第12話
ひとまずの仮定は二つだ。
・稲羽の術は力を自然発生させるのではなく、周りの物を利用する。
・私の場合は父との繋がりが強すぎて、守道の術では範囲と出力が大きすぎる。
文言で利用するものや範囲を指定すれば、おそらく一度目のようなことにはならないはずだ。ほぼぶっつけ本番だが、今日中に片付けて帰らねばならない。真方も無事に調査を再開できたらしいし。
バッグから取り出した棒つきキャンディを眺め、一息つく。大東は多分、境界を越えてしまったのだ。相手の正体はまだ分からないが、彼らが離したくなくなるほどに好かれてしまった。でも大東も、殺されるとも知らず伐木の下へ飛び込んでしまうくらいには大切にしていたのだろう。相手がこの世のものではないと忘れてしまうほどに。仏間の遺影は、明るく笑っていた。澄んだ笑みだった。
二日ぶりに訪れた作業現場で棒つきキャンディを見せると、作業員の一人が何かを思い出したような顔をした。といっても大東に関する内容ではなく、開発の進む麓の現場についてだった。
――下で作業してる奴が、知らないうちに飴が置かれてるとかなんとか言ってたんです。その飴かどうかは分かりませんけど。
ここに来て初めて得た手がかりに、礼を言ってすぐ麓の現場へ向かった。
「ああ、飴。確かに、こんなやつですよ。気づくといつも同じ場所に置かれてて。そういえば、最近はないな」
班長に伴われた私を不審そうに窺いながらも、責任者は飴の存在を認める。現場の方をきょろきょろと眺めて、通りがかった作業員の一人を呼び止めた。
「なあ、あそこに置いてあった飴ってこんなんじゃなかったか」
「ああ、これですよ。気味悪いんで処分せずに置いてますけど」
大東と同じ年頃に見える作業員は袖で汗を拭って、あっさりと認めた。
「その置いてあった場所、見せていただけませんか」
作業員は私達をぐるりと見回したあと、なんかあったんすか、と至極当然の質問を投げた。
案内された場所は麓にほど近い一角だ。林業の作業場所からは少し離れているが、下りてこられない場所ではない。ただ見知らぬ顔が飴を置いていれば、さすがに周りが気づくだろう。作業員の話ではいつも知らないうちに置かれていて、まるで供え物のようだと気味悪がられていたらしい。
「実はこの辺、作業する前に横穴が開いてたんすよ」
「誰かが住んでいたんですか?」
「いや、年寄りが言うには防空壕じゃねえかって」
ああ、と気づいて班長を見る。
「この辺りは、空襲はどうだったんでしょうか」
「親父が何度か受けたように言ってました。警報は毎日のように鳴ってたと。うちには床下に名残がありますよ。警報が鳴ったらすぐ家中の電気を消して、潜り込んでたらしいです」
うちは祖父が戦時中の産まれだが、ほかに戦争を語れる者はいない。山奥だったこともあって戦禍は免れたらしく、防空壕も存在しなかった。
「防空壕を壊したことで、中にいた子供の霊が居場所を失いさまよい始めた。その姿が、大東さんには見えてしまったのかもしれません」
「じゃあ、大東はその子供の霊に殺されたってわけですか」
「いえ、原因になったとは思いますが、おそらく人を殺すほどの力はないはず。殺したのは山の怪か主、です」
もちろん、理由もなく殺したわけではないだろう。山の怪や主は、神よりもっと情動的なもの達だ。
「申し訳ありませんが、三十分ほど作業を止めていただけますか。もし地鳴りや地震などの異変を感じたら、すぐに避難してください。ここには、何があっても近づかないように」
「おねーさんは、大丈夫なんすか」
心配そうに窺う作業員に、少し笑む。狐目のしゅっとした顔立ちだったが、なんとなく拓磨を思い出す表情だった。
「大丈夫ですよ。そのために、ここへ来たので」
「門外漢の言葉ではありますが、気をつけて。若いもんが犠牲になるのは、もうたくさんです」
複雑そうな笑みを浮かべた班長の言葉に頷き、深く頭を下げて見送る。誰にも悔いを抱かせないためには、彼の遺体を見つけるだけではだめだ。それでも、いざとなれば。
肩で大きく息をし、高い位置で髪を結び直す。目を閉じ、現場の音が消えていくのを待った。
しばらくしても残る音に意識を向けた時、ざわりと木々が揺れ、いつかのように強い風が吹き下ろす。あ、と思うと同時に今日ははっきりと、目の前で紙片が何かを弾き返すのが見えた。一枚目、終了か。
私の術は唱えなければ発動しないから、咄嗟のことには対応できない。約束どおり守ってくれた真方の紙片をポケットに入れ、場に手をかざした。
「氷雪山が神、九多真塩よ。この場に隠された吾に仇なすものを顕現せしめよ」
これくらい絞り込めば、目的のものはきちんと現れるはずだ。一瞬、空間がぐにゃりと歪む。軽いめまいに、数度瞬きをして見開く。生ぬるい空気が流れたあとに現れたのは、素朴な格好をした少年と手を繋いだ、虚ろな目をした死装束の大東だった。
しかしほかに姿は見えない。この子が、主だろうか。
一歩近づき、目線の高さにしゃがむ。
「こんにちは。君の、お名前は?」
小学校一年生くらいか。痩せて頬はこけ、目元に被るほど伸びた髪を真ん中で分けている。伏せがちな目が、物憂げで大人びた雰囲気を漂わせていた。服装は半袖の開襟シャツに膝丈のズボン、足元は裸足だ。丸刈りでないせいか、今の時代でもそれほど違和感がない。
『おにいちゃんを、つれていくの?』
少年は答えず、質問で返す。小さく響く声は、まだ幼くて澄んでいた。
「そうなの。ごめんね。でも、お兄ちゃんを待ってる人がいるの。お家で今も、帰ってきてくれるのをずっと待ってる」
視線を上げ、大東を窺う。
「譲さん。ご両親が待っていらっしゃいます。帰りませんか?」
傍らで、繋がれた手がぴくりと揺れた。
「譲さん、家に」
『余計なことをするな』
払うように揺れた大東の手に、慌てて身を引く。立ち上がり対峙した大東は、明らかに本人ではなかった。こっちだったか。
「あなたは誰? なぜ大東さんを殺したの?」
『この子に必要だったからだ。この子には、共にいる人間が必要だ』
名乗らないのは、警戒しているからだろう。押し殺したような低い声が、薄く開いた口から漏れ出る。
「あなたは、ずっとこの子のそばに?」
『そうだ。口減らしのために山へ捨てられてからしばらくは、食い物を運んだ。だが病と飢えで、死んだ。それからも、ずっといる』
捨てられた人の子を不憫に思った山の怪か。ずっと世話をしていたのだろう。でもおそらく、もう数十年は経っている。それだけ一緒にいながら、今更なぜ人を求めたのか。
「どうして、今になって人を?」
『この子が、初めて人を求めたからだ。この男を気に入って、共にいたいと言った』
山の怪は俯き、力なく零す。だから、殺したのか。この子の願いを叶えるために。
確かめた隣の少年は、相変わらず物憂げな表情で私を見ている。防空壕を潰され追い出された外で、偶然会ってしまったのだろう。
『この男さえいればいい。人間の邪魔はしない』
「そういうわけにはいかない。この子の願いを叶えたかったあなたの気持ちは分かるけど、そのために命を奪ったことは許されない。この子を思う気持ちを利用して彼を殺したことも。家族の元へ帰して、弔いを受けさせてあげて。彼はこの世に留まるべき人ではないの」
『それはできない。帰れ』
振り払うように再び大きく手を払った大東に、退いて距離を取る。隣で、少年がじっと大東を見上げていた。
「君は、これでいいの? お兄ちゃんは、君のことを本当に」
『うるさい!』
大東が短く遮った瞬間、再び強い風が吹きつけ鋭い何かが叩きつけられる。はらり、と力なく散る紙片に汗が浮いた。
この速さだと、私の術では間に合わない。それに大東の死体に憑いている以上、直接攻撃は不可能だ。憑依を解くにも、山の怪の名前が分からないままでは難しい。ちらりと確かめた少年は、まだ大東の手をしっかりと握り締めている。肉体と手が繋げるのは、山の怪が与えた力のせいか。私でも、触れられるかもしれない。
方法がないわけではないが完全に賭けだし、失敗したら怒りを倍増させてしまう。でも、このままでは埒が明かない。見上げた木々の隙間に曇天を確かめて決意する。イチかバチだが、するしかない。
「氷雪山が神、九多真塩よ。吾に光を与えよ!」
言い放って駆け出し、大東の手から少年を奪い取り胸に抱える。目を瞑って、と伝えてそのまま地面に伏せた。降り注いだ太陽の、瞼の裏に感じる夥しい光量と夏の日差しを思わせる熱に少年を抱き締め直す。
「ねえ、お兄ちゃんの中に入っているお友達の名前は分かる?」
小さく尋ねた私に、少年は胸で頷いた。
『ゆかり。ぼくがつけたんだ、かわいいでしょ』
嬉しそうに告げる声に胸が痛む。ごめんね、と返し、消えた明るさに体を起こした。
予想どおり、そこには目を押さえて唸る大東の姿がある。これ以上、遺体を傷つけるわけにはいかない。
「氷雪山が神、九多真塩よ。大東譲の体からゆかりを解き放て」
唱えてすぐ、膝を突いた大東が身をよじって苦しみ始める。呻き声がぶれ、大東の声とはまるで違う音が漏れ出す。
「その体はあなたのものじゃないの。返しなさい!」
浮き上がる暗いモヤを掴み、力任せに大東の体から引き剥がした。潰れたような叫び声を背後に、崩れ落ちた大東の体を背負う。ずしりと堪える重みは、予想以上だった。身長はそれほど高くないし細身だからと油断したが、そういえば林業作業員なんて全身筋肉みたいなものだ。
でも今は、少しでも逃げなければ。重い体を引きずりながら、山道をひたすら下へ向かう。絶対に届けなければ。あの人達の元へ、返さなければ。
『返せ……返せ!』
背後から響いた金切り声が辺りを揺らす。唸るような地響きに足元を取られ、斜面の手前でバランスを崩した。ぐらりと体が傾くが踏ん張れず、大きく削り取られた崖下へと吸い込まれる。思わず、目を閉じた。
……死、んでない?
感じない痛みと衝撃に、目を開く。切り立った斜面を見るに、落ちたのは確かだった。また真方が助けてくれたのだろう。救われた体を慌てて起こし、絡まっていた大東の体を引き寄せる。しかし目の前に迫る山の怪に、逃れる術は断たれてしまった。
宙に浮かぶそれは、黒々とした気を立ち上らせる大イタチだった。怒りに爛々と燃える目を見据え、つばを飲む。殺さなければ、殺される。でも。
「これまでどおり二人でいるのなら、邪魔はしない。この人を返してくれさえすれば、何もするつもりはないから」
『それで情けを掛けたつもりか。何も分からぬ愚か者が!』
劈くような声と共に振り払われた腕が、風を起こす。だめだ、間に合わない。大東の体を抱き締めて、強く目を瞑る。しかし痛みの代わりに届いたのは、今日は既に二度聞いた音だった。おそるおそる開いた視界に、梵字の書かれた紙片が舞う。三枚目、だ。
『ゆかり!』
背後で呼ぶ少年の声にゆかりは振り上げた腕を止め、ためらうように振り返る。もう、こうするしかない。
「氷雪山が神、九多真塩よ。吾に仇なす山の怪ゆかりを、滅せ!」
唱えるや否や、天から氷雪混じりの突風がゆかり目掛けて吹き下ろす。視界は白く染められ、鋭い冷気が肌を刺した。私まで凍りつくような威力に、冷やされた胸が痛む。咳き込みながらかざした手を下ろした時にはもう、その姿はなかった。
ただ湿り気を残す赤土の上に、一匹のイタチが凍え死んでいた。
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