第23話

 歩き続けること五分ほど、ようやく辿り着いた神籬の前では、予想どおり倒れている伯父の姿があった。以前聞いた、祖母の死に方と同じだ。

「伯父さん!」

 もつれる足で駆け寄り、ひざまずいて薄く積もった雪を払う。

「伯父さん、聞こえる? 伯父さん!」

 冷たくなった体を起こして抱き締め、声を掛ける。目は開かないが、かすかに呻くような声がした。

「大丈夫よ、絶対に助けるから、私が」

『玉依』

 初めて聞こえた低い声に、弾かれたように顔を上げる。姿は見えないが気配ははっきりと、神籬に感じられた。

『その男は置いて行け。一度ならず二度までも我が名を使い貶めたこと、許すにまかりならぬ』

「勝手なこと言わないで。私を育ててくれたのはあなたじゃない、伯父さんよ。あなたは私の家族を奪うことしかしてない」

麻子あさこを娶ったことは申し開きせぬが、私は徒に殺めるようなことはしておらぬ』

「何言ってんの。おばあちゃんを殺したし、登山客殺しまくってるし、そもそもそれで祟り神になったんでしょ!」

『どのように装備を固めようと一瞬の油断があれば命を落とすのが冬山、あの者らの死に私は何の手出しもしておらぬ。お前の祖母を殺めてもおらぬ』

「じゃあ、誰が」

『お前の祖母は、最後まで麻子を渡すことに反対していた。その母心が私の怒りに触れるとその男とお前の祖父は怯え、凍てつく寒さで命の灯が消えると知りながら家を追い出したのだ。山を下りることもできぬ祖母はその足でここへ来て、麻子の幸せを私に託して凍え死んだ。それを、その者らは私が呼びつけ歯向かった罰を下したことにした』

 父の言葉が、なぜかすんなりと胸に入る。信じられないと思いながらも、どこかで納得している自分がいた。

 周囲では、祖母の死は「失踪した娘」のせいだと言われている。父を信じる人達は、そのとおり祟りだと畏れた。伯父も祖父も、当然のようにその評価を知っていた。それでも一度も、母の真実を知っている私にすら、「気にするな」とも「あれは嘘だ」とも言ったことはなかった。まるで、息をひそめてその話題を避けているかのようだった。

「なんで助けなかったの? 神様なんでしょ、それくらいの力はあるくせに!」

『山から滑り落ちる全ての命は等しく同じ、情で助けるわけにはいかぬ。祖母が麻子の母でありお前の祖母であるように、滑り落ちて死ぬ者達も誰かの息子であり、親である。繋がりだけを尺度にして祖母を助けほかの命を救わぬのでは、神の道理に違うだろう』

「まあそうだよね、私がどれだけいじめられてても、一度も助けてくれなかった。どんなに助けて欲しいって祈っても、一度も」

『周りに私と同じように神の力を持ち、それを使い殺した親がおるか? 神なればこそ、できぬこともある』

 吹雪は既に収まり辺りは静まり返っていたから、声の揺らぎはすぐに感じ取れた。なんとなく居た堪れなくなって、伯父の体を抱き締め直す。どうにかして、連れて下りることを納得させなければ。

「じゃあどうして、今はその力で伯父さんを殺そうとしてるの」

『その男が再び我の名を使い、まるで我が意であるかのように謀りお前に望まぬ道を強いたからだ。一度は許すが、二度はない』

「でも、継がなきゃいけないんでしょ? そうじゃないと祟るって」

『私はそんなことを望んでおらぬし、祟ったことはない。殺めるのは二度謀った者だけだ。そもそも先に殺められたのは、私だ』

 え、と短く返したあとが続かない。伝承では「朝廷を恨みながらの憤死」とだけ、確かに殺されたとは書いていなかった。

『私は朝廷の命を受け、西方を調べるために下っていた。その最中に、宿を借りた村の者達に殺されたのだ。私の体は刻まれ、馬は食われ、持ち物は全て売り払われた。飢饉と疫病が流行ったのはそのすぐあとだが、そのような時代だ。珍しいわけではないが、誰ともなく私の祟りだと怯え始めた』

「それで、祀ったってこと?」

『そうだ。捨てた私の体を拾い集め、この山へ埋め神になるよう枷をはめた。怪しげな術を用いる者が、私の魂を閉じ込めたのだ。それがこの、稲羽家の先祖だ。あの者らは私に神の器を与えて力を持たせ、力を吸い上げて術を結び金を得た』

 自分達が欲のために殺し祟りを恐れて祀ったくせに、赤の他人が殺したかのように言い伝えたのか。

「なんて、ことを」

 大きく揺らぐ父の印象に、焦燥と悔いが湧く。私は、私だけではなく千年以上の間に生まれた一族は皆、知らず先祖の罪に加担していたのか。

『私は最初から神だったわけではない。上がれぬ魂を嘆き人を恨み神と世を呪い尽くし、千年の後にようやく神性が生まれ神となったのだ。今はもう、世も人も、何も恨んではおらぬ』

 穏やかな声に俯き、唇を噛む。父は、祟り神などではなかったのか。

 伯父も知っていたら、祖母を追い出さずにいたかもしれない。あれほどまでに、祟りを恐れなかったかもしれない。押し寄せる感情に、言葉が出なかった。

『麻子は、我が妻の生まれ変わりだ。再び見えるまでに時間は掛かってしまったが、今も変わらず愛おしい』

「……ああ、そう」

 突然投げ込まれた親の惚気に、思わず素に戻る。娘には、聞かせることではない気がする。

『姿は見せられぬし私のように声を聞かせてやることもできぬが、母としてお前をずっと見守っている。我が身が傷つくよりつらい思いを、人の親のように守ってやれぬ悲しみを私より深く感じていたはずだ』

 不意にこみ上げるものがあって、慌てて洟を啜る。これまでなるべく、母のことは考えないようにしていた。考えれば父が神であることよりずっと、自分を蝕むのが分かっていたからだ。母親と買い物に行った話をする友達を憎み、母親の愚痴を零す人の死を願いそうだった。自分がどれくらい荒んでいるのかは、よく分かっていた。

「伯父さんを殺すのは、お母さんも了承したの」

『ああ、承知の上だ。二度目がないことは分かっている。例え親子であろうと兄妹であろうと、神の名を二度謀ることは許されぬ』

 それではもう、連れて下りられないのか。何も分からないままで。

「稲羽!」

 聞こえた声に振り向くと、袈裟姿の真方がいた。面食らったあと、思わず視線を逸らす。

「早かった、ですね」

「喜べ、掛け持ちしてるこっちの寺で法事があったんだよ。住職に丸投げして来たわ」

「事故、どうなってますか」

 袈裟が濡れていないから、雨も吹雪も止んでいたはずだ。サイレンは、どうだったか。

「本職が来て救出作業中だ。二人とも意識は戻ってたから安心しろ」

「良かった」

 あとはもう、本職に任せるしかない。礼を言って見上げた隣で、真方は神籬に視線をやった。

「親子ゲンカは終わりか」

「終わりと言えば終わりなんですが、伯父を置いていくようにと」

 真方は私の腕でぐったりとした伯父を見て、鼻で笑う。揺れた法衣の袖から、ふわりといい香りがした。

「『こんな私を育ててくれたいい人』の裏が分かったか」

「真方さん、分かってたんですか」

「全部じゃねえけど、これでも坊主だからな。神仏に罰を受ける祟られるって言う奴ほど、それを免罪符に自分の理屈で好き放題してんだ。つっても神に神の理があるように、人には人の理があるんだよ。殺すのは、こっちの筋を通し終えてからにしろ」

『人の筋は神の理の下にあるもの、先に通さねばならぬ理由はない』

「人の筋は神の理の下にあるものだから、先に通さなきゃいけない理由はない、と」

「杓子定規で物言いやがって、お役所かよ。だから神は嫌いなんだよ。そもそも今こいつが放置して山下りて死なせたら、未必の故意で殺人罪だぞ」

 ああ、と気づいて視線を神籬にやる。

「私が捕まったら、お勤めが何もできなくなるけど」

「お勤め以前の問題だろ」

 真方はまた鼻で笑い、神籬を見据えた。

「人の世で償えるもんは、人の世で償わせる。神はそこから零れた罪を裁くもんだろ。先に手え出して甘やかしてんじゃねえよ。この世で死ぬまで這いつくばらせて泥水啜らせろ」

 それはある意味、今死ぬより厳しい処分だろう。でも私も、事実をうやむやにしたまま見送りたくはない。見たくない姿を見ることになっても、生きてきちんと筋を通して欲しい。

「伯父さんには、お金を返して謝らなきゃいけない人がいるの。おばあちゃんを追い出したことも、ちゃんと認めさせないといけない。今死んだら、人として反省できないまま終わってしまう。後始末まで、ちゃんと自分にさせたいの」

 重ねて訴えた私に、父はしばらく間を置く。緩く吹いた風に、木々の枝から雪の零れ落ちる音がした。

『それなら、その男の処遇はお前達に任せよう。ただそれは、お前達も相応の責を負うということだ。私はお前が娘であろうと、約束を違えば容赦はせぬ。忘れぬようにな』

「ありがとう」

 認められた訴えに安堵の息を吐き、真方を見上げる。

「認められました。ただし相応の責任を負うことを忘れるなと」

「一発OKかよ。娘には死ぬほど甘えな」

「真方さん!」

 顎をさすりながらふてぶてしく返す真方を、慌てて諌めた。

『お前が玉依の夫にふさわしいかは、今年の冬に試そう』

「えっ、ちょっと」

「なんだ」

「いや、あの……もしかしたら、今年の修行は例年よりちょっとつらくなるかもしれません」

「上等だ。下りるぞ、貸せ」

 真方は答え、私の腕から受け取った伯父を背負う。伯父は微かに目を開き、私を見る。声にならない何かを呟いて、また目を閉じた。

「すみません、先に下りててください。すぐ追います」

 伯父を真方に託し、私は再び神籬の前へ戻る。一息ついて、深く頭を下げた。

「何も知らなかったとはいえ、誤解し続けていてごめんなさい。多分すぐに何もなかったようには変われないけど、それでも、話ができて良かったと思ってる」

『どれほどの真実であっても、ありのままを受け止めるには時間がかかる。十や二十ではならなかったのだ。父としてお前の名を呼べる今を、何に感謝すれば良いのだろうな』

 穏やかな声が沁みて、泣きそうになる。もし私が変わらなければ、誤解は解けなかった。何も真実を知らず分かり合えないまま、見送られていた未来もあったはずだ。

『玉依。お前は確かに人の子だが、その半身は神でもある。特別な術式も私の名を呼ぶ必要もない。目覚めた己が神性に依って唱えれば良い。今のお前なら、もう使い方は違わぬだろう』

 ありがとう、と掠れる声で小さく零し、洟を啜る。肌に張りつくスーツの冷たさに今更震えたあと、真方を追った。

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