつが全部」

「ちょっと黙ってろ」

 了一が遮ると、祐二は大人しく黙る。もしかしたら、手嶋より了一が苦手なのかもしれない。了一は戸惑う私を、じっと見据えた。

「父さんは祐二が玉依ちゃんをいじめてた頃からずっと、慰謝料の意味を込めて月に五万、進学する時には五十万ほど、払い続けてたんだ。春の一件では、百万払ったそうだ」

「うちに戻って、俺が経理を始めて気づいた。ついでに家の通帳を見直してたら、毎月不自然な出費があった。問い詰めたら、お前に払い続けてたと」

 了一の経緯に、祐二がぼそぼそと続ける。ただ、それもまるで身に覚えのない話だった。

「そんなこと、そんなお金は一切。この前の医療費だって全部自分で払いましたし、お小遣いもなかった。子供の頃は、最低限のものしか買ってもらえなくて。大学だって」

 慌てて返し、証明できる何かを探す。私はずっと、最低限のものしか与えられずに育った。かわいらしい鉛筆やノートやシールもなく、靴下は穴が空いても繕って履いた。うちは貧乏だと言われ続けて育った。

「高校の頃、伯父に『大学は入学金と一年目の学費しか払えない』と、はっきり言われたんです。だから奨学金とバイト代で通って、今も返済を続けています。通帳を見せてもいいくらいです。私は、そんな」

「また嘘か」

「嘘じゃありません! こんなことに嘘ついたって」

 吐き捨てるように言った祐二に身を乗り出して言い返した時、傍らで携帯が鳴る。表示された名前に、すぐ応えた。「眠っていた」ならいいが「倒れていた」だったら。一瞬脳裏を掠めたいやな予感に手が震えるが、告げられた事実はもっと不穏なものだった。

 電話を切って見た座卓の向こうから、二人がじっと私を見据えている。

「今、頼んだ人から連絡が来たんですけど、氷雪山が吹雪で近寄れないと。多分、父が」

 冬になれば氷雪山が吹雪くのは珍しくない。吹雪いていない日の方が少ない山だ。でも今は九月だ。人を遠ざけるほど吹雪くなんて、理由は一つしかない。

「父が本気で怒ってる。伯父を、殺すつもりです」

 震える声で告げた私に、二人は一瞬固まる。

「とりあえず、近づけるところまで行ってみよう。俺が運転するから、乗って」

 年長者らしく冷静に切り出した了一に頷き、全員が腰を上げた。とにかく父を止めなくては、本当のことが分からない。伯父がなぜ私に何も言わなかったのか、本当は何に使っていたのか。一つだけ思い当たる節はあるが、それは伯父を助けたあとの話だ。

 廊下を歩きながら携帯を取り出し、真方へ電話をかける。呼び出し音は土曜に関わらず、三回ほどで途切れた。

「なんだ、見合い先から逃亡か」

「そんな穏やかな話じゃありません。氷雪山が猛吹雪なんです。父が伯父を殺そうとしてます、助けてください」

「見合いごときでキレたのかよ」

「分かりませんけど、私達もこれから向かうとこなんです。真方さんも来てください」

「行くけど、俺の力は神本体にはほぼ通じねえからな。神に対抗できんのはお前だけだ。親子ゲンカだろ、自力で止めろ」

 そうは言っても、と返す前にぶつりと通話が断たれる。「そうは言っても」、私の術は父の力を借りているのだ。父の力を借りて父の力を止めるなんて、無理だろう。

「玉依ちゃん、行くよ」

「はい!」

 女将に説明を済ませたらしい了一の声に、慌てて後を追った。


 料亭のある一谷から我が家まで、急いでも十五分は掛かる。その間に、もう少し詳しい話を聞いておきたい。

「さっきの話の続きなんですけど、じゃあ、そのお金を取り返すために見合いをすることになったんですか」

 後部座席から投げた問いに、了一はバックミラー越しの視線を私へ向けた。

「俺は取り返さなくていいと思ってるよ。ただ、もうとっくに成人した祐二の代わりに父さんが払い続けるのが反対なだけでね。でも父さんは払うと言って譲らない。払えと言われたら、いつまでも言われるままに払うつもりなんだ」

「お前の家には俺が話に行った。でもお前に必要だって譲らなかった。だから苦肉の策で、俺が見合いを決めたんだよ。結婚すれば、これ以上吸い上げられなくてすむからな。籍だけ入れて、あとは死ぬまで離れて暮せばいい」

 助手席から、祐二はこの見合いが持たれた経緯を語る。そういうことだったのか。ようやく納得できる内容に、息を吐く。しかしまさか、祐二と意見が一致する日が来るとは思わなかった。ただ一つ、はっきりさせておきたいことがある。寒天くんに守られた今なら、言えるはずだ。

「手嶋さんには改めてお詫びしますが、私は慰謝料なんて望んでいません。お金を受け取れば、私の傷がお金で癒せるものだと思われるのに。私は、そんなものは要りません。全てが明らかになったら、何年掛かってでもお返しします」

 少し震えた声に小さく咳をして、膝の上で何度か手を握り直す。落ち着かなく震える手のひらの内側は、汗でじっとりと湿っていた。

「私の望みは、いつかあなたが人並みの罪悪感を身につけて罪悪感で潰れることです。今はもう、力を使えばあなたなんて一瞬で殺せますし、脚の一本でも潰せます。でもそれでは簡単すぎるし恨みで罪悪感を抱かなくなるから、絶対にしません。罪悪感は、終わりのない地獄です。私と同じように、救いのない地獄を味わって欲しい。それでしか、私は救われません。忘れないでください。私は一円たりとも、あなたのお金なんて要らないんです」

「神の力なんかねえよ。お前はどっかのクズの娘だ」

「祐二!」

「そうですね、確かに父はクズですし、そもそも人の都合でほいほい動いてくれるような神はいません。いたらあなたはもう、二十年近く前に私の願いで死んでいます」

 神の娘ではないと詰りながら、神の娘である私に執着する。いつまで、その幼い矛盾を引きずるつもりなのだろう。

 黙った祐二に一息つき、フロントガラスの向こうを眺める。祐二には認められないらしい神の力で霞に覆われた氷雪山は、真っ白になっていた。

 麓に近づくと、反対車線の車が増える。もしかしたら、ノーマルタイヤでは進めなくて戻ってきているのかもしれない。カーブを曲がった先に連なる車と吹雪で先の見えない空間に、確信した。

「多分、吹雪のせいで進めないんです。このままだと、事故が起きるかも」

 ほとんどの車は諦めて、どこかでUターンしているのだろう。

「すみません、降りてここからは走ります。気をつけて来てください」

「分かった。玉依ちゃんも気をつけて」

 答えて路肩へ車を止めた了一に頷き、外へ出る。途端に、びり、と強い圧が触れ、溶けるように寒天くんが消えた。来るなと言いたいのだろう。でも、そんなわけにはいかない。止められるのは、私だけだ。

 車の流れを確かめながら、白く吹雪く場所を目指す。

 これ以上私の家族を奪ったら、許さない。

 気を抜けば滲みそうになる涙に唇を噛み締め、ひたすらに走った。

 冷えた風が触れ始めた先には、車を降りた人達の群れができていた。九月の珍事に、携帯のカメラを向けている人達もいる。いつスリップした車が突っ込んでくるかも分からないのに、あまりに危機感がなさすぎる。

 群れの内に連絡してくれた人を見つけて、話を聞く。中は視界が悪く、とても家まで辿り着けるような状況ではないらしい。礼を言い、ひときわ冷えた空気の中へ手を伸ばす。途端、ばちん、と私を弾くようにはっきりとした拒絶が返った。

「通して! ここの道路を解放してよ、事故を起こして関係のない人達を巻き込むつもりなの?」

 父に訴えて再度触れるが、また弾かれるだけでとても入れそうにない。ほかの人や車は行き来できるのに、私だけができないのだ。腹立たしさに見えない壁を叩いていると、不意に中で鋭いブレーキ音と何かがぶつかる派手な音がした。一番恐れていたことに、胸の内で何かがざわめく。怒りと焦りと、よく分からない感情で全身が熱くなっていくのが分かった。

「道よ、拓いて」

 私ではない何かが私の口を使って、呟くように零す。次にはまるでモーセの海割れのように、白い靄が道を開いた。思わず面食らったが、悠長に眺めている暇はない。中へ走り込む私に合わせて、道は拓けていく。辿り着いた先には、事故を起こして道を塞ぐ二台の車があった。視界の悪いこの状況では、後続車がぶつかってしまう。また一か八かだが、仕方ない。さっきの言葉が使えるのなら、これだって可能なはずだ。

「吾に光を与え続けよ!」

 放った瞬間、車のライトが一斉に強い光を放ち始める。少し遅れて太陽光が、吹雪を抑え込むようにして足元まで届いた。細かな雪は、いたるところから重い雨粒に変わる。吹雪は、狙い通り雨に変わった。

 周囲を見ると、連なる車全てが煌々とヘッドライトを点している。人だかりは呆然と、局地的に雨の降る目の前の光景を眺めていた。光はまだ降り注いでいるが、力が削られていくのが分かる。今のうちに、助けなくては。

「事故です、誰か警察と救急車を呼んで! あまり持たせられないから、急いで!」

 雨の中から人の群れに叫び、事故を起こした車へ駆け寄る。激しくぶつかったらしい車の一つは軽自動車で、近づくと子供の泣き声がした。被害の激しい運転席側には、エアバッグに突っ伏した女性の姿がある。もう一方の車はセダンで、こちらもエアバッグが作動していた。老人、か。

「光よ、傷ついた彼らに癒やしと守りを与えよ」

 本格的な救助はできないが、これで時間は稼げるはずだ。

 光に包まれる姿を確かめ、後部座席のドアを開く。チャイルドシートでは、まだ一歳くらいの赤ちゃんが泣きじゃくっていた。

「大丈夫よ、大丈夫。おいで」

 宥める声を掛け、雨を避けながらチャイルドシートから赤ちゃんを抱き上げる。振り向くと、周囲の車から数人のドライバーが降りて来ていた。

「どなたか、この子を」

 掛けた声に、傘を差した女性が気づいて駆け寄る。私より遥かに慣れた腕に赤ちゃんを託し、すぐに山へ向かった。

 山へ入ればそこから先はまた吹雪で、氷雪が冷えた体を刺すように叩きつける。吸い込む風は冷たく、肺が冷えて痛んだ。足首まで積もった雪によろけつつ、歯を鳴らしながら感覚を失いそうな体を意地で前へと進ませる。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。私はまだ。

 ちらりと脳裏を掠めたドーベルマンに、凍りそうな頬が少し緩む。大丈夫だ、まだ笑える。でもこのままでは、辿り着く前に力尽きるかもしれない。まだ救急車のサイレンすら聞こえない背後に、荒い息を吐く。力を抜けばまた吹雪が復活してしまうだろう。それだけは絶対にだめだ。一人でも多く、助けなくては。

「氷雪山よ、聞いて。私を守って、父のところまで連れて行って。伯父さんを殺させるわけにはいかないの。お願い」

 幼い頃から共にあった山だ。父のものであっても、少しくらい。

 託した願いに、これまでとは違う風が吹き抜ける。吹雪が和らぎ拓けた視界の先には、大きくしなり天蓋を作る木々の姿があった。

「ありがとう」

 聞き届けられた願いに礼を伝え、先を急ぐ。道は、神籬の方へと続いているようだった。

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