第16話
昨日の帰宅は一時過ぎ、風呂に入って寝たのが二時過ぎだった。やっぱり平日夜に出歩くのはつらい。
「朝帰りか」
三階へ向かうエレベーターの中で、あくびを噛み殺す私に真方が尋ねる。
「違いますよ。昨日雀荘デビューしたら勝っちゃって、宵越しの金にならないように飲んでたら一時過ぎだったんです。ちなみに、リーチ一発ホンイツ中ドラドラに裏ドラが乗りました」
「でけえな」
「でしょ。でも新田さんに知られたら叱られるので、黙っといてください」
自慢と釘を刺し終え、ファンデの浮きを指先で軽く押さえる。
「不良娘」
鼻で笑う真方を一瞥して、開いたドアの向こうへ進んだ。
「しっかし、お前が来てからほんとコンスタントに仕事が来るな。半年で去年の件数超えたわ」
「真方さんを働かせろってことですよ」
奥に理事長室の重厚なドアを眺めながら、手前のドアをノックする。あちらのドアの向こうには、ドアの雰囲気に似つかわしくないフレンドリーなおじさんが控えている。
聞こえた返事に応えて、ドアを開ける。デスクから腰を上げた新田は笑みで私達を迎えた。
「朝から呼び出して悪いね。早速だけど、仕事が入った」
いち早くソファへ腰を下ろした新田に続き、私達も座る。真方は三人掛けの真ん中を選び、ふんぞり返って足を組んだ。
「
「白蛇山、ですか」
思わず繰り返して、溜め息をつく。
「神さん、知り合いか」
「いえ。ただ、あの白蛇山かと思って。有名な伝承がありますよね」
市内のやや北部に位置する白蛇山は標高五百メートルほど、緩やかな傾斜の麓には白蛇池を湛えている。白蛇山の伝承は、我が県では広く知られた昔話だ。
この辺りを治めていた地頭の男が、ある日訪れた池で水浴びをする女を見つけた。そのあまりの美しさに見惚れた男は女を連れて帰り、妻として娶り屋敷に住まわせた。
二人は夫婦として仲睦まじく暮らしていたが、ある夜、男は女が屋敷を抜け出してどこかへ向かうのに気づいた。不審に思った男は女のあとをつけ、やがて女と出会った池の前へと辿り着いた。女は池の縁で着物を脱いだかと思うと、真っ白な蛇に姿を変えて池へと滑り込んで行った。
女は翌朝、自分はあの山を守る神だと男に告げた。そして蛇の姿を見られた以上はそばにいられない、と山へ戻って行ってしまった。悲嘆に暮れた男は山の麓に祠を建て、そこに鏡を納めて祀った。以来山は白蛇山、池は白蛇池と呼ばれるようになった。
「いらっしゃる気配を感じたことはありますが、蛇の神様なので少しきつめで」
「またかよ。きつい奴ばっかじゃねえか」
「でも神様ですから、話が通じないってことはないと思います。おそらくは人間側が何かをしたかしてないか、そもそも開発に怒っていらっしゃるか。その思いを汲んだ何かが暴れたか。ひとまず、現場に行ってみましょう」
依頼書と書類を受け取って腰を上げた私に真方も続き、新田の部屋をあとにする。
「その祠は今もあるのか?」
「あるにはあるんですけど、今のものは明治の頃に建てられた新しいものなんです。本当に祠が存在したのか、麓のどこにあったかも分かってません」
再びエレベーターに乗り込み、下へ向かう。確かめた手元の資料は、開発計画のコピーだった。都市計画道路の第二期、か。今回はさすがに祐二に会うことはないだろうが、安心はできない。
「それにしても、開発だらけですね」
「巌岳を通る道の反対側がこっちだからな。こんだけあちこち削られりゃ、それでキレたって言われた方が納得できるわ」
鼻で笑う真方に苦笑したあと、頷く。巌岳の神はそれでも人と共に生きることを選んだが、どの神もそうだとは限らない。
「人が甘えすぎてるのは、否めませんからね」
山も土地も、金さえちゃんとやりとりすれば自由にできると思っている。人の世界だけの常識が全てになっているのだ。でも本来は、そうではない。
視線を落とし、二階の『木質バイオマス推進課』を見つめる。こちらの件も、いずれ深入りしなければならないのだろう。病んだ元妻と博士課程へ進む息子、ピアニストを目指して留学中の娘。新田が金を必要とする理由だけが、固まっていく。
全てなかったことに、なんてありえないのだろうが。目を閉じて、長い息を吐く。少し揺れた箱に、ぼんやりと目を開いた。
現場で私達を迎えた現場監督は、四十半ばあたりに見える厳つい小男だった。私の身長は百六十に少し届かないが、それよりもうちょっと高いくらいだ。えらの張った顔に存在感のあるへの字口が不機嫌そうに見えたが、実際も不機嫌だった。
「巌岳の一件を解決したって聞いたけど、あれは単純に気が緩んでただけだろ? 公社のチェックが入ってまともに戻っただけだわ」
「そうだといいですね。ま、依頼は上からなんで、お宅の信用は必要ありません」
「真方さん」
項垂れながらスーツの袖を引き、窘める。機嫌を更に損ねて協力を取りつけられなくなったら、被害者が増えてしまう。
「申し訳ありません、口が悪くて。巌岳の現場、その後は問題なく進んでますか?」
「事故ったとは聞かないね」
「良かったです。私が初めてお手伝いした現場だったので、気になってて。何もないなら何よりです」
穏便な方向へ話を進めた私を、現場監督は黄色いヘルメットの前をもたげてまじまじと見る。
「お姉ちゃん、新人か」
「はい。県庁から今春派遣されてきたばかりなんです。現場は知らないことばかりなので、どうぞご指導ください。皆さんのご協力なしでは解決できませんので」
「そういうことならまあ、邪魔しない程度に聞いて回ってくれたらいいから」
「ありがとうございます。それで、改めて今回の状況についてお伺いしたいんですが、よろしいですか」
現場監督は頷いて一息ついたあと、口を開いた。
工事が始まったのは九月一日、最初の頃は問題なく作業を行えていたらしい。作業員が突然首元を押さえて苦しみ始めたのは、本格的に掘削工事を始めて三日目の九月八日から。被害者は四人、皆ロープのようなものに巻きつかれ締め上げられた感覚だったと話している。その訴えのとおり、喉には首を絞められたようなうっ血の痕が残っていた。
「相変わらず転がすのがうめえな。あのオッサン、風俗でも新人ハシゴする素人大好きタイプだぞ」
「下世話な想像はその辺にして、聞き込みですよ。現場に復帰してる被害者は二人いるそうですから、真方さんは上の現場を当たってください。私はあそこ行きます」
真方に指図し、自分は向こうで作業している一群を目指す。太いロープは、私の勘では蛇だ。神本人か眷属かは分からないが、必ず理由はある。
すみません、と掛けた声に作業員達は手を止める。
「はじめまして、林業公社機備課の稲羽と申します。最近頻発している窒息事故の調査に伺いました。早速ですが、現場監督さんに被害に遭われて復帰された方がいらっしゃるとお聞きしました。お話を伺うことはできますか」
挨拶した私に、ああ、と頷く波が拡がっていく。そのうちの一人が辺りを見回し、誰かを呼んだ。
「機備課が来たってことは、やっぱり祟りや霊の類か?」
「それは調べてみないと分かりませんが、ここは蛇神様で有名な場所ですしね」
「何が神さんの気に触ったのか調べてもらわんと、作業も進まんわ」
ヘルメットを持ち上げて汗を拭き、老いた作業員が零す。そうですね、と頷こうとした首が不意の違和感に触れた。次にはもう首に巻きついた何かが、ぎちりと首を締めたのが分かった。
膝を突き苦しみ始めた私に周りの作業員達が気づき、慌ただしくなる。容赦なく締めていく何かに汗が伝い始める。顔中が血を噴き出すかのように熱くなり、潰れたような声が漏れた。
「氷雪山……が、神、九多……真塩よ、吾に仇なす……もの、を、顕現、せしめよ」
掠れながら唱えた文言に、首元が白い光を放つ。眷属、か。
「稲羽、目え瞑れ! 動くなよ!」
朦朧とする意識で遠くから響く真方の声を聞く。言われなくてももう目は開かないし、首吊り状態で動けない。霞み始めた意識に、力が抜けていく。暗がりに沈む中で、真方の声が聞こえた気がした。
暗がりの底で目を開くと、いつか見たような景色があった。新緑の間に山桜の赤みがかった葉と薄い桃色が揺れて、遅い春の訪れを告げている。でも、なぜ。
落とした視線の先に小さな手が見えて驚く。握ったり開いたり意のままに動くのに、今の私とは大きさが違っていた。
周りを確かめて、緩やかな斜面を下っていく。ここはどこの山か、氷雪山より照葉が多く、日差しもよく差し込む。木々の隙間に広い空を仰ぎ、眩しさに視線を落とす。ちまちまと動く小さな靴先は五歳くらいか。
森を抜け出ると、鏡面のような池が広がっていた。しん、と静まり返った景色の中、澄んだ水は底面の石を透かしている。美しい場所だった。
やおら水面が漣立ち、風が髪を揺らす。まだ産毛のような柔らかい髪が頬を撫でる。さっきまでは誰もいなかった場所に、膝を突き顔を覆って泣いている女性がいた。陽光に照らされた白い着物は輝かんばかりで、束ねられた長い黒髪が筆のようにまとまりよく垂れている。人ではないと悟るのに、それほど時間は掛からなかった。
「神様、どうかなさいましたか」
幼い声が、大人びた言葉で話し掛ける。女性は気づいたように濡れた袖から顔を上げた。つるりとした細面の、雅やかな顔立ちだった。泣き濡れて赤くなった目元が、品の良い色を感じさせる。神の顔を見たのは、初めてだった。
「大切な鏡が、失くなってしまったの。あの方からいただいた、大切な鏡が」
「鏡、ですか」
「そう。あの方と、共にどのような姿に成り果てようとも互いを愛し続けると誓った鏡なのに」
ああ、そうか。この神は。
「どうか鏡を見つけて。奪った者を、私の前に引きずり出してちょうだい。忠実なしもべを殺した者も」
白く滑らかな眉間に、細い皺が刻まれる。びり、と肌に触れる怒りに汗が滲む。何も言えず俯く先で、地面がぐにゃりと歪んだ。
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