第18話

 着いた屋敷では、伯父が庭の掃除をしていた。ただいま、と告げると顔を上げ、ああ、と答える。

「休みの日にすまんな。電話ですませる話じゃないから」

「いいよ。家にいたってごろごろしてるだけだしね」

 縁側に腰を下ろし、足先をぶらつかせる。高く設えられた縁側は、この年になってもまだ足が着かない。幼い頃は暗く冷ややかな縁の下が恐ろしくて、なるべく見ないようにしていた。

「伯父さん、今年で五十八歳だよね」

 本題を切り出し兼ねている伯父に、別の話題を提供する。

「ああ、来月な。どうした」

 伯父は箒の手を止め、腰を起こす。背は真方と同じくらいだが中肉中背、年をとって少し肉がついた。濃いめの顔立ちは私と違い、祖父似だ。白髪の多い癖毛は土曜でもきちんと整えられてこざっぱりとしている。縁なしの老眼鏡は、掛けっぱなしになって何年経つだろう。

「うちの専務理事、新田友孝ともたかさんっていうの。市内の人だけど、子供の頃に一谷の家に預けられてたんだって。伯父さんと同級生だよ。小学校は街の方だから違うけど、中学は同じでしょ?」

 伯父は私を見ないまま、小さく頭を横に振った。

「いたような気はするけど、よくは覚えてないな。向こうが言ったのか」

「ううん。息子さんに聞いたの。新田さん自身は何も」

「そうか」

 伯父の声がどことなく安堵したように聞こえて、じっと窺う。何かを隠したのは確かだ。もしかして、伯父は新田の秘密について何か知っているのではないだろうか。

「ちらっと小耳に挟んだんだけど、新田さんが能力者って聞いたことない?」

「いや、ないな。どんな人だったかも覚えてないくらいだから」

 伯父は私の誘導には乗らず、また箒を動かし始める。これ以上は引き出せない、か。でも、この町に新田の秘密に関する情報があるのは確かだ。ただ、それを暴いて私は本当に、後悔しないのだろうか。

「そっか。それで、お見合いについてだけど。相手は私も知ってる人?」

 一呼吸置いて切り出すと、伯父は山茶花の陰に腰を屈めてちりとりを手にする。

「祐二だ。手嶋さんとこの」

 間を置いて伝えられた相手に、短く吸った息が詰まる。目眩に目を瞬かせ、早鐘を打ち始めた胸を押さえる。それでも真方の守りのおかげか、予想よりは正気を保っていられた。

「どうして、そんな」

「向こうの希望だ。お前でも構わないと言ってるんだ、断る理由はないだろう」

「ないわけないでしょ! 私が、どれだけ」

「家を存続させねばならんのだ。家が、血が途絶えて山を守れなくなれば、町や周りにどんな祟りがあるか」

 伯父はちりとりへと落ち葉の山を移し始める。私を見ない横顔に、視線を落とした。

「……伯父さんは、私の幸せより家の方が大切なんだね」

「町や人の生活を守るためだ。この家には、個人の幸せより優先させなければならないものがある。何度も教えてきたはずだ」

 だから伯父も、家庭を手放しこの地に残った。それは分かっている。でも。

「好きな人と、結婚もできないの?」

 ぽそりと呟いた私に、伯父はちりとりを手に立ち上がる。

「そんな相手がいるなら呼びなさい。見合いは来週の土曜だ。断るなら、早くしなければ失礼になる」

 要求されたところで、いるわけがない。無駄な抵抗だ。でも、祐二だけはいやだ。いやがらせで結婚を持ち掛けるような相手と、一緒に生きていけるわけがない。

 脳裏を掠めた顔に、寒天くんをちょんとつつく。ほかに、頼れる人もいない。また地酒で手を打ってもらうしかないだろう。分かった、と小さく答えてふらつく体を起こし、ひとまず自分の部屋へ向かった。

 とはいえ、今は絶賛お勤め中だろう。土日はビジネス坊主で暇がねえ休ませろクソが、と文句を垂れていた。約束を取りつけて地酒一本、召喚でもう一本、礼と詫びで計三本で大丈夫だろうか。

 迷いつつ着信履歴から真方を選び、耳に当てる。長く鳴ったあと流れ出した留守番電話サービスの声に、諦めて終話ボタンを押した。そううまくいくわけがない。

 でも、どんな目的であれ「見合い」だ。家同士の結びつきを、祐二の一存だけで決められるわけはないだろう。要は、手嶋や了一も許したのだ。もう手がつけられないから、好きにさせることにしたのかもしれない。でも私から引き離すためだけに祐二を県外の寮へぶちこんだ手嶋が、そんな無責任なことをするだろうか。あの人は、親の責任を放棄して逃げるような人ではない。祐二は最悪だが、手嶋の姿は尊敬していた。私にもあんな父親がいればと願ったこともある。だから何か、理由が。

 不意に手の中で揺れ始めた携帯に、慌てて画面を確かめる。表示された真方の名前に、すぐ通話ボタンを押した。

「どうした、眷属に襲撃されたか」

 開口一番の台詞に驚いたあと、視線を落とす。それに比べれば随分小さく、どうでもいい内容だ。命の危険に晒されたわけではない。

「いえ、大丈夫です。相変わらず守られてますし、眷属の襲撃もありません」

「じゃあ、なんだ」

 続いた問いに、答えをためらう。今更気づいたが、お勤め中の時間を割いてまで聞いてもらうほど重要な頼みではなかった。往生際が悪い私の、ただのわがままだ。

「すみません、お勤め中に。そんな大したことじゃないって今気づきました。ドーベルマン二匹飼って、死ぬまで守ってもらえばいい話かもしれない」

「犬がいるかどうかは俺が判断するから言え」

 ぶっきらぼうに答える真方に、小さく頷く。

「実は、実家に呼ばれたのは見合いの話が来てたからなんです」

「めでてえな」

「普通ならそうかもしれないんですけど、相手が手嶋祐二なんです。真方さんがぼっこぼこにしてしまった、例の」

「あのクソガキ、まだ懲りてねえのかよ」

 真方は舌打ちしたあと、盛大な溜め息をつく。耳元に響くざらついた音に苦笑した。

「でも『見合い』なので、本人の意志だけではないはずです。手嶋さんも賛同したと思うんですが、それが信じられなくて。何か理由があるのではと」

「もうどうにもならねえからお前に手綱を渡したいってだけじゃねえのか」

「その可能性もあるんですけどね。あ、で、ご相談したいのはそこではなくて」

 そちらも気になるのは確かだが、真方に依頼したいのはそこではない。急に押し寄せた緊張と気恥ずかしさに胸を押さえ、深呼吸をする。大丈夫だ。別に、告白するわけではない。

「真方さん、ビジネス坊主してるくらいだから、もう一つビジネスが増えても問題ないですよね?」

「また悪いこと考えてんな」

「見合いを断るにはそれに値する理由が必要で、要は結婚を約束するレベルの相手が必要なんですよ。真方さん、地酒三本でビジネス彼氏をしてくれませんか」

 地酒三本で託した願いに、真方は間を置く。さすがに、これは厚かましかったかもしれない。

「……いや、ちょうどいいわ。地酒いらねえから、お前もビジネス彼女しろ。こっちも檀家がいい加減うるせえんだよ」

「私でいいなら、構いませんけど。でもいいんですか、ビジネスにしたって祟り神の娘ですよ」

「大丈夫だ。むしろ氷雪山との合併でありがたがられる。神仏習合は余裕だしな」

 それなら正に、ウィンウィンではないか。こんなところに、こんなに利害が一致する相手がいたなんて。胸を重苦しく占めていたものが消えていくのが分かる。

「それなら、よろしくお願いします。三月で派遣終了後、一年掛けて自然消滅ってことにしましょう」

「それなら当分静かに暮らせるな。きっかけは元々顔見知りで職場が一緒になって手え出した、でいいか」

「若干生々しいですが、文句ありません」

 すりあわされていく悪巧みの内容に苦笑し、受け入れる。

「それで、見合いが来週の土曜なので、それまでにご足労をお願いしたいんです。いつがよろしいですか?」

「なら、今日の夜行くわ」

「えっ、もう?」

 慌ててしまったが、早い方が助かるのは確かだ。

「ありがたいですけど、無理しないでくださいね」

「大丈夫だ。八時くらいに行くわ。スーツと坊主の格好とどっちがいい」

 スーツと袈裟か。後者を見たいのは山々だが、やっぱりダメだ。私の副住職は、清廉とした方だ。ビジネス彼氏なんて、絶対になさらない。

「スーツでお願いします」

「いいのかよ、お前の大好きな副住職だぞ」

「いえ、副住職はビジネス彼氏なんてなさいません。こんな悪巧みで穢すわけにもいきませんし」

「俺だけどな」

 真方は鼻で笑い、なら、とあっさり通話を終える。響き始めた無機質な音に、私も終話ボタンを押して温もった携帯を下ろした。

 そういえば、副住職だったな。

 思い出すと、今頃になってじわじわと恥ずかしさがこみ上げてくる。違う、副住職と真方は別物だ。ほてり始めた頬を押さえ、早鐘を打ち始めた胸に苦笑する。副住職ではなく真方に会うのだ、真方に。言い聞かせるように繰り返したあと腰を上げ、居間へ向かった。


 予定どおり八時にスーツ姿で現れた真方を見て、伯父は驚いた表情を浮かべた。

「あなたは、静隠寺の」

「はい。いつもお世話になっております」

 ダブルビジネスを引っさげた真方が、座卓の向こうで深々と頭を下げる。口調や雰囲気は副住職なのに見た目が真方で、脳が混乱し始めていた。

「真方さん、直属の上司なの」

「すぐには気づいてもらえませんでしたけどね」

 含んだ笑みで私を見る真方に戸惑い、伯父に座を勧めて私も隣へ座る。居心地の悪さに直視できない視線を落とした。

「真方さんなら玉依の生まれ育ちはご存知でしょうが、よろしいのですか」

「はい。ただ生まれ育ちに関係なく彼女は素晴らしい人ですし、私自身も人と人の子ではありませんので」

 自らそこへ踏み込んだ真方に、弾かれたように顔を上げた。

「私は、鬼と縁が深い土地の生まれです。母は結婚していましたが、一週間ほど行方不明になったあと見つかり、五ヶ月ほどして私を産んだそうです。産まれた私は歯の生え揃った、いわゆる鬼子と呼ばれる子供でした。鬼の子を産んだと蔑まれた母は私を産んでまもなく命を絶ち、私は親戚の家をたらい回しされました。私は既に鬼の力をそれと知らずに使っていましたから、恐れられると共に疎まれていたんです」

 初めて知る真方の過酷な出自に、何も言えずじっと見つめる。真方は少し視線を伏せて、寂しげに笑んだ。

「最後には親族皆に見捨てられて、施設へ預けられました。ただ、そこでもやはり疎まれまして。気性の激しさも相俟って里親はつかないまま、気づけば引き取られにくい年齢まで育っていました。そんな時、私の話を聞きつけたのか住職がふらりと現れて、自分のところにくれば正しい力の使い方を教えてやると。意味は分かりませんでしたが、初めて自分が選ばれたことが嬉しくて頷きました。このような生まれ育ちですから、彼女がどのような思いを抱いているのかは理解できるつもりです」

 再び上げられた視線に、思わず頭を下げる。心からの、本当の言葉に聞こえたからだ。自分には誰一人いないと思っていた、理解者がそこにいた。

「玉依のことを深く理解してくださっているのは分かりました。ただ現実問題として、あなたには継ぐべきお寺がおありでしょう。玉依と結婚するのであれば、稲羽へ婿へ入っていただく必要があります」

 もっと和やかにお付き合いの話でもするかと思ったのに、伯父は抜き差しならない話題をいきなりぶつける。

「伯父さん、そういうのはまだ」

 まさか初回からそんな話を振るとは思わず、慌てて袖を引いた。

「私の方もできれば寺に入っていただきたいところですが、うちの方は黙らせます。ですから、私が婿に入るのもご容赦願えませんでしょうか。対等な関係として、彼女は稲羽家当主として氷雪山を守り、私は静隠寺を守ることもできるはずです」

 予想していたのか、真方も一歩も退かない意見を提示する。でもそれではだめだ。伯父は折れない。

「そういうわけにはいきません。稲羽の掟は祟りを避けるための鉄則、破れば厄災が降り注ぎます。決して逆らうわけにはいかないのです。無理だと仰るのなら、どうか玉依とは別れていただきたい」

「伯父さん!」

 いきなりの別れ話は、ビジネス彼氏相手でもさすがに失礼過ぎる。不意に、真方が冷ややかなものをまとったのが分かった。

「彼女自身の幸せより、山を守る役目が大切だと?」

「あなたもお寺を守る立場なら、お分かりいただけるでしょう。時には個人の幸せより優先すべき大義があるのです」

 硬い声で投げた真方に、伯父は力を込めて言い返す。真方は小さく頷き、隣の私を一瞥した。

「失礼ですが、ご当主はご結婚は?」

「しておりましたが、随分前に離婚いたしました」

「お子様は、いらっしゃらないと」

 確かめる真方に、伯父は視線を落として「おります」と小さく答える。

「個人の幸せより優先すべき大義がある、とまで仰るのであれば、継がせるべきはたとえ離婚しようとあなたのご子息なのではないですか? なぜ呼び戻されないのです」

「……しかし、しかしこの子は、九多様の血を引いております」

「確かにそうです。とはいえ、正当な順位でいけば筆頭はあなたのご子息のはず。死亡で致し方なく彼女が筆頭になったわけではないでしょう。そのような勝手が、神の御前で本当に許されると? 筋を通さず彼女に継がせればそれこそ祟りを受けると、お考えにはならないのですか」

 うやむやにされて来た問題を取り上げて、真方は真っ向から伯父にぶつける。伯父の手は、膝の上で何度も握り直されていた。

「私の娘は、玉依のような力を持ちません。過酷なお役目など、とても」

「では、稲羽の当主は力を持つものがなるべしと鉄の掟にはあるのでしょうね。あなたには、どのようなお力が?」

 理詰めで攻める真方に、伯父はじっと俯いたまま固まる。横顔は苦しげに歪んだまま、唇を噛み締めていた。

「跡継ぎを変えるほどの勝手が許されて、なぜ先程の私の提案は許されないのでしょうか」

 鋭い視線を向ける真方から、肌を刺すような圧が伝わる。たまらず口を挟みかけた時、ふと空気が緩んだ。真方は私を見て少し笑う。

「そもそも、祟りなんて本当にあるんですかね」

 全てを覆す言葉を投げた真方を、じっと見据える。祟りなど、本当に。一瞬、全てが白くなった。

「……あります、あるから祖母は死んだんです!」

 思わず叩きつけた私に、真方は薄い笑みを返す。

「本日は、もう下がります。夜分に失礼いたしました」

 場を切り替えるように肩で息をしたあと、頭を下げた。

 腰を上げて廊下へ向かう姿に我に返り、慌ててあとを追う。しまった、しくじってしまった。

「すみません、さっきは取り乱しました。こちらがお願いしておいて、申し訳ありません」

「気にすんな。思考停止してるから動かしてやっただけだ。お前もちったあ考えろよ。『こんな私を育ててくれた人』の奥にあるもんをな」

 真方はネクタイを引き抜き、玄関へ向かう。もう完全に副住職が抜けて、真方に戻っていた。

「あまり、波風を立てたくないんです」

「なら俺を彼氏に仕立て上げる必要もねえだろ、あのクソガキと結婚しろよ」

 靴下のままたたきへ下りたあと、真方はねじ込むように革靴を履く。

「やっぱり、その方がいいんでしょうね。お手数をお掛けして」

「明日はこっちの番だから、忘れんなよ。四時に寺に来い」

 詫びを遮って伝えられた予定に、あ、と気づいて顔を上げる。

「分かりました、伺います」

 真方は了承を聞き遂げると、あっさりと引き戸を抜けて帰ってしまった。

 さっきまですぐそばにあったものが、今は遠い。でも何も間違っていない、私達は対等な契約を結んだのだ。利害関係の一致で結んだ、打算だけの契約だ。それならなぜ真方は、あんな寄り添うような話をしたのだろう。

 失ったわけでも、裏切られたわけでもないのに胸が痛い。守護の膜では癒せないらしい痛みに胸を押さえ、居間へ向かった。

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