六月:捨てられぬのなら守れ

第8話

 今年はどうも、全国的に梅雨入りが遅れているらしい。もう六月半ばになるのに、梅雨入りの報せが届かない。雨や雪の多い土地だから梅雨入りが遅れたところで問題はないが、それでも植林されたばかりの苗木の様子は気になってしまう。

「お前んちの山、評価額いくらだ」

 斜向いで牌を掻き混ぜながら尋ねた真方に、手を止める。

「その辺は伯父が管理してるので知りませんけど、手入れしてるし六百万くらいじゃないですか」

「そんな安くないだろう。県内最高峰だし、歴史的価値もある。雪山は絶景だしな」

 向かいで同じように牌を掻き混ぜる新田が口を挟んだ。

「でも、いくら値段がついたとこで売れない山ですから」

 苦笑し、混ぜた牌を裏返していく。

 県内最高峰の個人所有が許されているのは、おそらく全国でもここだけだろう。本来なら国定公園として指定されてもおかしくない山だ。でも別に国や県が忖度しているわけでも(例外中の例外として県と市から補助は受けているが)、稲羽が所有を主張しているわけでもない。氷雪山は正に「触らぬ神に祟りなし」の霊山で、下手につつくと天変地異で大地が荒れてしまう。父が許さないのだ。

「ていうか、山ってそんな安いの?」

 反対側の斜向かいで、拓磨たくまが私を窺う。現在は新田の家で絶賛家庭麻雀中、拓磨は二十四歳になる新田の息子だ。今は地元大の大学院で、機械工学の研究を続けているらしい。死亡した米村は工学部OBで、同じように院までバイオ工学を学んだあと市役所へ就職していた。

「松茸がとれたり幹線道路に近かったり、手入れして育て続けた山なんかはそれなりに高いですけど、そうじゃなければ二束三文ですよ。相続税は結構するのに、継ぐ時に売っ払おうとしてもなかなか売れないし。一応、物納もできるんですけどね」

「そうなんだ。山持ちって、すげえ金持ちのイメージがあるのに」

「それは二昔前、林業で食べていけてた時代までですよ。今は維持費も掛かるし、木を切り出したところで輸入材に押されっぱなしで売れないし。値段も、かなり安いですよね?」

 着々と積み始めた周りの手に気づき、私も慣れない手つきで二列に積み上げる。

「昔に比べればな。今は杉で一本四千円くらいじゃないか。でも解部の杉はブランドになってるから、一万はするだろ」

「一本一万て、安くね?」

「それをうっすーくスライスして、一枚二万とかで売りつけるんだよ」

「あくどい商売してるみたいに言わないでください。どこもそういうもんなんです」

 苦笑し、どうにか積み上げた列を前に押し出す。ならドラ決めな、と真方がサイコロを振った。

 家庭麻雀大会もこれで五回目、なぜこんな状況になっているのか自分でもよく分からない。四月の歓迎会のあとで麻雀をする話になったものの、私を雀荘へ出入りさせたくない新田の案により家で打つことになってしまったのだ。

――息子もいいらしいから、うちで打とう。

 家へ連絡した新田が、酔いの回った赤い顔で嬉しそうに言った。九時を過ぎた訪問なんて失礼ではないかと思ったが、そういえば新田はバツイチ独身だと書いてあった。子供は拓磨の下に娘が一人、そちらは妻が引き取っているらしい。

「あ、玉依ちゃん、焼酎のおかわりいる?」

「いえ、今日はもうやめときます。捨て牌間違えそうだから」

 新田も見た目にそぐわず親しみやすいタイプだが、拓磨の人懐こさはそれ以上だ。まさかこの歳になって、年下男子に「ちゃん」づけで呼ばれる日が来るとは思わなかった。

 新田の厳つさをまるで引き継がなかったらしい拓磨は、骨の細い華奢な見た目で背も低い。小さな顔に笑うと糸のように細くなる目、ちょこんとして目立たない鼻。パーマの掛かった長めの髪はふわふわと揺れている。なんだろう、年下なのも相俟って、まるで。まるで子犬のような親しみやすさ。それに比べて、こちらは。

 視線を向けた先で、真方は煙草を噛みながら牌を揃える。ネクタイのないシャツの襟は緩い。まくりあげられた袖から伸びた腕には、日々のお勤めや修行でついたらしき痕が見えた。しかし少し引いて見れば、切った張ったでついたようにも見えてしまうレベルで柄が悪い。

「お坊さんって、麻雀していいんですか」

 今更のように尋ねた私に、真方は薄く笑う唇の隙間から煙を噴き出す。

「麻雀をして麻雀から抜け出せない者の、酒を飲んで酒から逃れられない者の苦しみを知るのです」

 煙草を灰皿へ置き、呷るようにグラスを傾けた。卓を囲みながらかれこれ五、六杯、芋焼酎をロックで飲んでいるはずだが、まるで酔ったようにない。

「すげえ屁理屈に聞こえる」

 最初の牌を捨てた拓磨が感想を漏らす。私も同意だ。

「悩みってのは、経験したことねえ奴に意見されると腹が立つもんだ。だから『お前に何が分かる』を封じるとこから始めるんだよ。『私もかつて麻雀で身を燃やしたことがありまして』って言えば、澄ました坊さんよりは話聞いてやろうかって気になるだろ」

「そういうもの、なんですか」

「違う。『麻雀で身を燃やすような坊主に寺を任せて大丈夫か』って不安になるだけだから。倭、稲羽に適当なことを吹き込むな。穢れる」

 苦々しげに漏らしながら、新田が牌を捨てる。

 勤務を始めて約二ヶ月、新田は上司というより父親のような立ち位置だ。まあ真方と組んでいるせいで心配が絶えないのだろうが、仕事の進捗よりも私自身を気に掛けている。

「祟り神の娘が今更穢れるもクソもねえだろ」

 真方は引いた牌が気に入らなかった様子で、舌打ちのあとそのまま場に捨てた。

「生まれからして穢れてますもんね」

 ほかの人に言われれば複雑なものも湧くが、真方は同族みたいなものだ。どんな人生を送ってきたのかは、多分その辺の人間よりも想像できる。知らないことにした事実はまだ、部長には知らせていない。

「そんなことを言うもんじゃない」

 強く響いた新田の声に、びくりと指が震えた。

「お、ドラじゃねえか」

 真方は動じることなく、私の指先から滑り落ちた牌を見て笑う。思わず責めた視線にも怯まず、煙草の煙を長くたなびかせた。

「ちょっと、父さん悪酔いしてんの? ごめんね、玉依ちゃん」

「気にしないでください。私もちょっと口が過ぎたから」

 新田を窘めて気遣う拓磨に答えた時、携帯が鳴った。

「男か」

「男ですが、伯父です」

 苦笑で手にとった携帯を確かめ、一旦座を退く。通話ボタンを押して、廊下へ向かった。

「すまんな、夜分に。残業中か」

「大丈夫だよ。仕事すんで課の人達と少し飲んでたとこ」

 廊下に凭れ、赤みのある照明を見上げる。築二十年、くらいか。建てた頃には家族が半分になることなど予想もしていなかったのだろう。私が産まれたあの家も、伯父が一人で暮らすには広すぎる場所になってしまった。

「そうか。さっき、お役目の依頼が入った。隣の県なんだが二日……念のため三日、休めるか。今回、ちょっと異質でな」

「分かった。あー、でも」

 気づいて、一息つく。息が酒臭い。

「お酒飲んでるから、運転できない。申し訳ないけど、アパートまで迎えに来てもらっていい?」

「ああ、分かった。これから行く」

 ごめんね、いや、と短く交わして通話を終えた。

 居間へ戻ると、男三人が手を止めてだべっていた。この雰囲気は程よく緩くて、悪くはない。

「すみません。伯父からの連絡で、お役目が入りました。明日から三日、お休みをいただけませんか?」

「マジかよ、今日新規案件入ったばっかだぞ」

 真方は文句を言い、新しい煙草を咥える。狭い眉間に細い皺を刻み、頭を傾げて飲み屋のライターで火をつけた。色気があってサマにはなるが、善人にも優しい人にも見えない。笑顔で「あとのことは気にしないでいいよ」なんて、絶対言わない人だ。

「そんなもん、お前一人でどうにかしろ。働け」

 新田は溜め息交じりに答え、私を見る。酔いの回った赤い顔が、少し緩んだ。

「いいよ、行っといで。書面は帰ってから出せばいいから」

「激甘だな」

 茶化すように口を挟んだ真方を睨みたくなるが、実際間違ってはいない。

「丸投げしてしまってすみません。隣の県だし本当なら日帰りですむんですけど、なんか異質な案件みたいで。何かあったら、助けてください」

「面倒くせえ」

「倭」

 窘めるように呼び、新田はグラスを傾ける。

「助けてくれたら、お礼に地酒買って帰りますけど」

 巌岳の一件以来、神以外の波長も辿れるようにはなったがまだ心許ない。練達の協力は取りつけておきたかった。

「いつでも来い」

 あっさりと手のひらを返した真方に、新田が項垂れる。

「悪いね、ほんと現金な奴で」

「いえ、楽でいいです。目に見えないものより余程信用できるので」

 目に見えない不確かなものに頼るより、対価を要求される関係の方が確実だ。しかし、途端に場は静まり返ってしまった。

「だからほどほどにしとけっつっただろ」

 真方の薄い笑みにようやく失敗を悟るが、滑り落ちてしまったものは仕方ない。下手に取り繕ったら墓穴を掘りそうな話題だ。

「すみません。そんなわけで、今日はお先に失礼します。タクシー呼びますけど、真方さんも乗ります?」

「いや、俺はもうちょっといるわ」

「じゃあ俺、送るよ。今日飲んでないし。車出してくる」

 気づいたように腰を上げた拓磨は、こちらの反応を確かめず玄関へ向かう。振り向くと、真方がニヤついていた。

「なんですか」

「いやあ、若えなあって。オッサンには眩しすぎて、もうついていけねえわ」

「確かに真方さんよりは若いですが、分別もありますのでご安心ください。上司の大事なご子息の将来に傷をつけるようなことは決していたしませんので」

「俺は構わないけどね」

「えっ」

 角が立たないように返した辞退を差し戻されて、短く驚く。酔いに任せて安易に答えたのかもしれないが、流すには気になりすぎる言葉だ。そんな分不相応なことをするわけにはいかない。

「あの、新田さん。私の出自はご存知ですよね?」

 控えめに確かめた私に、新田は両手でグラスを握り締めたまま視線を落とした。

「だから、そういうことを言わないでくれないか。どんな出自だろうが、がんばって生きてるんだ。それでいいじゃないか」

 気落ちしたような暗い声は、酔いとは関係のない場所から出ていた。重苦しい圧に、初めての可能性が浮かぶ。まさか。

 まさか新田も、こちら側なのか。

 真方の出自もだが、これももちろん書かれていない情報だ。迂闊だった。真方がそこを隠す可能性なんて、まるで考えていなかった。

「ほれ、お前は帰れ」

 追い出すように手を払う真方にひとまず頭を下げ、荷物をまとめてそそくさと外へ向かう。最初の反応で気づいておくべきだったのに、しくじった。でもそのおかげで分かったこともある。

 新田がこちら側なら、あらゆる説明が簡単になるのだ。新田が機備課を立ち上げた理由も真方をスカウトした理由も、職員を殺した犯人も。もしかしたら、新田真方ラインなんてなかったのかもしれない。計画も実行も、新田が能力者なら一人でできる。ただ、真方が気づかないわけはないだろう。真方は新田を庇っていて、このままだと新田が私に取り込まれて罪を告白すると考えているのかもしれない。そう考えれば、確かに毒だ。

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