第13話
ほんで、と真方は新しい煙草を咥えて火をつける。
「殺すのをためらったってわけか」
「母親として愛したのか女性として恋をしたのかは分かりませんけど。でも『それで情けを掛けたつもりか』って、逆に」
この一件で、二度も愚かだと言われた。否定はしない。
「当たり前だろ。自分以外の存在を知ってそっちを求めた奴と、これまでどおり一緒にいられるわけがねえんだよ。お前と約束して見逃したって、早晩次の犠牲者が出てた」
自分と同じ人間を求めた少年に、悪意があったわけではない。ただ純粋に一緒にいたいと願ったのだろう。ゆかりはその願いをどんな思いで聞き、叶えることにしたのか。許せる行為でないのは分かっている。でも本当に、殺さなければならなかったのだろうか。
「人が人を殺せば捕まりますけど、相手が山の怪ならどれだけ殺したって捕まらないんですよね」
「山の怪が人殺したって捕まらねえだろ。今回だってそうだし」
真方は鼻で笑い、ロックグラスを傾ける。全てを片付け一日遅れで仕事復帰した今日、私の空元気を見抜いたのか飲みに誘ってくれた。
「そう、なんですけどね」
警察にはいつものように第一発見者として連絡し、今回はお役目の証明として過去の案件を当たってもらった。私が宿芳山で遺体を見つけ出したのは、小三の時だったらしい。常識では受け入れられない経緯を伝える私に、警官は途中で記述の手を止めた。
――似たような事件が起きたら、うちも連絡しますわ。助けてやってください。
玄関先まで見送った刑事は、蔑むような薄い笑みを浮かべた。
「いつか、耐えられなくなりそうで怖いんです」
どんな理由であれ、私がゆかりを殺したのは確かだ。赤土に横たわる凍えた体をそっと抱えた時、これまで感じたことのない悔いが湧いた。
――ゆかり、どうしたの?
不安そうに尋ねる少年に、喉が干上がるように乾いた。これからあと何度、あんな思いをするのだろう。
「こんなことを繰り返して、まともでいられる自信なんて」
指先に残る冷たさをごまかすように、グラスを呷る。熱が喉を焼くように流れ落ちていく。
遺体確保の連絡のあと、遺族には改めて死に至った理由を話した。母親は目に涙をため、あの子らしい最期です、と気丈に答えた。父親には何度も礼を言われ、感謝された。
私は、善いことをしたのだろう。でも楽になったのは、一瞬だ。
遺族には告げず、ゆかりと少年の弔いを近くの寺に託して帰った。
「真方さんはこういうの、どこで消化してるんですか。住職に話すとか?」
真方にほぼ丸投げした一件は、私が力を貸した翌日には解決したらしい。事故に見せかけた事件で、殺されたのは勤め始めたばかりの新人。記録では「合図に気づかなかったために起きた不慮の事故」だったが、実際には合図なんて教えられていなかった。いじめで、殺されていた。
伐木した班は山の持ち主の父親を含む数名で、山は事故のあと父親が閉じていた。おそらく似たような事象が起きていたのだろう。今回久しぶりの手入れが入ったのは、父親の死亡を受けて売却することにしたためだ。父親はかつての班で、新人に次いで若い作業員だった。この世の正義で裁ける相手はもう、誰一人残っていなかったらしい。代わりに一発殴ってやることすら、できなかった。
「寺には持ち込まねえよ。山門くぐったら副住職だ」
「じゃあ、どうやって」
「こうやって飲んで打って、束の間の享楽で流してチャラにする。その繰り返しだ。腹括るしかねえんだよ」
真方とは馴染みらしい老いたマスターが、やさぐれた私の前に新しい一杯を置く。大きな氷の角が、仄暗い照明を集めて白く照った。
「私はとても、そんな風には」
「今の俺と比べんなよ。二十五だろ? 俺もその頃はまだ荒れくさって、本山でしばかれまくってたわ。山を下りるの、五年も許されなかったんだからな」
真方は鼻で笑い、鈍い銀の灰皿に煙草を弾く。
「下りたら下りたで住職には毎年冬の氷雪山に蹴り出されるし。お前の親父には死ぬ寸前まで追い込まれるしな」
溜め息交じりの愚痴に、持ち上げたばかりのグラスを置いた。確かにここ数年、お釈迦様の悟りに倣って十二月一日から八日早朝まで氷雪山に籠もり修行する僧侶がいる。伯父はいつも「ジョウオンジの副住職がいらっしゃる」と。
「あの、つかぬことを伺いますが、ジョウオンジの漢字って『静』かに『隠』す『寺』、ですか」
「そうだ」
真方は短く答えて煙草を置き、グラスを傾けた。滑らかになった氷がからりと鳴る。
「セイインジ」だと思っていた。
「……私、山へ入られるの、毎年立ち会ってますけど」
氷雪山は個人所有だから、登山にはうちへの申し込みと代金がいる。ただ修行に入る「ジョウオンジの副住職」だけは、手続きなしで入れるようになっている。住職と伯父が知り合いで、便宜を図ったらしい。ただ身元はしっかり分かっていても、何かあった時のために山へ入る姿を確認する必要だけはある。ほかの登山客対応は信者の人達に任せているが、副住職だけは毎月有給を使う御霊会と日が重なることもあって、私が立ち会っていた。
「俺だよ。マジで気づいてなかったのかよ、去年も会っただろ。ま、毎年すげえ塩対応だもんな」
「いや、それは……でも、気づけませんよ! 今は髪があるし編笠被ってないし、服も声も雰囲気も全部違うし」
毎年、登山口で俯いたまま挨拶をして、「お気をつけて」と見送るだけだ。視線を合わせれば穢れたものを見透かされそうで、まともに顔を見て話したことがなかった。それでも。
「塩対応は誤解です。物腰は柔らかくて穏やかなのに、すごくストイックな感じもして。さすがお坊さんだなって、ずっと尊敬してました」
正直なところを明かせば、ずっと憧れてもいた。少しでもきれいな自分を見て欲しくて、毎年十二月一日の前には全力で女を磨いていたくらいに。その相手がまさか、「これ」だったとは。今隣にいるのは退廃と色気を詰め込んだような、清廉とは真逆にいる男だ。
「なんで過去形なんだよ。尊敬しろよ、完璧にビジネス坊主をこなしてんだ」
「ビジネス坊主のために、毎年死にそうになってるんですか」
「そうだ」
真方は軽く笑い、空になったグラスをカウンターへ押し出す。すぐに現れたマスターはグラスと共に灰皿を引き取り、新しい銀を置いて去って行った。
「私をあっさり受け入れてくれたのは、そのせいですか」
「まあな。お前の世話すりゃ、あのクソ親父に恩を売れるし」
短くなった煙草を早速にじりながら、真方は事もなげに答える。真方らしい答えだが、安心した。情ではなく、打算。本来隠されるものが表にあるだけで落ち着くなんて、歪んでいるのは分かっている。
「がっつり売っといていいですよ。最終日もなんやかんやで四回も助けてもらったし」
「俺が手え出したのは札三枚だぞ」
予想外の答えに、グラスを傾けながら隣を見た。氷の隙間から滑り込むバーボンが熱い。痺れた舌を確かめ、グラスを起こす。吐いた息が熱っぽいのは、酔いが回ってきたからだろう。
「でも、斜面から落ちても死ななかったんですけど」
「それは俺じゃねえ」
「じゃあ誰ですか」
「さあな。呼び出された嬉しさに、思わず手え出しちまった奴がいるんだろ」
短く刻むように笑う真方に、覗き込むように寄せていた体を起こす。ああ、そういうことか。
「助けてくれなんて頼んでないし」
「小学生かよ」
「いいんです、嫌いだから。すっごい嫌いなんです、分かります? どんだけ嫌いか知らないでしょ?」
カウンターに突っ伏して、恨みを込めた視線を真方へ向ける。
「お前、酔ったら面倒くせえタイプだな」
「そうですかね。普段はこんなに飲まないんですよ。どうせみんな、私を見捨てて帰るから。私と一緒にいたい人なんかいないって、ちゃんと分かってるんです。でも夢から醒めたくないから、暗黙の了解でいいんですよ。この年になってまで、現実にしばかれたくないじゃないですか。つらくて心が死んじゃう。一刻も早く犬を飼わないと、ドーベルマンに守ってもらわないと三十の坂が越えられない」
「ドーベルマンなしで越えてる三十二がここにいるだろ」
真方は鼻で笑い、傍らの煙草を掴む。最後の一本を引き抜いて、ケースを握り潰した。再び現れたマスターは、新しい一杯を差し出して潰れたそれを引き取り戻って行く。まるで黒子のような人だ。
「悟った人と一緒にしないでください。大体、真方さんがあの副住職だったなんて詐欺ですよ。ショックなんですけど。あの人なら私が何を打ち明けても受け止めて聞いてくれるかもって思ってたのに」
「正に今、聞いてやってんじゃねえか」
緩くグラスを回し、真方は私を見る。私がこんなに管を巻いているのに、まるで酔ったようにない。
「……やだ、副住職がいい」
「諦めろ、俺だ」
笑いながらグラスを傾ける余裕の表情に、諦めて項垂れる。
「恥ずかしくて、顔を見られなかったんです。すごく、憧れてたので」
落胆の息と共に鈍い痛みを吐き出し、目を閉じる。見透かされるのが怖くて目も合わせられなかったくせに、私を見初めてここから連れ出してくれるような淡い夢を見ていた。
ぽんぽんと頭を叩く手に、じわりと涙が浮かぶ。
「やめてください、泣いちゃう。早くドーベルマンを飼わなきゃ」
「犬はまだ待たせとけよ。帰るぞ」
顔を上げた先で真方はまだ長い煙草をにじり、軽く手を挙げて合図をする。ああ、帰るのか。まあいつまでも、こんな酔っぱらいの泣き言には付き合っていられないのだろう。目で見える結果は、やっぱり惨めだ。
「あとで私が払って帰りますよ」
「今日は出すから次は奢れ。ほれ、お前も帰るんだよ」
真方は寡黙なマスターへ支払いを済ませ、腰を上げる。傷心のままぼんやり眺める私を、鼻で笑った。
「見捨てねえ奴もいるってのを証明してやるよ」
また滲んだものに洟を啜り、酔いでもたつく腰を上げる。ふらつく体を支えた熱い手に、長い息を吐いた。こんなに飲んだのは初めてだ。飲んで打って享楽で流す、か。確かに店に入る前よりは随分楽になっていた。でもそれは、酒のおかげではない。真方がいてくれたからだ。
「この御恩は、私の墓を個人墓にして真方さんの寺に建てることでお返ししますんで」
「先の長え恩返しだな。もっと小出しにしろよ」
よろける足取りに、真方を頼って店を出る。外は、遅れてやって来た梅雨がようやくの雨を降らせていた。
「だってほかに私にできることなんてないし、あげられるもの……氷雪山、いります?」
「いらねえ」
真方は笑い、私を支えながら上着を脱ぐ。揺らぐ視界に被さる幕に顔を上げると、ふわりと煙草の臭いがした。
「大通りまで出るのに濡れるからな」
初めて私を女扱いした真方に、昔の傷が鈍く疼く。化け物から一瞬だけ女子になって、再び化け物に戻った話だ。あれも束の間の、浅く淡い夢だった。
「私の呪われた初恋の話、聞きます?」
「喋りたいなら喋っとけ」
真方は笑い、促すように私の背を叩く。小さく頷き、スーツの庇を深くして真方の腕を頼った。
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