第5話

 職人は七十を過ぎた重鎮で、予想どおり現場に不満のある従業員の一人だった。口で言えば済むものをいちいち入力するのが面倒だ、電話で報告しても入力しろと言われる、作業が遅いと文句ばかりだ、と尋ねるなり不満が堰を切ったように流れ出した。

「責任者の若造が『文句があるなら辞めていただいて構いません』だと。足元見やがって」

「それは、腹が立ちますね」

「現場のことなんか、何も知らんくせにな。なんで十の手間が必要なのか分からん奴に、五まで減らした時の尻拭いができるわけがない」

 吐き捨てる職人の向こうからもう一人、汗を拭って少し若い職人が顔を上げる。若いと言っても、多分六十は越えている。

「ありゃあ、解部にある建設会社の息子らしいぞ」

 どこだ、あれよ手嶋てしまの、とけんか腰に聞こえるような会話に一瞬、ぐらりとした。

 手嶋。

 脳内で繰り返した途端、喉が干上がるように乾く。全身が総毛立ち、いやな汗が湧くのが分かる。胸の奥が冷え、凍るように縮こまっていくのに動悸が収まらない。

――神様に助けてもらえよ。神様の子供なんだろ?

 暗がりへ引きずり込むように、声が響いた。

「稲羽」

 不意に掴まれた腕に、視界が光を取り戻す。それだけでなく、薄い膜のようなものが私を包んでいるのが分かった。荒れていたはずの息は落ち着いて、いつもより穏やかな気すらする。固く縮こまったはずの胸も、今は温かい。

 助けてくれたのか。

 私に代わって話を続ける真方を眺めながら、胸に湧く感謝と疑いに戸惑う。自分ではできなくても、守られた力の質くらいは分かる。こんな人が本当に、人を殺したのだろうか。

 稲羽、と再び呼ばれて思考を切り上げ、終わったらしい会談に頭を下げる。膜はまだ、私の周りで揺らめいていた。

「ありがとうございました。助かりました、これ」

 駐車場へ向かいながら、膜をちょいとつつく。途端、まるでしゃぼん玉が割れるかのように弾け、一瞬で散った。怯えたが、もうあの感触は蘇らない。胸は穏やかなままだった。

「守りの術、ですか」

「守護っつーか、保護だな。使わねえから修練してねえんだよ。ぺらっぺらだろ」

 術の具合で厚さが変わるのか、どちらにしろ初めて見るものだ。稲羽の家は私が死体探索ができるくらいで、長らく能力者がいない。特殊な力は「まあ、あるんだろうな」程度のものだった。

「でも、自分を守るためには必要なんじゃないですか?」

「俺は攻撃力に全振りしてるからな。攻撃が最大の防御なのは、術式でも変わんねえよ」

 そんなもの、なのだろうか。でも今は、さっきまで真方に抱いていた印象は変わっていた。

――誤解されやすいとこはあるけど、悪い子ではないんだよ。

 理事長の評価は正しい気がする。私の視線に気づいた真方は、にやりと不敵な笑みを浮かべた。

「惚れんなよ」

「惚、れはしません!」

 思わず声を大きくした私に、真方はけらけらと笑う。初めて聞く明るい笑い声だった。

「ああ、それでさっきの話だけど」

 笑いを収め、真方が切り出す。慌てて熱くなった頬を押さえ、気持ちを切り替える。

「あのじいさん、地鎮祭に出てねえって言ったんだよ。元請けがもう済ませてたらしくて、いきなり作業に取り掛かったらしい」

「それは、引っ掛かりますね」

 よそはどうか知らないが、この辺りの地鎮祭は可能な限り作業員も出席して行うのが習いだ。一般住宅ならともかく山を切り開いて行うような工事でそんな簡略した地鎮祭を行うのは、私は聞いたことがなかった。

「それがお怒りに触れた可能性は、ありますね。一度」

 元請けに、と続けたかった言葉が詰まる。責任者は、手嶋の息子。現場監督は「三十もいかない」と話していたから、間違いないだろう。

「すみません。私事ではあるんですが、先に話しておきたいことがあって」

 隠したままでは、この先の仕事はやっていけない。また助けてもらうにしても、隠したままでは都合が良すぎる。

「なら、戻りながら聞くわ」

 ヘルメットを脱ぎながら真方が答えた向こうで、現場には不似合いなセダンが止まる。そこから颯爽と降りてきたスーツ姿に足を止め、思わず後ずさった。ざあ、と血の気が引き、肌が粟立つ。

 真方は何かを察した様子で、私の腕を掴む。大丈夫だ、と小さく聞こえてすぐ、またあの膜が私を守った。

「失礼ですが、林業公社から来られたのはあなた達ですか?」

 早足で近づいた男は眉をひそめ、既に不機嫌が分かる表情をしていた。身長は真方と同じほど、体型も細身で似たようなものだったが、まとう雰囲気はまるで違う。大作りな造作は、多少顔が伸びたくらいで子供の頃と変わらない。眼鏡を加えたところで少しも、私を楽にするものではなかった。

 ただ、もしこの膜がなければこんな冷静に観察することもできなかっただろう。今頃は冷や汗と動悸と震えをどうすることもできず、うずくまっていたはずだ。

「そうですが、お宅は?」

「この現場の責任者をしております、斧田おのだ建設の手嶋と申します」

 上着のポケットから名刺入れを取り出し、流れるような仕草で真方へ名刺を差し出す。手嶋祐二ゆうじ。間違いない。私を、いじめ抜いた男だ。温かな膜でも御しきれなかったのか、少し吐き気がした。


 祐二は解部町にある建設会社の末っ子次男だ。父親は副町長を務め、会社は兄の了一りょういちが後を継いでいる。了一の下には姉の早月さつきもいるが、二人とも祐二とは十歳ほど年が離れていた。年を取ってからできた末っ子を、手嶋は溺愛していたらしい。祐二が幼い頃に妻が亡くなったこともそれに拍車を掛けたのだと、了一に聞いたことがある。

 祐二が私をいじめ始めたのは、私が小学校に上がってすぐの頃だった。私の二つ上だが既に同級生を顎で使い大人には理屈で対抗する生意気な子供で、周囲も手を焼いていた。私の出自を噂で聞いて、興味を持ったらしい。目をつけ執着し続けた理由は「嘘をついているから」だった。

――子供は、神様との間には産まれないと思います。嘘をついてるのに、どうして先生は叱らないんですか。本当に神様の子供なら、神様に助けてもらえばいいじゃないですか。

 集められた大人達の前で祐二は私を指差し、嘘つきだと憎々しげに言い放った。担任は「たとえそうであろうとなかろうと」と論点をぼかしながら諭したが、そんな言葉が通じるわけもない。教師達も「かわいそうな児童」の事情を扱いかねて、対応はばらばらだった。

 何度目の呼び出しか、「二人とも山にいる」と精一杯の抵抗を返した私に「違うだろ、親に捨てられたんだよバーカ」と言い放ち、祐二は手嶋に殴られた。親である手嶋は、了一や早月は、至極まっとうな人間だった。ただ祐二だけが、まるで何かに取り憑かれたかのように私に執着したのだ。

 祐二は何度も周囲に叱られ手嶋や了一には殴られ、専門のカウンセリングを受け、遂には専用の副担任まで導入された。私の力を証明するため、氷雪山でのお役目に同行させたこともある。それでも関係の解消は、奴の卒業まで訪れなかった。

――これでもう玉依ちゃんに悪さはできない。本当に、申し訳なかった。

 祐二は小学校卒業後、腹に据えかねた手嶋により県外にある全寮制の中高一貫私立へと送られた。

 しかしこれで平穏を取り戻せると思ったのも束の間、祐二との縁が切れただけでは地獄は終わらなかった。祐二が数年に渡り、私を「悪い奴」だと周りに吹き込んでいたからだ。

 あいつは嘘をついてるのに大人達に守られてる。ひいきされてる。先生はあいつの味方ばっかりする。嘘つきのくせに。

 その思想は、大将がいなくなったところで簡単には消えなかった。結局私は、中学を卒業するまで針の筵を歩き続けた。毎晩のように学校を潰し、一人残らず抹殺する妄想に耽って自分を保った。

「そちらの方は?」

 既に真方とは名刺交換を終えたらしい。私の名刺を催促する声に、顔がひきつる。あれから十数年か、顔は忘れたらしいが名前を見れば思い出すはずだ。

「すみません。今日県庁から派遣されたばかりなんで、まだ名刺の準備ができてないんですよ」

「ああ、県庁からですか」

 品定めするような視線を向ける祐二に、視線を落とす。真方は助け舟を出してくれたが、どのみち名乗らずにはやり過ごせないだろう。

「県農林水産部林業課より派遣されました……稲羽玉依です」

 膜に守られていても、声が震える。名乗った私に、少し間が空いた。俯いたまま、握った拳に力を込める。

「へえ。結局あの嘘を利用して、仕事にまでありついたわけか」

 嘲笑を含んだ声に、胸の奥が凍っていく。今ならあの頃よりうまく言い返せるはずなのに、噤んだ口は開きそうにない。

「うちは、機備課なんて胡散臭いとこに頼らなきゃいけないような真似は何もしてませんよ。変な評判が立つと困りますんで、帰ってもらえますか」

「じゃあ、そうさせてもらいます。現場は元請けの指示どおりに働いてたみたいなんで、『一連の事故や機器の故障は元請けの管理不行届によるもの』でいいですかね。一応、県庁の土木課にも報告を上げときたいんで」

 真方の切り返しに、思わず顔を上げる。祐二は眉をひそめ、苛立ちを込めた視線で真方を睨んだ。

「それが困るってんなら、いくつか質問に答えてもらいたいんですが」

「機備課の真方はヤクザか外道って話だが、そう間違ってもないみたいだな」

「そうですね。この前一人、山の怪の餌にして病院送りにしたとこなんで」

 祐二の眉尻がぴくりと動く。大人になったところで気性は相変わらず、今となっては幼稚さでしかない。この十数年、何をしていたのだろう。

「こいつの肩を持つくらいだから、あんたはこいつが神の子って信じてるんだろうな」

「信じるも何も、見りゃ分かるんでね。で、どうします? 質問に答えます?」

 全く動じず受け流した真方に、祐二は面食らったような表情を浮かべる。初めて見る、素の表情だった。祐二はすぐ私の視線に気づき、悔しげに顔を背ける。私に見られたのが余程気に入らなかったのだろう。真方の方が上手なのは、明らかだった。

「分かりました。手短にお願いします」

 祐二は切り替えるように肩で息をし、質問を許す。どうも、と答えた真方に慌ててノートを取り出した。

「早速ですが、職人達から『地鎮祭に呼ばれなかった』と聞きましてね」

「それが原因だとでも?」

 被せるように言い返し、祐二は腕を組む。少しでも、どうにかして上に立ちたいのだろう。隠さない不機嫌に飲み込まれそうで、息苦しい。この膜がなければ、どうなっていたか分からない。改めて感謝し、努めて深い息をした。

「俺はヤクザで外道なので神とは波長が合わないんですが、逆に稲羽は神としか波長が合わないんです。その稲羽の話だと、ここの神さんは厳しいそうで。地鎮祭に何かしら不備があったんじゃないかって見立てなんですよ」

 祐二は私をちらりと見たあと、うんざりした様子で溜め息をつく。わざとらしい挑発に苛立ちが湧いた。怯えてみたり苛立ったり、情緒が不安定で落ち着かない。もうそろそろ、この膜も限界だろうか。

「何も不備はない。彼らがすぐ仕事に取り掛かることができるように段取りしただけだ」

「つまり、これまでは下請けも含めて行っていた地鎮祭を元請けだけで終わらせた、と」

「別に構わないだろう。俺は無神論者でね。あんな非科学的なもの、金と時間の無駄だ」

 吐き捨てるように答えた祐二に、いやな予感がした。

「まさか、しなかったんですか。山を切り開くような工事でそんな」

「黙れ!」

 短く遮る言葉にびくりとして、口を噤む。ノートを握る手が震え始めたのが分かった。ダメだ、もう耐えられないかもしれない。抑えようとしても、息が短く荒くなっていく。いたるところから、冷たい汗がじわりと滲む。もう、無理だ。

「じゃあ俺が言い方変えてやるわ。まさか『してねえ』なんて言わねえよな?」

 うずくまりかけた時、私を隠すように真方が前に立つ。

「……必要ないから、しなかっただけだ。これまでも同じようにやってきたが、なんの問題もなかった。それを今回だけが祟りだなんて、バカげてる。神なんているわけないだろ。いるんなら、証拠を見せろよ」

 昔を思い出す、煽るような口調だった。できないと分かって言っている。もっとも、「いないからできない」わけではない。神は山の主や怪とは違う。人の子の争いを見ていても、そのいちいちに姿を現して力を使うことはない。だから、私も救われなかった。

「それは無理だけど、あんたの母親が後ろで『もうやめなさい』って、さっきから泣いてんぞ」

 弾かれたように顔を上げた先で、祐二が真方の胸倉を掴んだ。

「やめて、離して!」

 慌てて引き剥がそうと駆け寄ったが、触れるより早く祐二の足が飛ぶ。あ、と思った時には、もう遅かった。

――助けてって呼んでみろよ。助けに来てもらえよ。親が神様なんだろ?

 心の中では呼んだのだ、何千回も何万回も。遠慮なんてしたことはない。何度、今すぐ助けに来て祐二を殺して欲しいと願ったか。でも私が身を以て知ったのは、父は私ごときの願いでは動かない事実だけだった。

 気づくと、蹴り飛ばされてうずくまっていた。視界が揺れ、ちかちかと銀が舞う。息が、できない。痛む腹を押さえて苦しい息を吐く向こうで、崩れ落ちる祐二が見えた。

「母親が死んで神を恨むのは勝手だろうよ。でも、こいつがお前になんかしたのかよ。幼稚な八つ当たりをいつまで引きずってんだ、クソガキが!」

 声を荒げる真方に、これまでどうしても分からなかった謎が解けていく。どうしてここまで私を敵視し、執着し続けたのか。「嘘つきだから」の先にある、本当の理由だ。

 ああ、と思わず声が漏れる。しかし次には祐二を蹴り倒す真方の足が見えて、感傷が消えた。真方は一切の遠慮なく、やり返せない祐二を蹴り続ける。えづくような、鈍い声がした。

「もう、もういいです、真方さん!」

「殺しとけよ、願ってたんだろ」

 掠れた声で訴えた私に、真方は呻く祐二をまた蹴り上げながら返す。背を向けた祐二はぐたりと頭を落とし、黙った。

 このまま任せていれば、間違いなく祐二は死ぬ。殺してもらえる。確かにそれは、どの願いよりも強いものだった。もちろん、今も願っている。こんな男、死ねばいい。死んでしまえば。でも、震えが止まらない。腹を押さえる手が、揺れている。

 また蹴り上げた足に祐二の体が仰向けに倒れ、眼鏡の消えた顔がごろりとこちらを向く。血に、染まっていた。

 死ぬ。

 どくり、と胸が大きく鳴り、汗が全身から噴き出す。……ダメだ。

「もう、いいんです!」

 悲痛に響いた声に、真方はようやく足を止めて荒い息を吐いた。

 今頃になって駆けつけた従業員達が、私達のただならぬ様子に戸惑いを浮かべる。大丈夫ですか、と私のそばにしゃがみこんだのは、現場監督だった。

「責任者の方がうちの真方に掴み掛かって、止めに入ったらお腹を蹴り飛ばされました。それで、けんかに」

 震える声で事情を伝える向こうで、救急車呼べ、と荒れた声がした。間に合うだろうか。真方は、本当に殺すつもりだったはずだ。蹴り上げる足にも表情にも、ためらいはなかった。

「すみません、今救急車呼びますんで。おい二台呼べ、二台!」

 現場監督の指示を聞きつつ眺めた真方は、誰の話に答えるでもなくただじっと、巌岳の山頂を見つめていた。

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