第19話
翌週の月曜日、朝一で新田に呼び出された理由は新規案件でも進捗状況の確認でもなかった。
「昨日稲羽が寺へ挨拶に来たと聞いたんだが、何かの間違いだろうか」
「間違ってねえよ、来たんだよ挨拶に。喜べ、嫁が来るぞ」
三人掛けの真ん中にふんぞり返って煙草を咥える真方に、新田は深い溜め息をつく。
「やっぱり、同じ部屋に入れたのは間違いだった」
「人を節操なしみたいに言ってんじゃねえよ。同意の上だ、な?」
最初の煙に目を細めて、真方はこちらを窺う。
昨日は約束どおり私が寺へ伺ったが、住職の歓待ぶりには心が折れるのを通り越して血を吐きそうだった。住職は小柄でちんまりとした好々爺で、私の生まれ育ちにも多大な慈しみをお寄せくださった。今もものすごく、ものすごく心が痛い。
「はい。一昨日は、うちにも挨拶に来てくださいました」
控えめに答え、居住まいを正す。いろいろと引きずっているのは私だけらしい。真方は朝から平常運転だった。
「稲羽はこいつの本性を知ら……知ってるな、一緒にいて酷い目に遭ってるもんな」
「素直に喜べよ」
「お前の面倒を任せられる人がいればと常々思ってたけど、なんで稲羽なんだ。稲羽はもっと苦労しなくてすむ奴と幸せになるべきだろう」
新田の言葉が心からのものに聞こえて、胸が痛む。この人は、私を生まれ育ちで蔑まない。自分に流れている血も、決して卑下することはないのだろう。もしかしたら、米村は新田の力に気づいたのかもしれない。化け物呼ばわりした米村に、憎しみを募らせてひどい殺し方をした、か。新田の力が分からない以上は、予想するしかない。
「俺以外にこいつの手綱が握れるかよ」
「お前が握られる方だろ」
「だからオヤジは甘いんだよ。こいつはだーいぶ強かなタマだぞ」
悠然と煙を吐き出しながら私を眺める視線に、いやな予感がした。バレてはいない、はずだ。
「損得勘定でしか動きませんからね。間違ってはいません」
苦笑し、それとなく矛先を資質へと向けておく。あと半年、結果を出すまでバレるわけにはいかない。警戒されたら、何も探れなくなってしまう。
全く、と零す新田の背後で電話が鳴り、私と真方は腰を上げる。デスクへ向かう新田に頭を下げて部屋をあとにした。
「新田さんには話しても良かったんじゃないですか」
「これでいいんだよ、面白いだろ」
真方は煙草を携帯灰皿へねじ込み、軽く笑う。
「またそんなことを」
眉をひそめて見上げた向かいで、エレベーターの扉が開く。中で少し驚いた表情を浮かべたのは、理事長だった。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。真方くんも、おはよう」
朝から満面の笑みを浮かべる理事長に癒やされる。どうも、と短く返す失礼な真方を軽く小突いた。
「新田くんのとこに用事か。仕事が入った?」
「いえ、進捗状況の報告です」
「そうか、朝からがんばってるな。僕もがんばらないとね」
理事長は扉を押さえる私の横をすり抜け、こちらへ出る。
「じゃあね」
「はい。失礼いたします」
手を振る理事長に頭を下げ、エレベーターへ乗り込んだ。
「よーく転がってんなー」
「失礼ですよ」
また眉をひそめて見上げた先で、真方は軽く笑う。
「オヤジも甘いけど、お前も大概甘いんだよ」
意味ありげな言葉を投げて、真方は新しい煙草を咥えた。何が、と聞きたいが今は深入りしない方がいい気がする。
「それで、白蛇山の一件はどうですか」
「ああ、あれな」
切り替えた話題に、真方は頷く。
「やっぱ出土の報告はなかったわ。で、ちょろまかした奴を探ったんだけど、まず考古学マニアはいなかった。なら売っ払ったってことだろうと算段つけて聞いて回ったら、面白えことが分かってな」
少しの揺れを与えて止まった箱に、火をつけて外へ出た。
「急に金回りが良くなった奴はいなかったけど、急に金に困り始めた奴がいたんだよ」
「どういうことですか」
倉庫のドアを開けながら尋ねた私に、真方は煙を吐き出しながら緩く笑う。
「それを今日、確認しに行くんだよ。用意したら出るぞ」
「はい。メールチェックを終えたらすぐ出られます」
私にはまだ分からないが、真方は何か掴んでいるのだろう。大きく引いたドアを真方は先にくぐり、私はあとに続く。半年一緒に働いたが、女扱いされたのは二人で飲んだあの日だけだ。別にいい、というよりむしろその方がいいんだけど。妙な心地に傾きそうな胸の内を整え、自分のデスクへ戻る。新田のところへ向かう前にもチェックしたから、多分そんな大層なものはないだろう。
小さく受信を告げる音に確かめた一通は、部長からだった。簡単に言えば、表向きの調査状況をまとめた報告書提出の要請だ。しかし新田の管理能力に関する項目を設けよ、とは。
「なんだかなあ」
「なんだ」
思わず漏れた言葉に、真方が反応する。
「いえ、あの、部長から報告書の要請メールが来たんですけど、仕様が細かくて」
「あいつオヤジとバッチバチだからな。お前がちんたらしてるから痺れ切らしたんだろ」
初めて聞く内幕に、え、と短く漏れた。
「どういうことですか?」
「オヤジが市役所勤めしてた頃にかなりやりあってたらしいぞ。去年あっちが農林水産部長とうちの理事になってから、機備課はずっと目の敵だ」
部長はそれを隠して、私をここへ送り込んだのか。部長が望むものは、本当に事件の真相究明なのだろうか。
「なんで、もっと早く教えてくれなかったんですか」
「その方が面白いだろ。あ、市内の古物商をリストアップしてくれ、特に骨董屋と古美術な。持って出る」
「はい、すぐに」
腰を据え直して再びパソコンへ向かい、市内の店を検索する。今は、目の前にある仕事だ。
「古物商自体は十三軒、古美術系はそのうち六軒ですね。ひとまず両方印刷します」
真方の算段では、この店のどこかに鏡があるのだろう。早く見つけて返さなければ。きっと今も、泣きながら待っているはずだ。数百年経ち相手を喪ってもなお、あんなに想えるなんて。私には、決して与えられない。
「印刷できました。行けます」
印刷されたリストをクリアファイルへ納め、バッグを掴む。煙草をにじり消す真方を待って、調査へ向かった。
これまでと違う反応を得たのは、公社に近いところから回り始めて四軒目の古美術商だった。古い店構えには所狭しと、真贋の分からない壺や器が置いてある。正月に良さそうな漆の重箱は、品の良い南天の金彩だった。
「銅鏡ね、どうだったかな。そんなものが持ち込まれた気はするけども」
八十を超えているであろう店主はよろけながら腰を上げ、小上がりから下りてくる。
「銅鏡、銅鏡ねえ」
小さく繰り返しながらくすんだガラス棚の中を確かめていく。
「ああ、これじゃないかな」
足を止めて、細く枯れた指を差した先を見る。そこにあったのは確かに銅鏡だった。もちろん、本物の姿を知らないから当たりかどうかは分からない。
「すんません、これ触らせてもらうことはできます?」
「ああ、いいですよ」
真方の要求に答え、店主は震える指でガラス棚の扉を引い……引けないらしい。
「あの、もしよろしければ私が開けて取りますが」
「あ、そう? ごめんねえ、指がうまく引っ掛からなくて」
皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑う店主に代わり、私が浅いくぼみに指を沿わす。古びたガラスの扉は、ぎこちなく震えながら引かれた。
「持ってみろ。お前なら分かるだろ」
顎で指図する真方に頷き、飾られていた銅鏡へ手を伸ばす。ところどころ錆びてはいるが、裏面には繊細な文様が残っている。松と、二羽の鳥か。夫婦と永遠の絆を表現したものかもしれない。
では、と小さく零して両手で掴む。途端、銅鏡から勢いよく何かが流れ込んで、堪えきれず目を閉じた。
ゆっくり目を開くと、山の中だった。前回と同じ山かもしれないが、今回は冬だ。また、来てしまったのだろう。一息つき幼い手足を確かめたあと、薄く積もった雪の中を下っていく。現実ではないのに、手は冷たく悴んでいた。
前回と同じように見えてきた池へと森を抜け、寒々しくも澄んだ池と一面の雪景色を眺める。まだ、周りの山々も切り崩されず聳え立っていた。今はもう、見ることの叶わない美しい景色だ。
吹き下ろした寒風に身を縮めて確かめた隣には、前回のように神の姿があった。しかし、今回はそれだけではない。さめざめと泣く神の前には、男がうつ伏せに倒れていた。その周りの雪は、赤く染まっている。
前回のように近寄るのもためらわれて、遠巻きに窺う。
「私だけを、私だけを愛すと誓ったのに」
その言葉だけで、何が起きたかは想像できた。男はもしかしたら、跡継ぎを持つために新しい妻を娶らなければならなくなったのかもしれない。でも神にとっては、裏切りでしかなかったのだろう。悲しくも美しく終わった伝承の、生々しいその後だ。
視線を落とした先で雪に埋もれていく男を眺める。永遠に続く絆や愛なんて、やはりありえないものなのか。
ふぶき始めた雪に天を仰ぐ。薄曇りに散る点描を眺めて何かを恋しく思った時、視界が揺らいだ。
「……あ」
次にはもう、この世に戻っていた。手にはあの銅鏡が収まっている。
「どうだった、当たりか」
尋ねる真方に頷き、息を深く吸った。
「間違いありません。これは白蛇山の神の銅鏡です」
胸は痛むが、今は仕事だ。裏切られて殺してもなお、愛し続けている神のために。
「この銅鏡を売った人とどのようなやりとりをなさったか、教えていただけませんか」
「さあ、どうだったかな。だいぶ耄碌してるもんでね」
「そんなこたあねえんじゃねえか、じいさん」
突然いつもどおりの口調に戻った真方に驚く。真方は手を伸ばすと、銅鏡の脇に置いてあった値札を手にした。
「『100万』とは随分、大きく出たな」
「この鏡は、それくらいの価値があってもおかしくないもんだからな」
「そうか。でも持ち込まれた時は、そうは思ってなかったんじゃねえか」
真方は鼻で笑い、『100万』と書かれた値札シールをかりかりと剥がす。
「元値は『50万』になってんぞ。この短期間に倍とは、よっぽどの事情があったんだろうな。儲けるチャンスが来たか」
こちらへ向けた値札には、確かに『50万』とある。思わず確かめた隣で、店主はしゃがれた声で刻むように笑った。さっきまでとまるで違う、狡猾な表情だった。
「よくよく見ればいい鏡だと分かったってだけだ。それはいいから、買うのか」
「バカ言うな、盗まれた出土品だ。じいさん、知ってて買ったな?」
「さあ、わしはなんも知らん。買わないのなら返してくれ」
店主はふてぶてしい声で返すと、私の手から銅鏡を引き抜く。
盗品と知った上で買えば、盗品有償譲受け罪だったか。懲役か罰金か、とにかく罪に問われるはずだ。
「盗品だって言うなら、ちゃんとした証拠を出してくれ。出土品ならお役所の書類があるだろう」
「市に報告する前に盗まれたんだから、あるわけねえだろ。でもここで売ったのは確かなんだよ。あの鏡を売った奴の身元確認書類と売買契約書を見せろよ」
「警察でもないあんたらに、見せてやる必要がどこにある? 悪いが、個人情報とやらにやかましいお上に睨まれたくないんでね。さ、商売の邪魔になるから帰ってくれ」
店主は銅鏡を元の位置へ収めると、ガラス扉を閉める。震えてはいたが、さっきまでより余程矍鑠としていた。騙された。クソじじい、と真方が独り言にならない大きさで呟く。
「神様へ返さなければ、祟りが起きます。あなたの身も安全ではないんです」
「いつでも渡すよ、金さえ払えばね。祟りが怖くてこの仕事をやってられるか」
老獪は鼻で笑い、骨董品の隙間を縫って再び小上がりへ戻った。信じていないのだろう。これだけ古いものを扱っているのなら、付喪神の気配くらい察知していても良さそうなものだが。横を向けばすぐ視線の合った人形達に軽く頭を下げ、溜め息をつく。
「残念ですが、仕方ありません。どうか、お気をつけて」
既にこちらを見る気もなさそうな小さな背に頭を下げ、店を出た。
「あいつ、似たような商売でだいぶ他人の金をむしり取ってるな。そこら中が怨嗟の念で、気分が悪くなったわ」
真方は車へ向かい、襟元を緩めて首を回す。私が何も感じなかったのは、これのおかげか。ちょんとつつくと、ぷる、と揺れる。
「私が大丈夫だったのは、寒天くんのおかげですね」
「寒天くん?」
「この壁、寒天みたいにぷるぷるしてて、かわいいんですよ。いっつもくっついてくるし、守ってくれるし」
「守護の術なんだから当たり前だろ」
「まあそうですけど。犬みたいで愛着が湧いたので、名前をと」
「飼えなくて拗れ始めてんな」
新しい煙草を咥え、真方は車に乗り込む。そうかもしれないが、かわいいのだ。苦笑して私も助手席へ乗り込み、すぐに窓を開けた。
「警察に連絡して、協力してもらった方がいいでしょうか」
「それをしたら、警察からダイレクトに市の収蔵庫に入るだろ。一度入っちまったら、白蛇山のもんだから祠に返せって言ったとこで応じねえだろ。取り返して、池に放り込んでやるしかねえよ」
真方は煙草に火をつけ、最初の煙を吐き出したあと車を出す。
「それで、真方さんは売った人の目星はついてるんですよね」
「ああ。これからそいつに会いに行くんだよ。俺の見立てが正しければ、ヒイヒイ言いながら金策に走り回ってるはずだ」
「売ったけど、買い戻そうとしてるってことですか」
「そうだ。おそらく金に困って、魔が差してちょろまかしたんだろ。でも売っ払ったあとから現場に不審な事故が起こり始めた。恐ろしくなって買い戻しに行ったら売った値段の何倍か、とにかく手が出ねえところまで釣り上げられてた。それで周りに、金を借りられないか聞いて回ってたんだよ」
なるほど、そういうことか。それなら売っ払った相手は、まだ話の通じる相手かもしれない。誠心誠意詫びれば、神も許すだろうか。
「さっき鏡に触れた時、また神様のそばに行ってたんです。あの伝承、永遠の愛を誓い合って終わり、じゃありませんでした。多分、地頭が跡継ぎを持たなきゃいけなくて新しい妻を娶るか何かしたんでしょうね。裏切ったって、神様に殺されてました。私だけを愛すって誓ったのにって」
「女は怖えな」
ひと括りにされるのは心外だが、「怖くない」とも思えない。腹黒い女なら、周りを探す必要はない。
「でも、不思議ですよね。神なら人間の弱さや業くらい、分かってるはずじゃないですか。裏切るのも忘れるのも、違う人を愛すのだって、そう作ったのは神です。分かってて、どうしてこんな弱い生きものを信じようと思ったんでしょう。神が、人の愛なんて不安定で頼りないものを求めるなんて」
しかも神は今も、自分が殺した男との失われた恋の残骸を心の寄す処にしている。永遠の愛を誓ったあの一瞬を全てとして、存在しているのだ。
「たまたま惚れたのが人間だったってだけだろ」
「なんか、不倫した人の言い訳みたいに聞こえますけど」
好きになった人がたまたま既婚者だっただけ、なんて使い古された言い訳だ。
「俺は別に不倫否定派じゃねえからな。金積んで別れるなり子供手放すなり、筋を通しゃいいだろ」
「でもそうやって筋通してくっついても、また失せるんですよ」
「失せるとは限らねえだろ。続くとも限らねえけど」
「そんな一か八かの賭けに、人生を賭ける意味ってあるんですかね」
「ここでその疑問を投げても『ねえよな』『そうですよね』で終わるぞ。議論に実りを求めるなら、ある派に投げろよ」
まあ確かに、お互いビジネス彼氏彼女が必要なほど本物を求めていない。二人ともやさぐれすぎて、建設的な会話ができないのは確かだ。
「新田さん、ある派っぽいけど離婚してるしなあ」
「やめてやれ、泣くぞ」
新田なら切々と家庭の大切さを解いてくれそうな気はしたが、やっぱりだめか。夫婦や家庭に幸せな理想を描いたところまではいいが、挫折した人でもある。
「そうやって考えたら、最初から死ぬほど嫌いな女を嫁にしようとする祐二の選択は、正しいような気がしませんか。愛情一切ないんですよ。私に対するいやがらせと氷雪山を開発するためだけに結婚するんです」
「いやがらせに人生賭ける方が結婚よりねえよ。マジで見合いすんのか」
「はい。なんかもう、籍だけ入れて完全別居して私はドーベルマン二匹飼って守られながら粛々と暮らせばやっていけるような気がして」
「いけるかよ」
鼻で笑う真方に苦笑を返し、風の吹き込む窓外を眺める。少しずつ夏が抜けて、町並みを照らす日差しは柔らかくなり始めていた。
「でも、祟り神の娘にはちょうどいいような気がしませんか。この世に産まれてきた罰ですよ」
それでもまだ私にはきつい眩しさに目を閉じ、長い息を吐いた。
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