第21話

 ほんで、と切り出した真方に、助手席でびくりとする。

「俺と正木が無罪放免になった理由は」

「無罪放免じゃありませんよ。正木さんは二度目があればアウトですし、そもそもまだ決まってません」

「じゃあその、無罪放免になるための条件を言えよ」

 いつになく硬い声に、視線を落とした。まあ、このまま黙っていられるわけもない。

「私が、鏡を取り返すようにと。力を使って、二度と鏡を盗もうと思う輩が出ないように神罰を与えろと言われました。殺しても構わないと。つまりは、神の名を貶めるようなぬるい罰は許さないってことでしょうね」

 言葉の裏に含まれたものは、言葉以上の圧があった。神が人の子に、「この程度か」と力量を推し量られるようなことがあってはならない。名を聞いただけで震えるような、神たるものの恐ろしさを刻みつけなければならないのだ。

「できるのかよ」

「できるかどうかじゃなく、するんです」

 二人の命を助けるために、一人の命を危険に脅かす。あの店主が値段を釣り上げあくどい商売をしたのは確かだが、そもそも盗んだのは正木だ。眷属だって殺していない。そんな人を、見せしめにするのか。

――本当に、いいんですか。盗んだのは、罰を受けるべきは僕です。

 約束の中身は明らかにしなかったのに、正木は青ざめた表情で私に訴えた。

「鏡は買い取るとして、何をするかは、もう少し考えます」

 山の怪の次は、人か。こうして、手を汚すことに抵抗を失くしていくのだろう。ドアに凭れ、流れていく街の景色を視界に流す。私だけが苦しいなんてあるはずがないのに、今はその考えがこびりついて離れようとしなかった。


 『報告書の件、承知しました。数日中には提出します』

 昨日、終業間際に送ったメールの返事は『よろしく頼む』だった。いたって普通の返答だ。「機備課を潰せ」なんて、表でも裏でも出たことはない。

 埃にまみれた手を払い、できたスペースに記念誌のストックを収納する。林業公社の設立五十周年を記念して発行されたものらしいが、今や倉庫に投げ込まれてこの扱いだ。

 埃を被った表紙を軽く払い、なんとなくめくってみる。『新理事長就任』のページに、ふと手を止めた。

 そこには今より少しだけ若くふっくらとした理事長の笑顔と挨拶、錚錚たる経歴が連なっていた。

 地元大の農学部を出たあと旧帝大の大学院へ進学、アメリカの大学で研鑽を深めたのち砂漠・砂丘地の植林指導のため各国を回る。帰国後は地元大学農学部付属の緑化研究所へ勤務、後に大学へ移り教鞭を執る、か。あんなフランクに接してくれるから気にしていなかったが、実はすごい人だったらしい。

 不意に響く電話の音に記念誌を棚へ突っ込み、デスクへ向かう。埃っぽい空気を払いつつ応えた相手は、新田だった。

「おはようございます」

「おはよう。業務前に悪いね、倭は来てるか」

「いえ、まだですが」

 答えつつ、まだ姿のないデスクを見下ろす。こざっぱりとしたデスクには本棚とパソコン、灰皿のみだ。こんなところは僧侶らしい。

「お急ぎでしたら、連絡してみましょうか」

 別に、真方が遅刻しているわけではない。今日はたまたま、私が早く来ただけだ。神との約束を考え続けて昨日は眠れず、気晴らしに早く来て手を動かしていた。

「いや、いいよ。倭が来たら、来るように言ってくれ」

「分かりました」

 答えて電話を切り、一息つく。

 神は期限を切らなかったが、だからといって「いつでも良い」わけではないのは分かっている。速やかな対応を、しなければ。

――それで情けを掛けたつもりか。何も分からぬ愚か者が!

 愚か者、か。冷えた指先を握り締め、長い息を吐いた。


 再び新田が電話を鳴らしたのは、昼前だった。今度は二人揃って呼ばれ、いつものように新田の部屋へ向かう。

「もしかして、あの約束の内容を新田さんに話しました?」

「さあな」

 短く答える真方は、昨日から素っ気ないままだ。いい加減、私の浅はかさに呆れているのだろう。ビジネス契約すら破棄されるかもしれない。

 相変わらず何も喋らない真方に続いて、エレベーターを降りる。重い足取りで新田の部屋へ向かった。

 気を取り直してノックし、開いた先には先客がいた。私達の姿を見てすぐ立ち上がったのは正木と、初めて見る女性。彼女だと、すぐに分かった。

 昨日より落ち着いた表情を浮かべる正木に戸惑いつつ、新田に招かれるままソファへ座る。

「稲羽に報告がしたいと訪ねて来られてな。ただ機備課に招くのはあれだから、こちらへ来ていただいたんだ」

 確かに、あそこは窓もない穴蔵のような場所だ。客人を招くのは気が引ける。それで、と新田が向けた視線に正木は頷き、私を見た。

「実はあのあと、自殺しようと考えたんです。稲羽さんが神様とどんな約束をされたのかは聞こえませんでしたけど、僕を助けるために何かしたくないことをされるのは分かりました。盗んだのも悪いのも僕なのに、本当に情けなくて。僕が死ねば保険金が下りるから、それで買い戻してもらえたらと思って」

「そう、だったんですか」

 確かに、責任感の強い人なら考えられる選択だ。もし、と思うだけで肌が粟立つ。安堵の息を吐く私に、隣の彼女が小さく頷く。ショートカットがよく似合う、利発そうな女性だ。

「昨日の夜、彼から突然電話が来て『別れて欲しい』って。驚いて理由を聞いても泣くだけで何も答えなくて、ヤバいなって思って会ったんです。それで、全部聞きました。私がそんなに追い詰めてたなんて、全然知らなくて」

「彼女が、私が出すって言ってくれたんです。それで今日の午前中、二人であの店へ鏡を買いに行って、さっき神様にお返ししてきました」

「大丈夫でしたか」

「はい。昨日より緩やかな風が吹いて、気のせいかもしれませんが『二度はない』と聞こえました」

 無事に終えたらしい一幕に、深く安堵の息を吐く。もしかしたら、神はこれを望んでいたのかもしれない。

「良かった、お許しくださったんですね」

 一晩中考え続けた重苦しい計画が、胸の内から消える。明らかに体が軽くなったような気がした。改めて、お礼に行かなくては。

「本当に、ありがとうございました。僕、これまでこんな命の危機には遭ったことがなくて。ドラマとか映画で観るような助けなんて現れないし、自分もできないだろうと思ってました。でも今回のことで、考えが変わりました。自分もしっかりしなきゃなって」

「変わるきっかけになれたのなら、良かったです。でもまずはすぐそばにいる人を、いてくれる人を守れる人になってください。誰かがそばにいてくれるのは、当たり前のことではありませんから。どうかお互いを大切に、幸せになってください」

 自分のものとは思えない台詞が、気づけばこぼれ落ちていた。もしかしたら私の中にも一箇所くらい澄んだ場所があって、そこが言ったのかもしれない。私らしくはないが、悪い台詞ではなかった。

 はい、と答えて満面の笑みで頭を下げる二人に、冷え切っていた指先が温かくなるのを感じた。


 晴れやかな表情の二人を見送って戻ると、渋い顔をした二人が残っていた。

「どうしたんですか。さっきの二人に、何か問題でも?」

「問題なのはお前だ。お前が二度も死に掛けたせいで、県から調査と指導が入るんだとよ」

「倭」

 新田は窘めるように真方を呼んだあと、私をソファへ手招きした。県から調査と指導、は分からないではないが、分からないことになっている。

「県から調査と指導って、私が『それ』なんですけど」

「それが二度も死に掛けたんだから、そりゃこうなるだろ」

「でも一回目は私事での負傷じゃないですか。誰の指示ですか」

「農林水産部長だ」

 でも、まだ報告書も上げていないのに。

「私は、どうすれば」

「ここへ来た目的からは外れてしまうけど、しばらくは内勤で頼みたい」

「でも、それでは」

「倭の話だと、今回は彼の身代わりになろうとしていたそうだな」

 新田の指摘に、口を噤む。今朝真方を呼んだ電話は、それだったのか。

「稲羽の三度目を防ぎたいのはもちろんだが、現場の安全のためにも機備課を潰すわけにはいかないんだ。分かって欲しい」

「承知しました。では、失礼します」

 力なく了承を返して頭を下げ、腰を上げる。真方の表情は確かめず、部屋をあとにした。

 やはり部長は事件の調査ではなく、機備課を潰す目的で私を送り込んだのかもしれない。本当の狙いは、新田の失脚か。でも。

 新田が怪しいと報告したのは私だ。

 取り出していた携帯をポケットに戻し、エレベーターへ乗り込む。今は、気持ちを切り替えよう。

 内勤で真方がいないのなら、事件のことについて調べるには好都合だ。とりあえず、今は米村についての情報が欲しい。市役所関係が一切探れないなら、それ以外の経歴から可能性を探るしかない。残されたのは、大学だ。

――え、マジで? 誰? ポスドクにいるかも。

 一人だけ、頼れるかもしれない人がいる。検索窓に名字だけ打ち込んで、ためらう。地下へ着いたエレベーターに画面を閉じて、デスクへ戻った。


 瀬田せた広規ひろき。改めて検索した名前は大学ではなく、SNSで見つかった。もちろん同姓同名はいるだろうが、明記してある大学名と所属先と研究員の身分を見る限りは、彼だった。

 更新している内容はもっぱら研究に関係するネット記事や論文のピックアップと読書記録で、そういえばかつて本を勧めて感想を語り合っていたことを思い出した。恋心が消えた胸にも思い出はそれなりに美しく、想像以上に堪えるものだった。大学のホームページより余程敷居は低く距離も近いはずなのに、その先に進めずページを閉じた。

 もし連絡して『今どうしてる?』と聞かれたら、私はなんと答えるべきだろう。『結婚したくなくて直属の上司にビジネス彼氏を演じてもらってる』とか『憎しみ合っている男と見合いして結婚する』とか。告げたらまた彼は、何も言わずに逃げるのだろうか。

 視線の端で確かめたカレンダーに、溜め息をつく。見合いはもう今週末だ。氷雪山に隕石が落ちて、それどころではない状況になればいいのに。噴火でもいい。

 現実逃避にしばらく浸ったあと、諦めてパソコンへ向かった。

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