第6話

 赴任一日目の騒動は、瞬く間に公社内を駆け巡り県庁にまで届いたらしい。報告メールを出すより早く届いた部長からの『具合はどうですか』に、思わず凍った。『ぼちぼちです』では無理な状況に、長い言い訳を連ねたのは数日前だ。

 一件の後始末をどうにか終えたらしい新田は、私と真方を交互に眺めたあと深い溜め息をついた。

「お前は、どんだけ俺に尻拭いをさせれば気がすむんだ。和解できなかったら、完全に機備課はお取り潰しだったぞ」

「先に手を出したのはあいつだし、稲羽の腹を蹴ってんだ。しかも不備を詰められての逆ギレでな。あの程度で許した稲羽の温情に感謝する場面だろ」

 真方はソファへ凭れ、脚を組む。隣の表情に、まるで反省する様子はなかった。

 私は救急での検査に異常はなかったものの、念のため一泊入院をすることにした。ただその夜中に熱を出して、結局三日間の入院となった。祐二の方は鼻と肋骨の骨折やヒビ、打撲で全治三週間らしい。十日経つ今もまだ、入院している。

「だからどうにか話をまとめられたんだ。向こうの親父さんからも、機備課に責任を求めないで欲しいって連絡があったらしいしな」

 続いた新田の嘆息に、視線を落とす。手嶋からは我が家にも詫びの一報があったと、伯父から連絡があった。祐二には今の会社を辞めさせ、自分のところで引き取るらしい。許されるなら私にも直接、と申し出を受けたが辞退した。

「そういうわけなんだけど」

 ちらりと私を窺う新田の視線に苦笑する。私が派遣された表向きの理由と照らし合わせれば、限りなく存続不可に近い評価だ。とはいえ、今回に限っては考慮するべき事情がある。

「起きたことは報告せざるを得ませんが、今回は私の個人的な人間関係が事を大きくしたのは確かです。そこを含めて報告する予定ですから」

 今回は救いがあったが、最初からこれでは先が思いやられる。こんなことを繰り返しても存続を認め続けたら、さすがに不審に思われるだろう。本来の目的がバレてしまう。

「県側も、機備課を潰したくて私を派遣したわけではありません。取り潰しありきではないんです。ただ存続のためには、健全かつ適切な運営が必須条件です。今後も今回のような事例が多発するのであれば、それなりの報告書を上げなければならなくなります」

 ひとまず当たり障りのない立場を表明して、隣へ視線をやる。真方は相変わらず、我関せずの振る舞いを貫いていた。

「真方さん、いいですね?」

「へいへい」

「倭」

 窘めるように名前で呼び、新田は嘆息する。ただの檀家と副住職にしては気安い関係だ。真方も新田には多少、心を許しているように見える。真方を幼い頃から見守ってきたのかもしれない。この二人の関係も、少しずつ探っていかねばならないだろう。

「真方さんは、新田さんのスカウトだとお伺いしましたが」

「そんな格好いいもんじゃないよ。こいつが住職のとこに来たのは十一の時で」

「オヤジ」

 え、と戸惑う私の隣で真方が体を起こす。息子ではないのか。

「勝手に人の話をべらべら喋ってんじゃねえよ」

「ああ、そうだな。悪い悪い」

 真方は不快そうに話を終わらせ腰を上げ、ドアへ向かう。

「行くぞ、最後の仕上げが残ってんだろ」

 あ、と慌てて私も腰を上げ、新田に頭を下げてあとを追った。

「さっきの、聞かなかったことにした方がいいですか」

「別にそこまで隠すようなネタじゃねえよ。ただ拾われて寺の養子になったって話だ」

 廊下を歩きながら振った話題に、真方は端的に答える。それきり話は打ち切られ、黙ったままエレベーターに乗った。三階は理事長室・専務理事室・会議室、二階は林業企画課と木質バイオマス推進課、一階は総務課と林業経営課。殺された件の職員とやりとりしていたのは、木質バイオマス推進課だろう。

 職員は収賄の実働部隊でしかなかったが、決断などは全て任されていたようだ。贈賄業者の供述では、協力者がいたようには見えなかったらしい。

 米村よねむられい、享年三十九歳で独身、一人暮らし。勤務態度は真面目だが大人しく、職場ではあまり人付き合いの良い方ではなかったらしい。一方で、趣味の麻雀には借金を作るほどハマっていた。実働部隊として働かせるにはベストな人材だろう。

 ただ話してみた印象では、新田は良識のある上司だ。こざっぱりと整えられた身なりは分相応に見えたし、雰囲気にも余裕がある。とても百五十万のために人を殺しそうなタイプには見えなかった。とはいえ私は、それほど人を見る目がある方ではない。

「ひとまず今回の報告書には注釈をたっぷりつけておきますので、安心してください」

「俺は別に、クビになっても構わねえけどな」

 鼻で笑う真方を見上げ、辿り着いた一階にバッグを持ち直す。

「私は続けて欲しいですけどね。普通に暮らしてたら、人はまるで自分の力だけで生きてるように勘違いしがちですし。山も海も川も、人だけのものではないのに」

 機備課の仕事は、人と見えない存在の折り合いをつける仕事だ。真方のやり方は問題山積みだし殺害疑惑は全く払拭できていないが、存在意義はある。

「お前がその持ち腐れてる霊力を使えりゃ、任せて引退できるのになあ」

「そうは問屋が、ってやつですよ。世の中うまくできてますね」

 出ようとした扉の向こうに職員達の姿を見て、少し驚く。向こうも面食らった様子で、ぎこちなく頭を下げ合いながら入れ替わった。男性職員が二人、ぶら下がったネームプレートは木質バイオマス推進課のものだった。

 部長が内偵対象を新田と真方に絞り込んでいたのは、おそらく警察の捜査を受けてだろう。でもそれは「能力者が真方しかいないから」のはずだ。もし真方以外の職員にも能力者がいたら。

「ちなみにここには、真方さん以外にも特殊能力を持った職員さんっているんですか」

「いねえな、俺一人だ」

 あっさり断たれた可能性に思わず苦笑する。真方自ら容疑者を絞り込んでしまった。まあ能力者なんて、そうあちこちにいるものではない。

「何やってんだ、行くぞ」

「あ、はい!」

 気づくと、真方はもう玄関ドアをくぐるところだった。慌てて駆け出し、閉まりそうなドアを掴む。真方の背は既に駐車場へと向かっていた。相変わらず気遣いは一切ない。人を人と思わない、常軌を逸するところがあるのもよく分かった。でもこの人が本当に、殺したのだろうか。

 あの日張られた膜の温かさと立ちはだかってくれた背を思い出せば、迷いだけが膨らむ。

――殺しとけよ。願ってたんだろ。

 どちらが本当の真方なのか。揺れる胸の内に答えは出せないまま、車へ向かった。


 現場は、あの翌々日に急遽地鎮祭を行った。私は入院中で辞退したが、真方は出席した。現場監督を始めとした若手の多くはまだ信じられない様子だったらしいが、あれ以来アクシデントの報せは届いていない。これで少しでも、畏敬の念を持ってくれればいい。

「この辺でいいか」

「はい。ありがとうございます」

 真方は私の指示通り、登山口の近くに車を止める。今日は挨拶と詫びに向かうのだから、現場である必要はない。

 車から降り、若葉を揺らす木々の重なりを眺めながら登山口まで進む。

「巌岳の神様。氷雪山が神、九多真塩の娘の稲羽玉依です。ご挨拶とお詫びに参りました。どうか、お近くまでお導きください」

 いつものように山へ向かって名乗り、許しを待つ。といっても声が聞けるわけではないから、大抵は風が吹き下ろすのを待つ。やがて軽やかに揺れ始めた木々に安堵し、頭を下げた。

『よろしいでしょう』

 少し低めの落ち着いた女性の声がして、弾かれたように顔を上げる。今、確かに声が。

「真方さん、今の声、聞こえました? 『よろしいでしょう』って」

「いや、なんも。外道の俺に聞こえるわけねえだろ」

 隣で頬を掻く真方は、嘘を言っているようでもない。

「私も初めて聞こえた……のかな。いや、心の声を勘違いしたのかも。幻聴かもしれない」

「ぶつぶつ言ってねえで、行ってみりゃ分かるだろ。行くぞ」

 真方は私より早く登山道を上がり始める。二人ともスーツだから登山には向かない格好だが、巌岳の神はそう遠くない場所にいる。

「そういえば、あの日救急車を呼ぶって慌ただしくしている時に、真方さんはずっと山を見てましたよね。何かあったんですか」

 それなりに急な道なのに、真方は革靴でもまるで問題なさそうに上がっていく。この人、そういえば僧侶だった。少しずつ開いていく距離に、大きめな声で質問を投げた。

 真方はちらりと振り向いたあと、開いていた距離にようやく気づいた様子で足を止める。

「お前、あの山で育った割に足腰弱えな」

「スーツだからです。あと、真方さんが強すぎるんです」

 ようやく辿り着いた私の言い訳を鼻で笑い、また歩き出す。

「あ、そこの脇道に入って、登ってください」

 指示に従い、脇道を選んだ。

「あれはな、初めて神に使われたって分かって呆然としてたんだよ」

「使役ってことですか」

「俺の中では『いいように使われた』ってのが一番しっくり来るけどな」

「真方さん、御前です」

 苦笑した私に、真方は足を止める。目の前にあるブナの若木を確かめてから、疑う視線を私へ向けた。

「最初におわした木は、スキー場の開発で伐採されてしまったんです。その後も何度か移らざるを得なくなって、今はこの若木に」

「なるほど、そういうことか」

 真方は納得した様子で頷き、再び若木に向かい軽く頭を下げる。できれば最敬礼して欲しかったところだが、仕方ない。

「ご無沙汰をしております、玉依です。いつもこの地をお守りくださり、ありがとうございます」

『ええ、久しぶりですね、玉依』

 幻聴じゃない。また聞こえた声に顔を上げ、若木をじっと見据える。

「あの、大変失礼なことを申し上げますが、お声が聞こえる気がするのですが」

『そのとおりです、聞こえるようになったのですよ』

 外から聞こえるのではなく、頭の奥でモヤが音に変換されるような感覚だ。内から、聞こえている。

「でも、どうしてでしょうか。これまでは一度も」

『お前が試練を乗り越えたからです。その者の力を借りて、ではありますが』

 試練を、力を借りて乗り越えた? 戸惑いながら横目で確かめた真方は、会話が聞こえないせいか休めの姿勢で明らかに気を抜いていた。

『神の子でありながら、お前はあまりにも暗い感情を抱えすぎました。もちろんそれは故あってのことですが、積もりに積もった悪しき想念が聞こえるものを聞こえなく、見えるものを見えなくさせていたのです。私は、ほかの神もいつだって今のように応え、話し掛けていたのですよ』

 穏やかに語られる事実に、恥ずかしさがこみあげる。聞こえず見えず、は単にそういうものなのだろうと思っていた。もちろん抱えすぎた暗い感情には心当たりがありすぎる。

『お前はようやく、己の暗い欲に打ち勝ったのです。誰よりも憎んだ相手を殺させなかった。私はきちんと見ていましたよ』

「でも、恨みが消えたわけではありません。あれは、真方さんを犯人にしたくなかっただけです」

『では、お前が殺しますか。何も知らぬ者は責めるでしょうが、全てを知る者達は許すでしょう』

 大人しい声で告げる神に、あの日感じた死の感覚を思い出して腕をさする。研ぎ澄まされたような恐怖だった。あれを今度は、私が自分で。

「私は」

 続いて浮かんだ手嶋の姿に、視線を落とす。「殺されるだけのことをした」と泣きながら詫びる情景が容易く想像できて、ぞっとした。殺せばそこからは、その姿に苦しめられる日々が始まる。積年の恨みが、より長く続く罪悪感へと形を変える地獄だ。

「……できません。でもこのまま、一生恨み続けます。死んでも許せません。これでも、乗り越えたことになるのでしょうか」

『あの時、命を喪う恐怖を前に憎しみが霞んだでしょう。命にまとわりつく全てのものが消え、そのものの重みと向き合ったはずです』

 確かに、そうかもしれない。血にまみれたあの顔を見た時、「祐二」が消えた気がした。

『人としてどれほど憎もうと命は憎まない、必要なのはその決断でした』

「では、これで良いと」

『ええ、今は構いません。これで、今までお前の力を封じていた枷は外れました。神性が目覚めていくほどに、己の成長にも気づくでしょう』

 ふふ、と笑む声は穏やかだ。これまでは確かにあった、ぴりぴりと肌を刺激する圧のようなものが感じられない。これも、私が暗いものを抱えすぎていたからなのだろう。自分の状態が遠ざけているなんて、思ってもみなかった。

「で、本題に入らなくていいのか」

 至らなさを顧みている私に、空気を読まない真方の突っ込みが入る。ああそうだ、いつまでも自分のことでショックを受けている場合ではない。

 居住まいを正し、再び若木に向かう。

「申し訳ありません、ご挨拶が長くなりました。今日は、麓で行われている工事の一件についてお詫びに参りました。この度は、私共が大変失礼をいたしました。本当に、申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げ、非礼を詫びる。たとえ祐二のしでかしたことでも、人の子としてまとめてしまえば「私共」だ。ひとくくりにする憤りがないわけではない。それでも礼を失した祐二のためにこの地が守りを失うようなことがあれば、もっと後悔するのは分かっている。恨むべき相手を、一般化してはいけない。

『お前は、私が地鎮祭をしなかったから腹を立てて工事の邪魔をした、と思っているのですね』

 少し落胆したような声に、頭を上げた。

「違うのですか?」

『神の子でありながら、浅はかなこと。確かに礼儀を弁えることは大切ですが、そこでおしまいでは人の子と同じでしょう』

 びり、と伝わる圧に冷や汗が滲む。頭を下げつつも二度目の表現に胸がささくれ立つのが分かった。私だって、好きで神の子に生まれたわけではない。普通に、人間の父親と母親がいて仲良く食卓を囲む家庭に生まれたかった。生まれていれば、いじめられることだってなかったはずだ。じわりと胸に拡がり始める暗い感情に、唇を噛む。

『未だ親を恨んでいるようでは、赤子と同じですよ』

 諭す口調だが、素直に受け止められるほどの清さはない。

『とはいえ、お前を不出来と言うつもりはありません。生まれが重き者は生涯かけてその意味を問い続ける、今はその途中です。お前達の人生は、その苦難なくしては遂げられません』

 複数形になった最後に、若葉の枝を揺らす若木をじっと見据える。そのまま隣へ向けた視線に、真方は不機嫌そうな表情を浮かべた。

「なんか、余計なこと言われた気がするわ」

 動物的な勘で察した真方に苦笑する。確かに真方にとっては余計なことかもしれない。

「大丈夫ですよ、単数だと思ってたところが複数形になってただけです」

『道を妨げてはおらぬから安心なさい』

「道を妨げてはいないから安心しなさい、だそうです」

「どうだかな。大体、神は要らねえ手を出すもんだ。今回も余計な世話だったんじゃねえのか」

「真方さん!」

 不服げに若木へ視線をくれる真方に慌てて、腕を掴んだ。

『構わぬから、言わせなさい』

 引き止める声に惑ったが、逆らうわけにもいかず手を離す。真方は袖を軽く払ったあと、再び若木へ向かった。

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