第11話

 ほかにできるのはもう、神に協力を仰ぐことくらいだろう。

 翌朝、まずは汽車で県西部へ向かう。宿芳山しゅくほうざんは県内かつ山地の中で最も高い標高を誇る山だ。私が足を踏み入れた前回は小学生の、まだいやいや役目をこなしていた頃だった。

 幼い頃にうっかりうちの山で死体を探り当てて以来、私の週末は役目や稲羽の仕事に潰されることが増えた。あの頃はまだ、自分の役目を極力隠そうとしていた。死体を見つければ遺族には喜んでもらえるが、そうでない人達は分かりやすく離れていったからだ。ハイエナだのハゲタカだのと囁かれては傷ついて、俯いていた。

 私のそばにいてくれたのは、祖父と伯父だけだった。それでも繋げば両手は塞がっていたから、寂しくはなかった。祖父を喪ったのは十八の時、布団の中で眠るように死んでいた。もう手を繋ぐようなことはなくなっていたが、寂しかった。

 到着を知らせるアナウンスに目を開き、過去から思考を引き戻す。一瞬繋いだって、すぐに離れていくのだ。もう誰とも繋げなくていい。窓外に見え始めた駅のホームに、腰を上げた。

 宿芳山は最寄り駅からバスで二十分ほど、田舎町の中を南下する。平日の車内はがらんとして、赤字路線の苦労を察す。深く吸い込んだ空気は日に焼けて、少し埃っぽい臭いがした。

 隣の県なのに誰を見ても知らない顔だし、誰も私を知らない。不思議だが心地よくて、帰りたくなくなってくる。今でも許されるなら、このまま全てを捨てて消えてしまいたい。ただそれは、許されない。父を裏切れば、次は伯父が死ぬ。そうやって父は、稲羽の家を縛り続けてきたのだ。

 機械的なアナウンスにブザーを押し、降り支度をする。

 不意に揺れた携帯を取り出すと、真方から『つけといたぞ』と短い報告と山の持ち主を知らせるメールが届いていた。すぐに持ち主の名前をコピーして、伯父への問い合わせメールに貼りつける。こちらは、今日中に片付くだろう。今更、追加で嫌われたところで痛くも痒くもない。路肩へ寄り始めたバスに、腰を上げた。


 いつものように登山口に立ち、まずは名乗る。

「宿芳山の神様。氷雪山が神、九多真塩の娘の稲羽玉依です。ご挨拶とお願いに参りました。どうか、お近くまでお導きください」

 折り重なる木々の向こうへ呼び掛けると、ざわりと大きく揺れた。

『氷雪山の娘が、何用じゃ』

 初めて聞く声は少し嗄れた女性の、重い声だった。びり、と肌を刺す圧に腕をさする。

「お役目により、山の怪に隠されたご遺体を探しております。どうか、お力をお貸しください」

『そのような些事に、我を使おうとはな』

 腹の底に響く太い声に、冷や汗が噴き出す。神の不機嫌を言葉で受け止めたのは、もちろん初めてだ。手のひらが、汗で湿り始めていた。

「不躾なのは承知しております。でも私の力では」

『ならば、なぜ断らぬ。力を超えた役目を引き受けたお前の落ち度ではないか。なぜその尻拭いを我がせねばならぬのだ』

「役目は断ってはならないのです。断れば、私ではなく家族が死にます」

『死ねば良いではないか。お前にとっては、その程度のものなのだろう』

 ためらいなく言い放った神に、思わず固まる。その程度のもの。じっと見据えた登山道の奥では、笹の細い枝が絶えず緩く揺れ続けていた。

『ならばなぜ術を結ばぬ。己を鍛えぬのじゃ。神の血を継ぎながら与えられた力を厭い、親を恨み、周りを憎み、そのくせ困ればその血を頼るお前のどこに真がある』

 やがて続いた叱責に意味を悟り、俯く。何も言い返せない。確かに、そのとおりだ。

『守れぬものは捨てよ、捨てられぬのなら守れ。それが道理だ。それすら分からぬ愚か者に分け入らせるほど、この山は低うはない。立ち去れ』

 重い声が私を突き放した途端、地鳴りがして山が揺れた。畏怖に震え始めた肌をさすり、深く頭を下げる。唇を噛んでも、歯の震えも止まらない。これが、神の威厳か。

 深呼吸を繰り返しながら、少しずつ体を起こす。目の前にある登山口はさっきまでと変わらないのに、まるで入れる気がしなかった。

 辿り着く前は、話さえできればどうにかなるような気がしていた。神の血を引いているのだから聞いてもらえるだろうと。今は、その甘ったれた考えが恥ずかしくてたまらない。

「申し訳ありませんでした」

 再び深く頭を下げ、踵を返す。じっとりと湿った手のひらをジーンズになすりつけ、まだ小刻みに震える指先を眺める。

――捨てられぬのなら守れ。

 深く刻み込まれた言葉を噛み締めて、バス停へと向かった。


 稲羽の家には、歴史を遡れば私以外にも能力者がいる。最も有名なのは平安時代の書物にも出てくる稲羽守道もりみちだ。守道は術を使い物の怪を祓っていたらしく、我が家には守道が作り上げたと思われる術の写本がある。とはいえ現在残っているのは「江戸時代に一度燃えてなくなった原本を記憶を頼りに作り直したもの」を更に書き写したもの、らしい。要は、どれほど正しく残っているか全く以って不明なのだ。

 私は久しぶりに産まれた能力者として、子供の頃から門外不出のその本を読まされた。しかし漢字しか並んでいないそれはまともに読むことすら困難で、苦痛でしかなかった。大学で文学部へ進み古典の解読を専攻したのは、偶然ではない。何かあった時のために準備はしていた。ただ、稲羽の術は父の力を借りずには行えない。

 お役目以上に力を使えば父を認めることになりそうで、ずっと踏み出せなかった。恋人から母を奪って山に隠し祖母を殺した祟り神を、そんな神の血を継ぐ呪われた自分を肯定することになりそうで許せなかったのだ。

 『術の写本を速達で送って』『あれは門外不出だ』『じゃあスキャナで読み込んで画像を送って。主か怪が絡んでるから、術がないと遺体が探せない』『使うのか』

 昼休憩中らしい伯父からの返信はすぐに届くが、次の答えを指が迷う。伯父を守りたいなら、何も迷うことはないだろう。子供じみたこんな意地はさっさと捨てて、利を選べばいい。

――神様に助けてもらえよ。神様の子供なんだろ?

 しつこく蘇る声に目を閉じ、長い息を吐く。伯父のために、我が子の遺体を待つあの人達のために腹を括らねば。目を開き、汗ばむ手で携帯を握り直す。

 『うん』

 短い答えを送信する指が、震えていた。


 ひとまず必要そうな術は、姿が見えるようにする術と動きを止める術、憑依を解く術、滅す術か。それぞれ数種類あるが、さすが術師本人が構築しただけあって文言は簡素だ。発動までの時間が長いと命取りになるからだろう。相手の名前が必要な術もあるが、本当にこれで大丈夫なのかと心配になるくらい簡単だ。

 もう一つ不安があるとすれば、守道やこれまでの術師は父の血を引いているわけではない点だ。同じ能力者でも、守道達の能力の出どころと私の能力の出どころは違う。その差が何を生むのか、もしかしたら私には使えない可能性だってある。

 狭いホテルの一室をぐるりと見渡し、デスクから腰を上げる。部屋の電気を消して、手探りでベッドへ座った。ひとまず初級っぽい、光を集める術を試してみればいい。

 手をかざすようにもたげ、目を閉じ深呼吸をする。あとは父の名を呼び、その力により目的を託すだけだ。父の名を。荒れ始める胸に深呼吸を繰り返し、落ち着くのを待つ。私のためではない。伯父と、事件解決のためだ。

 薄く目を開き、つばを飲む。

「氷雪山が神、九多真塩よ。吾に光を与えよ」

 唱えた瞬間、目の前に眩しい光が拡がる。ただそれは突然光が湧き出したのではなく、周りの照明が一度に点いて……ああ、だめだ眩しい。

 上がりゆく光量に目を閉じてすぐ、ふっと明るさが消えた。目を開くが、残像がちらついてうまく見えない。手探りで壁へ向かいスイッチを押してみたものの、灯る様子はなかった。停電か。

 再び手探りで、今度は窓の方へ向かう。おそるおそる確かめたカーテンの向こう一面が暗くて、項垂れた。私のせいだろう。面と向かって詫びるわけにはいかないが、今年のふるさと納税で足りるだろうか。暗闇の中でかざした手が、不意に輪郭を持つ。街に戻り始めた光を見て、胸を撫で下ろした。

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