第4話
資料には五十七歳とあった新田は、予想より若々しい男性だった。身長は一八〇センチくらいか、真方より縦にも横にも一回りは大きくがっちりとしていた。その理由は潰れた耳からも察せたが、尋ねてみたら嬉々として柔道歴を披露してくれた。
「お前、オッサン転がすのうめえな。オヤジがあんな笑顔で喋ってんの、飲み屋以外で初めて見たわ。俺の前ではほぼ苦虫噛み潰したみてえな顔してんのに」
現場を目指してハンドルを繰りつつ、真方が感心したように言う。
「それは真方さんに問題があるんだと思いますよ」
依頼書を元に今回の案件をノートにまとめながら、顔を見ないまま返す。
――いい人が来てくれて助かったよ。こいつのおかげで毎日胃が痛くてね。
安堵した様子で話す新田に、心が痛んだ。もちろん信用させるため柔道に話を振ったわけではないが、結果的には通常以上の信頼を取りつけてしまった気はする。
「今回の案件について概要をまとめたんですが、聞きますか?」
「頼むわ」
真方は上着の内ポケットから煙草を取り出し、咥えて引き抜く。窓を少し開けたあと、私に尋ねることなく火をつけた。この人、彼女いないんだろうな。まあ、いらない人か。
私も助手席の窓を少し開け、漂い始めた臭いを薄める。では、と切り替えるように小さく咳をした。
現場は市内から東へ車で二十分ほど、隣県との県境に聳え立つ標高約千二百メートルの
「私はこの、九月から工事を始めたのに事故は十月頃からってとこが気になって」
「一ヶ月は様子見してただけじゃねえのか」
確かに工事そのものを許さないのなら、もっと早く事故は起きていたはずだ。「何かしらの無礼がありながらも耐えていたが改善されないため、分からせるために事故を起こし始めた」と考えるのはおかしくない。でも、今回は巌岳の女神だ。
「もちろんその可能性はあるんですけど、巌岳の神様は厳しい方なんです。だから何か、十月の辺りに失礼なことをしてお怒りを買ったんじゃないかと。ただすぐにお伺いするような真似はそれこそお許しにならないので、先に現場で聞き込みしましょう」
神の性格も千差万別、緩い神もいればそうでない神もいる。それでも、山へ入るならその神やしきたりに従うのが鉄則だ。
「厳しい方ですが、理不尽に人の子を戒めるようなことは絶対になさいません」
「便利だな、お前」
煙草の煙を長く吐き出しながら、真方は私を一瞥する。
「俺は山の主までは見えるし話せるけど、神とは波長が合わねえんだよ。ひとまず県内の山の神さんは文献や昔話を漁って知識として入れてるけどな。性格なんて知らねえわ」
「そう、ですか」
予想外の反応に対応しきれずぎこちなく返した私に、今度は怪訝な視線をくれた。一息ついてノートを閉じ、手を組む。小さな手は指先も丸く、爪も素っ気ないままだ。メイクやネイルに手を抜き始めて、何年経つだろう。今はもう、女として気合を入れるのは一年に一回だけだ。まるでイベントのようになってしまった。
「便利なんて言われたのは、初めてなので。ほとんどの人は、私のことを『かわいそうな子』か『嘘つきのイタい奴』だと思ってます。力を信じている人は畏れるか避けるか。遺体探しを依頼した家族には感謝されますけどね。だからって、友達にはなれないし」
気づいた時にはもう、いじめられっ子だった。
――神様に助けてもらえよ。神様の子供なんだろ?
中学を卒業して町外の高校へ進学するまで、地獄のような九年間を過ごした。高校になってようやく平和を手に入れたものの、卑屈で怯えた態度が周囲を遠ざけた。最初のうちは取り繕えても、少しずつ地が出てしまうのだ。出生をひた隠しても、「なんか変な子」以上の何かにはなれなかった。
ようやく建設的なコミュニケーションが取れるようになったのは、大学へ入ってからだ。初めてできた彼氏は、私が苦しい身の上を打ち明けても変わらなかった。大丈夫、俺がいるよ、と温かい言葉と腕で私を救い続けてくれた。でも。
――え、あの話本当だったの?
遺体探しのお役目に向かうと告げた私に、初めて強張った表情を浮かべた。彼は私がアニメやラノベの設定を真似して、悲劇のヒロインを演じているだけだと思っていたのだろう。お役目を終えて戻った部屋からは、彼の荷物が消えていた。
「友達なんかいらねえだろ。そんなに柵背負いてえのかよ」
「そういうわけじゃないですけど。『私のことを全部知っても仲良くしてくれる友達』が、子供時代の夢だったんです。今はもう、叶わないって分かってますけどね」
今となっては夢物語だ。友情だのなんだので結びつく関係より、利害で結ばれる関係の方が余程信頼できることも知った。それでもたまに、夢を見てしまう。
「だから、余裕ができたら犬を飼いたいんです」
「婚期が遠のく典型的なルートだな」
真方は鼻で笑い、灰皿に煙草を弾いた。
「友達すらできない私に、結婚なんて無理ですよ」
稲羽本家は私の代で終わる。父だって、その覚悟くらいしているだろう。
「あんな家、潰れてしまえばいいんです」
どうしても恨みが滲み出る口元を押さえ、窓外に巌岳を眺める。
巌岳の神は確かに厳しいが、登山はもちろん我が県側と隣県側にそれぞれスキー場を抱える上にキャンプ場まで受け入れている。基本的には、人の生活に寄り添ってくれる神だ。今更、道路工事くらいで腹を立てるとは思えない。一ヶ月のブランクには、必ず何か理由があるはずだ。
車は『関係者以外立ち入り禁止』の看板脇をすり抜けて、現場へ入った。
現場で私達を迎えてくれたのは、公社に相談を寄せた下請け業者の従業員だった。前任が事故に遭い、今は自分が現場監督となり人身御供にされていると苦笑した。
「工事が九月開始なのに十月から事故が相次いだとのことですが、九月からはどんな工事を?」
尋ねた真方に現場監督は、ええと、と慌ただしくタブレットをスワイプする。今は現場もIT化なのか、初めて見る姿だった。
「森林組合が入ってますねえ。
「ちなみに、伐木作業中の事故件数は何件ですか?」
ヘルメットの前をもたげて口を出した私に、現場監督は頷いてタブレットの中に答えを探した。
「それは、報告されてないようです」
「ありがとうございます。ということは、やはり工事そのものが怒りに触れているわけではないですね」
ノートに『伐木事故ナシ』と書き込み、思案を巡らせる。あの、と少し惑うような声がした。
「祟りって、本当にあるんですかね」
「あなたは、山の現場は初めてですか?」
「いや、それなりに場数は踏んでますけど、こういうのは初めてなんですよ。この現場が異常なのは間違いないですけどね。ただ『山の神』なんて言われても、ピンとこなくて。むしろ勝手に公社から呼んでるこれの、元請けの反応が不安です」
体つきはまるで違うが、真方と同じ年頃だろうか。現場監督なら十年は働いているはずだ。山へ何度も入っているなら、力の片鱗くらい垣間見ていても良さそうなのに。
「元請けに連絡は?」
再び主導権を引き取った真方が質問を継ぐ。
「俺はしてませんけど、社員がしてるんじゃないですかね。向こうの責任者は、三十もいってなさそうな若い兄ちゃんですよ。『もっと合理的にやれ』とか『効率が悪い』とか、たまに来てそんな小言ばっか言って帰っていきます。とにかく早くしろってうるさくて」
「面倒くせえ奴だな」
ぼそりと漏れてしまったらしい真方の本音に、現場監督は軽く笑った。
「でも、事故さえなければ無駄のない現場だったとは思いますよ。スケジュールや進捗状況もアプリで一元管理だから、誰が知ってて誰が知らないってことがない。朝礼で今日の作業をいちいち確認したり、終礼で進捗報告に時間割いたりする必要がないんです。来たら速攻で今日の作業に取り掛かれるし、さっさと帰れる。最初の段取りも良くて、俺達はすぐ自分の仕事ができる状態でした。初めて経験するレベルのスムーズさでしたよ」
「ほかの皆さんも、似たような意見ですかね」
さっきから数回、真方が尋ねる間にもタブレットからは通知の音が響く。こうしてリアルタイムで進捗状況を共有しているのだろう。確かに風通しはいいし、無駄もなさそうだ。
「どうでしょうね。アプリを使いこなせる若い連中はありがたがってますけど、上の方はね。最初と最後は挨拶で締めるもんだって頑固な職人肌も多いですし」
効率を最重要視すれば当然、犠牲になるものがある。失われた朝礼や終礼に価値を置いている人達がいても、おかしくはない。自分達の常識や普通が揺らげば、反発したくもなるだろう。
「責任者のやり方に反発して、手こずってる職人は?」
「うーん、上の方はみんなそんな感じですよ。近づけば文句しか言われないので、あんまり近づかないようにしてます。仕事が進まなくなるんで」
世代間に溝が生まれるのは致し方ないだろうが、あまり良い状況とは言えない。真方は頷いて、礼を言った。
「その方達に話を聞いて回っても構いませんかね」
「ええどうぞ。長くなりますから、適当に切り上げてくださいね」
許可を求めた真方に、現場監督は彼らを小馬鹿にしたように答える。あまり好きな感触ではなかった。
「私がお話を伺ってもいいですか」
プレハブの事務所を出て現場へ向かう道すがら、真方に切り出す。
「頼むわ。オッサン連中を転がしてくれ」
真方はあっさりと受け入れ、怠そうに首を回す。大きめのヘルメットが似合わない。
「そんなつもりで話すわけじゃありません。失礼ですよ」
「あいにく俺は神の子じゃねえんでな。下衆で結構だ」
真方の口調に強がりや卑下は感じられない。でも「下衆で結構」なんて、初めからあった思考ではないはずだ。何が原因で歪み、人を人と思わないようになったのか。世の中や人間に対して絶望するようなことが、真方にもあったのかもしれない。
「神の子でも死体しか探せないと、陰で『ハイエナ』『ハゲタカ』って言われますよ」
「呪ってやれよ」
「そんな力、ありませんから。もしあったら、この世はとっくに焦土と化してます」
いじめる奴らや周りで見ているだけの連中、救ってくれない父を恨んだあの頃は、力が欲しかった。毎晩のように、自分の特別な力が学校を潰し奴らを殺す妄想に耽っていた。でもそんな力は終ぞ芽生えることなく、朝になっても学校は角一つ欠けていなかった。
大人になった今なら父が救わなかった理由は分かるし、力がなくて良かったと思っている。もし力を与えられていたら、私は間違いなく最後の人類になっていた。それくらい、荒みきっていた。
「許せない人間は、山のようにいます。死ぬまで許せません。でもそいつらを脳内でどうこうするより、犬との暮らしを妄想している方が幸せなので」
胃を痛め心を病みながら恨み続けるより、余程幸せになれる。犬はいい。真方は鼻で笑い、山際からこちらを伺っている職人に視線を向けた。
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